Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

私高本は「猫頭でバカ」である!(No.1966)

2011-12-31 21:30:56 | 批評の批評

私高本は本年批評活動に於いて重大な誤りを犯した。この「猫頭」を充分に反省し、2012年からの批評活動に繋げたい(涙



 普通、「大晦日の記事」って、「今年を振り返って」とか「来年を展望して」になるわな。私高本もその予定だった(涙

 「今年はデュトワ指揮マーラー:千人 が素晴らしかったよな!」とかホザきながら、かけたCDが「テンシュテット指揮マーラー交響曲第3番 夏の交響曲」。第3楽章聴いて、心が凍てついた!

先日聴いた 「内藤稚子 + 岡原慎也」 と調性違うじゃん!!!


 事前に音程を確かめて演奏会に行った。それまで聴いた演奏会は全て「イ短調」だった。テンシュテット指揮盤は、器楽なので間違いなく「ハ短調」。「内藤稚子 + 岡原慎也」はその中間だったようだ。変ロ短調だったのか? ロ短調だったのか? そこまで、わかっていたら「世紀の大誤報」はしない(爆涙

 Daily Classical Music Critique in Tokyo を立ち上げて15年以上が経過した。その間、これほどの大誤報は(今回を含めて)2回。前回も(絶対音感無いくせに)「ハイCを綺麗に張った!」と書いたら、

オケピットの人から、「半音低いパート譜廻されて弾いたんですが」


と言われた(涙
  絶対音感無いクセにエラそうなこと書いたらアカン、を家訓にしなければならない鴨。
-------
 内藤稚子さん、岡原慎也さん、マーラーさん、ごめんなさい><
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下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」2011.12.26批評(No.1965)

2011-12-30 22:33:19 | 批評

デュトワ クラスの大指揮者に 下野竜也 が飛翔する予感を抱かせた「第9」の超名演!


  「2011年末の下野竜也指揮読響第9」と比較するのに最適な演奏会があった。

デュトワ指揮N響「マーラー:千人」と比較すると、下野竜也指揮読響「第9」の価値の高さが実感できる


 どちらも合唱あり、ソリストあり、打楽器の鳴り物あり、である。作曲家にとっての「最大編成の交響曲」も共通している。


 N響「マーラー:千人」は、N響創設85周年の大事業であった。ソリストは(直前キャンセルが1名不測にも出たが)「世界的歌手」が基本、リハーサルも充分に時間が取れたハズ。合唱団は、東京混声合唱団が責任を請け負ったアマチュア合唱団。会場はNHKホールで2回公演。
 読響「第9」は、例年の「第9」であり恒年行事。ソリストは「日本人トップ」、合唱団は「日本トップ合唱団 = 新国立劇場合唱団」、リハーサルは定期演奏会ほどは積み重ねていないハズ。(過去の事務局トップインタビューより)。全7回公演で、東京オペラシティが4回、サントリーホールが2回、横浜みなとみらいホールが1回、「さすらい人」そのものである(爆

 読響「第9」は、日替わり定食のように会場が変わるのが「ホールトーン」を掴む上で、難しい。N響「千人」は、反響板を相当後方に下げるので、「響きを作る」が難しい。

(続きは新年に「ここ」に書きます。「懺悔」を書く必要に迫られたので悪しからず)
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下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」2011.12.26批評 予告(No.1964)

2011-12-26 23:53:01 | 批評
本日、下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」本年最終公演を聴いて来た。20日公演に続く感動的演奏。明日批評を掲載する。(20日の第4楽章と併せた形の批評になる予定です)
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下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」2011.12.20批評 後編(No.1963)

2011-12-25 23:07:23 | 批評

デュトワ クラスの大指揮者に 下野竜也 が飛翔する予感を抱かせた「第9」の超名演!



 ベートーヴェン「第9」は、重点は第4楽章にあるのだが、実は「第3楽章」が要点。ここで躓くと「第4楽章」で盛り上がることは私高本の経験した「第9」に限って言えば皆無。合唱団員で乗っていた時は、どんなに遅くても第3楽章前には舞台に上がっていたので、(第2楽章以前は知らない公演もあるのだが)第3楽章はこれまでの全ての公演を聴いている。(ちなみに「中編」はヒドいね。展開部と再現部も判別できないほど、安い焼酎呑んでカキコしたらいかんがな > 練習番号自体は合っていても。恥ずかしいのでこっそり修正しておいた)


「第9」の第3楽章は、「第1ヴァイオリン + 第4ホルン の協奏曲」


が私高本説。誰1人賛成しない。佐伯周子も、(リスト編曲版を弾いた)川上敦子も、我が家の飼い猫も(爆

 それより大切なのが(爆

Andante と Adagio をどのように「テンポ設定するか?」


なのだ。これは結構キツい。超有名指揮者(外国人)でも(経験不足なのか)ボロボロになったことも経験した。オケはそんなに悪く無かったのに(涙


下野竜也は「第9:第3楽章の Adagio & Andante」を目立たせないように指揮した


 ヒョーロンカが書くのは簡単なんだが、実際は(相当に)難しい。「テンポの交替」を気付かれないようにするのは、至難の技。根本的にベートーヴェンが「テンポ変更指示」だからなあ。下野竜也はこの難事業を『2007年の読響との第9』で習得したようだ。
  「下野竜也の第9」は、第3楽章でベートーヴェン先生の無理難題をこなす。

Adagio & Andante の差を聴衆の聴かせないようにする


だった。私高本は「テンポの差はベートーヴェンの指示だろが!」派なのだが、ここまでうまく「Adagio → Andante」が実現できるのか? であった。 あぁ、出来るんだよね(爆
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下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」2011.12.20批評 中編(No.1962)

2011-12-22 22:00:42 | 批評

デュトワ クラスの大指揮者に 下野竜也 が飛翔する予感を抱かせた「第9」の超名演!


 ホールに入ると「第9」の時は、「楽譜」を見に行く。「指揮者用スコア」「第1ヴァイオリン」と「右側に座る弦楽器」は必ず見える。「第1ヴァイオリン」はブライトコプフで随分使い込まれた感じの楽譜。おそらく旧版。スコアも「ブライトコプフ」で旧版っぽい。

おそらく読響が既購入の楽譜使用 ← 経費削減の為


と推測。下野竜也 が事前に新版2種(ベーレンライター&新ブライトコプフ)を読み込んでおけば、実際の演奏は「下野竜也の理想」になるからだ。ベートーヴェン「第9」は新旧版で小節数は全て一致しているからだ。(ブルックナーは、こうはいかないぞ(爆)

 右側に移動する。何と「チェロ楽譜」が置いてある。あれれ、2007年末「下野竜也の第9」は第2ヴァイオリンだったような気がするのだが。猫頭なので「錯覚だったかな?」と思いながら座席へ。渡辺和 のプログラムノートに「2007年は対向配置」と明記されているぞ!


私高本が「下野竜也 がはっきり1ステップ上に昇った」と聴こえた演奏会は「ブルックナー交響曲第4番ロマンティック」の東京オペラシティ公演


だった。ブルックナー は「曲に依り好きな作曲家」で交響曲は第2番~第4番が特に好きである(← チョット変です、ハイ)ので、在京オケの「これ!」って演奏会は随分聴いた。読響シェフだった アルブレヒト & スクロヴァチェフスキ のブルックナーは(何番かは問わず)全部聴いた。インバル が読響振った第8番は2日共聴いた。
 ・・・で、その中で「抜群」だったのだ > 下野竜也のブルックナー第4番!

 特筆すること1点だけ記す。

金管配置が左から、ホルン → チューバ → トロンボーン → トランペット で、舞台奥中央に ティンパニ でトロンボーンとトランペットの境の奥


であった。この配置がブルックナー第4番には最適! インバル や スクロヴァチェフスキ を越えた「音響」を導いていた。私高本が聴いた日は収録が無かったが、次のサントリーホール公演は収録され、「深夜の音楽会」で日本テレビで放映されたので、ご覧になった方も多いことだろう。サントリーホール公演も全く同じ金管配置であった。


 猫頭の私高本は「ブルックナー第4番と同じような金管配置かな?」と思って座席に着くと唖然。ティンパニ以下の打楽器が左に寄せられている! 「ティンパニは絶対に真ん中で無ければならない」と力説する指揮者にも(合唱団員として歌った「第9」で)出会っていたので、これはびっくり。楽団員が入場して来て更に唖然。

打楽器が最も左なのは事前配置で分かっていたが、その隣がトランペット、次にホルン、思い切り(弦楽器を挟んで)トロンボーン3名が右に孤立。あぁ、合唱バスパートの真ん前にトロンボーンか!



 冒頭のホルンが鳴る。名手=山岸博が今晩も引っ張ってくれるのか! の安心が訪れる。きちんと「ピアニッシモ」で開始される。


 ホルンを「ホールの左壁から離す」とピアニッシモは問題無いのだが、「フォルティシモの返り」が弱くなる。「響きがホールに充分か?」は全て指揮者 = 下野竜也 の判断に任される。「第9」は長い曲で、ピークは第4楽章にあるのだが、「演奏がつまらないと第1楽章で帰宅する客が多い公演」である(爆
 この日も「特別公演」であり、スポンサー様が多くのチケットを買い上げてくれたおかげ様で成り立った公演。スポンサー様は(大きな声では言えないが)外来オペラやら、外来オーケストラ(特にベルリンフィルとかウィーンフィルとかを好む)に耳慣れている(← 私高本とは違うよ!)ので、さっさと帰宅される方が多い。まあ、しゃーないわな(爆

 指揮者 = 下野竜也 が「きちんと全体設計」する必要がある。下野竜也は「答え」を用意していた。

第1楽章再現部入りで「ピーク」を作る。弦楽器も管楽器も「美しい音色の範囲」で奏でる。「フォルティシモ」はティンパニに硬いバチで渾身に叩いてもらう


だった。第1楽章練習番号「K」だよ。あぁ、このティンパニは、東京では読響でしか聴けない響き! 岡田全弘、ありがとう!!! 下野竜也は、オーケストラメンバーに全幅の信頼を置いて設計している!

弦楽器を決して押し付けない。それは「岡田全弘 の ティンパニ で充分出せるから」と信じているからだ


 N響では全く無理。演奏技巧水準が全く違うからね。合唱団の問題とかではないよ。

 この日の「VIP席」はおそらく1階席通路前後と2階正面席。遅刻客が多い上に「遅れて来たのに座席案内」が多かったから。このスポンサーのおかげ様で「この値段でこんな素晴らしい第9」聴けるのだから感謝。結構、残業で来れなかった人が多いのは残念。是非是非聴きに来て下さいよ > 演奏いいのだから

 第1楽章の精度高い演奏を聴かせた 下野竜也 + 読響 は第2楽章でも「驚愕の解釈」を披露。トリオで、「第1ヴァイオリンを半数にした箇所があった」のだが、何と「内側プルトに演奏させた」である。普通「半数指示」があると「前半分」か「外側」になる。読響に限らず、どこの在京オケでもそうだよ(爆

 第3楽章演奏から類推すると「当日のコンサートマスター = 藤原浜雄のアイデア」の可能性が高い。また、その事実は「内側プルトも外側プルトに匹敵する読響の充実ぶり」を示した、と思う。この辺りはいきなりのことだった(響きが変わって「あれっ?」と思って見たら、次に移った)ので、12/26公演ではきちんと聴くが、批評を書くかどうかは分からない。何せ「猫頭」じゃけん(爆


 第3楽章のホルンは「基本的には1番ホルンの「山岸博」が吹いた。「基本的に」と奥歯に挟まった書き方をしたのは、「2番ホルンが低音を吹いた」からである。

(続きは日曜に書きます。26日公演チケット購入には間に合うからね。)
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下野竜也指揮読響ベートーヴェン「第9」2011.12.20批評 前編(No.1961)

2011-12-21 21:33:16 | 批評

デュトワ クラスの大指揮者に 下野竜也 が飛翔する予感を抱かせた「第9」の超名演!


  ベートーヴェン「第9」は、私高本にとって シューベルト「グレート」と並んで、世界中でたった2曲しかない「スコア無しで全貌が理解できる交響曲」である。東京交響楽団が「東響コーラス」を設立して以来、毎年毎年「歌う」か「聴く」を年末に続けて来たから、おそらく25年位になっていると思う。(来年度の東京交響楽団のチラシに「25周年」と記載されているので、合ってるように思う。)素晴らしい「第9」に随分出会って来た。私高本の「音楽的成長」が「第9」と共に有った、と言って過言ではない。過去最も印象が深かった「第9」は、ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・アンサンブルの東京公演だった。(オケ名は、次の世代に変わった後だったかも知れない。猫頭なのでよく覚えていない。)

ベートーヴェンの楽譜を「新たに読み直した」上に、アンサンブル精度がオケも合唱もソリストも良かった


ことが印象深い。


2007年年末の 下野竜也 + 読響 + 新国立劇場合唱団 の「第9」は、最も感銘を受けた「第9」の1つだが、「ガーディナー指揮」には至らなかった記憶がある


 その時は理由はわからなかった。傷は「ガーディナー東京公演」よりもむしろ少なかった。だが、

ベートーヴェン や シューベルト の名演を聴く時に来る「心を鷲掴みにされる吸引力 = デモーニッシュな魅力」がほんのわずか足りなかった


 あくまで「ガーディナー東京公演」と比較してである。他の「第9」に比べれば圧倒的だった。2007年の「下野竜也指揮読響&新国立劇場合唱団の第9」も。第1514号 に「2007年初日批評」が手短に掲載されているので、興味ある方は読んで頂きたい。(自分の過去の1記事にリンク貼るのは意外に手間かかるので、「カテゴリー=批評」から、飛んで読んで下さい。)いつもいつも、ノー天気に書いている私高本が「日本最高」と書いていて、あまり具体的には書いていないことがお分かり頂けるだろう。

今回の 読響プログラムノートは ベートーヴェン「第9」では、異端児 = 渡辺和!


 昔々、某オケの「第9」プログラムノートで暴言吐いて、私高本が食いついた仲である。当時は若かったのでお許し下さい > 渡辺和先生><

 しかし、「ベートーヴェン理解」が随分と進んだんですね > 渡辺和先生!


4年ぶりに「読響で第9」を振った 下野竜也 は別人のように踏み込みが鋭かった。骨格も、細部も


 開演前に配置されていたパート譜は「書き込みだらけの旧ブライトコプフ」だった > 第1ヴァイオリンとチェロ
他は遠いから全く見えない><
 下野竜也は「きちんとスコアを見る指揮者」だが、この日は立てたスコアを1度も開けなかった。それでいながら、指示は的確だった、全て。バリトンソロが入っての第4楽章では、全部「歌詞を口パク」しながらの指揮だった。フーガはやっぱ「最初のパート」で口廻りの筋肉は動いていた(爆

 この4年間で「下野竜也に何が有ったのか?」は皆目わからない。読響を聴いている限りだと

下野竜也 は「ドヴォルザーク」と「ヒンデミット」で大成果を挙げた


だろう。ヒンデミットは「文化庁芸術祭大賞」も受賞したし。当該演奏会聴いたが「何が何だか訳わからん!」状態だったんだが(爆

 まあ、「猫頭」だからしゃーない(爆

下野竜也指揮 読響 + 新国立劇場合唱団「第9」は、最終日=12月26日公演以外は全席売切


なので、批評読んで買えるチケットも26日だけ。25日までに書き上げれば良いので、残りは後編に書きます。気長にお待ち下さい。
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「内藤稚子 + 岡原慎也」マーラー演奏を巡って(No.1960)

2011-12-20 14:38:47 | 歌曲作曲家・マーラー(1860-1911

内藤稚子 + 岡原慎也 を聴いて、『マーラーはソプラノのために歌曲を作曲した』を確信した


 本日号は「演奏会批評」では無い。「作曲家論」である。


 CD や DVD で録音(&録画)ばかり聴いていると、「マーラーは中声用に作曲したとの勘違い」が起こる。昨日号で紹介したように「リュッケルト歌曲集」なんて、メゾソプラノとアルトとバリトンしか録音しない(爆


 今回「内藤稚子 + 岡原慎也」で聴かせてもらって特に感銘を受けた曲がある。「夏に交代」である。

内藤稚子 + 岡原慎也 は ハ短調で歌った


 実は、産まれて初めて「歌の ハ短調版」を聴いたように思う。

マーラー交響曲第3番「夏の交響曲」第3楽章ではハ短調なのに、大半の録音はイ短調であり、違和感があまりに大きい


 時には、ト短調 で歌われることもある。イ短調版でも「2点Fシャープ」があるからだ(爆

 「夏の交響曲」は名前の通り、この楽章が命名の由来の1つ。交響曲では「ロンド主題」に用いられ、何度も何度も「ハ短調」で鳴らされる。

ピアノ伴奏の「イ短調版での2点Fシャープ」は「ハ短調での2点A」になるので、第4~第5楽章で起用された「アルトソロ」には無理、とマーラーが判断


の可能性が高い。さすがに「ソロだけで重唱無しで2名のソロ起用」はマーラーもためらった様子。結局、純器楽に編曲された。同じような例は「パドヴァのアントニウス 魚へお説教 Des Antonius von Padua Fischpredigt」でも起こっているのだが、この曲は「オーケストラ伴奏歌曲にも編曲され、3つの版がある」から原調で歌われることが多い。「夏に交代」は ハ短調 で歌われない。

 実はこれは「楽譜」に問題がある。

ペトルッチの「マーラー:子供の不思議な角笛から全24曲ピアノ版」


にリンクを貼っておくので、「Vocal Scores : 6. Ablösung im Sommer」を選択してほしい。

イ短調版 だけが掲載されている(爆



 これは「ペトルッチ」の目利きが悪い訳ではなく、「ヤマハ銀座店」や「アカデミア」でも置いてある楽譜は「イ短調」。相当深く「若き日の歌」を研究している学者か評論家でないと、説明できないだろうが、「猫頭の私高本」の理解では以下の通り。

  1. 「マーラー指揮者」は、「マーラーオリジナルオーケストラ伴奏版の存在しないピアノ伴奏歌曲」には興味を示さない


  2. 「マーラー歌手」は、「オーケストラ伴奏歌曲」には興味あるが『歌手要らず交響曲楽章』には興味を示さない


  3. 「新マーラー全集」などと一部の熱狂的信者は吹聴するが『旧マーラー全集』はどこにも存在しない!!!


  4. 「ピアノ伴奏歌曲集」は「高声用」「中声用」にすると「売れ易い」から慣習的にこの形で販売し、「中声用」が売れ行きが良い


  5. 内藤稚子 や 岡原慎也 以外は誰も「マーラーの全貌」を知らないので、「売れている中声用」だけで歌う



 マーラーは(交響曲の時間の長さから)ブルックナーと比較して論ぜられることが多い。ブルックナーは(質はともかくとして)旧全集が刊行された。さらに「東西ドイツ分裂」なんてことがあり、「過激な新全集」が出版された。「旧全集の方が良い」と言う指揮者が近年激増中 > ブルックナー(爆


まだ全貌が見えていない状態 > マーラーの「若き日の歌」 で、2曲も名演を聴かせてくれた 内藤稚子 + 岡原慎也


に感謝。さらに

「リュッケルト歌曲集」もソプラノ用が原曲か? と感じさせた 内藤稚子


にさらに感謝!!!


 最後に残った 「子供の不思議な角笛から」 の 「ラインの伝説」 について。この曲旋律線がメロディーメーカーとして、歴代最高峰の1人 = マーラー の作品中でも最高の1つ。だが、ワーグナー「指輪4部作のパロディー」であることが、曲の理解としては最も重要。マーラーは「オレは、ワーグナー楽劇は全部把握しているんだぜ!」とこの短い1曲で思いの丈を告白している。テンポは「揺れまくり」で、歌手とピアニストの「息」が合い難い曲の1つ。
 交響曲第4番「天上の生活」の第4楽章の「ついで」にソプラノが歌うことの多い曲であり、「ト長調 → ホ長調」の原調でソプラノが歌っていることの多い曲の1つである。

 ・・・が、

この日の「内藤稚子 + 岡原慎也 の ラインの伝説」ほど、「悪女くさいラインの乙女」が情感たっぷりに歌うのは初めて聴いたように感じる


 録音よりもライブの方が感銘深いからかも知れないが、内藤稚子 + 岡原慎也 の演奏解釈 + 演奏技術 のおかげと感じる。


 内藤稚子、現在41才(と打ち上げで聞き出した)。これだけのマーラーが歌えるソプラノは、日本に限らず少ない。今年の4月の 日本ドイツリート協会関西例会批評 でも書いた記憶があるのだが、もしかしたら「私高本の猫頭の錯覚」かも知れない。

「今回歌った内藤稚子」が内藤稚子の本当の姿


である。日本ドイツリート協会は「録音をすぐに渡す」と言って「鴨」を集める癖があるが、昨年夏の講習会修了演奏会録音も「2冬」過ぎても渡さない可能性が高い(← 丸1年は遥かに過ぎた!)
 内藤稚子 は、「マーラーとの相性は抜群に良いソプラノ」なので、全盛期に「最高の成果」を産み、残して欲しい。岡原慎也と「思いの丈を全て演奏し、録音する」がベストと思う。

 昔々、二期会の 黒田晋也 がこのように話していた。

「歌手の実年齢を考えてオペラを聴いてはいけません。全員が40台で親子かそれ以上年の離れた役柄を演じる必要がありますから」


と。う~ん、確かに。50台に突入すると私高本のように「糖尿病の合併症で苦しむ毎日」が訪れてしまう可能性は高い(涙

 内藤稚子 と 岡原慎也 に深く感謝する次第である。

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岡原慎也のマーラー(ピアノ伴奏)「内藤稚子とのデュオ」 批評 後編(No.1959)

2011-12-19 17:26:42 | ピアニスト兼指揮者・岡原慎也
 2011年の演奏会通いも残り「第9」のみとなった。ジルベスターコンサート とか、「くるみ割り人形」を聴きに出掛けた時期もあるのだが、私高本には「年末は第9」である。年とともに「悪い演奏を聴いた時に体に悪影響出る」が頻出して来るようになったので、年を追う毎に厳選に厳選を重ねるようになった。今年は

下野竜也指揮 読響 + 新国立劇場合唱団 だけ2公演聴く


ことにした。リンク貼っておいたので興味ある方は「読響コンサート情報」覗いて下さい。公演数が6回(+ 読売新聞チャリティ「第9」がもう1回あるが、主催でないからか、全席売切になって説明が面倒くさいからか、HPに記載無し)と在京オケ自主公演最多の上、「全席売切公演」がサントリーホールと横浜みなとみらいホールで続出。チケット争奪戦に出遅れたので、東京オペラシティ公演になってしまった(涙
 「第9」批評は書くかも知れないし、書かないかも知れない。ご要望があればコメント欄にどうぞ。今日のサントリーホール公演はチケット入手出来なかったので、家で「シューベルトの合唱曲集」を酒呑みながら聴いて過ごす(爆


岡原慎也ピアノ伴奏にて「全ての自由を獲得した」内藤稚子


 厳密に言えば、これからここに書く文章は「批評」と言えない。「日本ドイツリート協会 関東支部公演」を聴いた後に、打ち上げで 内藤稚子 に(普通の感覚で言えば)密着インタビューした内容が半分以上含まれるからだ。「批評」は演奏家との距離が近過ぎては成り立たない。遠すぎて「共鳴できるもの」が何も無ければ「高評」は生まれない。良心ある評論家は誰もが悩むジレンマである。これから書く文章は「基本は批評」であるが、心情的に「内藤稚子寄り」になっていることを初めに述べる。(岡原慎也寄りでは無いぞ~!)

 まずは客観的に述べる。

岡原慎也HP


内藤稚子HP



 お2人の公式HPである
 ・・・で、12/11(日)に聴いた曲は「日本ドイツリート協会」がテーマに掲げた「マーラー」で埋め尽くされていた。以下の通り。

  1. 「私はほのかな香りを吸い込んだ」 ~ 「リュッケルト歌曲集」より


  2. 「夏に交代」 ~ 「若き日の歌」より


  3. 「ラインの伝説」 ~ 「不思議な子供の不思議な角笛から」より


  4. 「美しさゆえに愛するなら」 ~ 「リュッケルト歌曲集」より


  5. 「記憶」 ~ 「若き日の歌」より



 聴いた直後の感想として「マーラー歌曲慣れしているソプラノじゃん!!!」と言う感じ。低い音域でじらしながら、高い音域で ズバッ! と斬り込む。「武士の女子版」ってな演奏。素晴らしかった。(細かなことまで、ごちゃごちゃ文句垂れる)作曲家 = マーラー が聴いても「ブラヴォー」の演奏だった、と思う。こんなソプラノが東京に居たのかよ!!!
 私高本は絶対音感が無いから断言はできないが、高声用と中声用が出廻っている楽譜の内、全5曲「高声用」で歌われた、ように聴こえた。「原調」と書かない理由は、「リュッケルト歌曲集」は「高声用」「中声用」同時出版だったからだ。どちらが原調かは私高本の猫頭ではわからん(泣

マーラー歌曲の難しさの1つが「上も下も要求される」


 シューベルトでも要求されるのだが、声楽家の「声の負担」がより大きい。特に「下」である。

これまでのマーラー「リュッケルト歌曲集」で最も評価が高いのは ベイカー(Ms) + バルビローリ指揮盤


だろう。バーンスタイン指揮の2回、ピアノの1回も「ベイカー + バルビローリ」には人気は叶わない。テンシュテットの録音は今のところ発売されたことがない。バーンスタインは、バリトンと2回、メゾソプラノと1回録音している。ご覧の通り「中声」ばかりなのである。ちなみに

EMI「マーラー大全集」の最終Disc16 に「私はこの世に忘れられて」が8演奏収録されているが(Disc8と併せ)全部「中声」、これが大EMIの録音の全て!


である。つまり「下の支えがしっかりしていないと聴けない」を意味している。

内藤稚子 は「ベイカー並み」に下の支えががっしりしている!


 これには驚き! その上で上がきらきらと輝きを保ちながら伸びやかに響く。

岡原慎也 のピアノが『バーンスタイン並み』に自在にサポートしていた


ことは特筆モノ。1曲バーンスタインがピアノ伴奏では録音を残していない曲(「美しさゆえに愛するなら」)も含めてである。


 終演後に、「プログラムに織り込まれていた 内藤稚子 のチラシ」を読んだ。マーラー は1曲も無かった。帰宅してインターネット検索して 過去のコンサートチラシ を見付けた。これまた マーラー は1曲も無かった。このまま「演奏家人生」を歩んで 内藤稚子 は納得できるのだろうか?
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デュトワ指揮N響バルトーク「青ひげ公の城」他 批評 後編(No.1958)

2011-12-18 15:07:04 | 批評

ドイツ音楽と近接ハンガリー音楽に「最高の結果」を産んだ デュトワ指揮N響


  N響が「創立85周年」記念に選んだのが、マーラー「千人」だった。通常の「3日の練習+GP」ではなく、入念に稽古を重ねた演奏だった。「A定期の日程が(昔の木金から)現状の土日に移動」してからは、

N響定期は 練習3日→ A定期 → 1日休み → 3日練習 → C定期 → 1日休み → 2日練習 → B定期 が基本パターン


になっている。N響コンサートカレンダー で確認してほしい。発表されている全ての定期がこのパターンである。他のオケは、練習を前倒しにパズルのように組み込むオケもあるのだが、N響は基本的に「定期に向けて総力戦」だ。ご覧頂いておわかりのように、「B定期は練習日程が1日少ない」ので緻密な練習は難しい。「創立85周年記念」の次に「緻密に演奏したいメインプログラム」はバルトークの作品であっても「オーケストラのための協奏曲」ではなく、オペラ「青ひげ公の城」であった。


「青ひげ公の城」は「変な曲」である。新国立劇場中劇場でも上演された(飯守泰次郎指揮)のだが、やはり満足できる演奏にはならなかった。飯守泰次郎の指揮や解釈の問題ではないのだ。

バルトーク「青ひげ公の城」は『オルガン=パイプオルガン指定』があり、相当に活躍する!


のが原因。オペラハウスにパイプオルガンが常設されている劇場はヨーロッパは多いのだろうか? 今回配布されたプログラムノート(太田峰夫)には何も「オルガン問題」が記載されていなかったが、太田峰夫 は「青ひげ公の城」をナマで聴いたことあるのだろうか???


 マーラー「千人」の時の反省が デュトワ または N響(両者かも知れない)にあり、配置が大巾に改善された。

  1. パイプオルガン奏者を 舞台上手 に置き


  2. パイプオルガンのパイプの下(通常はオルガン奏者の位置)に金管バンダ8名を配置



 バンダの人員は「千人=7名」「青ひげ公の城=8名」だから「千人」でもこの配置は出来た(爆
S席の定期会員の座席の真後ろから「フォルティシモの嵐が降り注ぐ」ことは無くなった。まず最初に

青ひげ公 = バリント・ザボ と ユディット = アンドレア・メラース がNHKホールの広さを感じさせない充実した声!


の素晴らしさに感謝する。2人とも同役での評価が極めて高く、デュトワ + N響 がこの公演を任せるに指名しただけの価値がある。冒頭、青ひげ公の朗読でオペラは開始されるが、ザボ の声が物語をグイグイと引っ張る。

デュトワ指揮N響は、バルトークの「不気味な側面」を描き出した緻密な演奏


 デュトワは「バルトークが望む箇所ならば、声楽に覆い被さるようにオーケストラを畳み掛ける」のが印象的。声楽陣の声のダイナミクスの巾があるからこそ実現可能なのだが、N響がこれほど「鳴った」のは、この12月のデュトワ指揮 が久しぶりである。
 パイプオルガンとバンダ金管の扱いも前週より「近い」距離なので、一体感あり。日本のオペラハウスでは聴くことが不可能な名演であった。


 前半の ブラームス:ヴァイオリン協奏曲について。ヴァイオリン リサ・バティアシュヴィリ は、丁寧な演奏で好感が持てる。「美しい音」の範囲で音を扱いながらダイナミクスの巾も充分広い。デュトワ は丁寧にきちんと細かな点まで合わせて「ブラームスの魅力」をオーケストラから引き出していた。これで

全ヴァイオリン協奏曲中、最大の規模の協奏曲 = ブラームス協奏曲 の「スケール感」が出れば最高!


だったのだが、バティアシュヴィリ は「響きの戻り」が無いことを気にした様子。NHKホールは「響きの戻り」がほとんど無いからなあ。まだ32才と若いので、経験を積めば さらにスケール感を描けるようになるだろう。好きなタイプのヴァイオリニストなので、CD購入して聴いてみることにした。
 第2楽章の有名な オーボエソロ は

茂木大輔 が吹いたが見事。カーテンコールで 2度立たせていただけの出来


であった。


デュトワが指揮するとN響が輝く


 来シーズン以降、1プログラムでも多く振って欲しい。「芸術監督」の地位を用意して迎え入れてほしい次第である。


 最後に1言だけ。

1番トランペットに関山が吹いていなければ、「音楽が壊れない」


 N響は真剣に考えてほしい。
 
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『CD時代』がもうすぐ終わる(No.1957)

2011-12-17 19:58:29 | CD&DVD 紹介&批評
HMVジャパン CD DVD 書籍 音楽 ゲーム

日本経済新聞12月14日東京版朝刊40面(=一番裏)の「回顧2011音楽」にショッキングな記事が掲載されていた。文化部 多田明の署名記事は次のように始まる。・

2011年、日本はCDや音楽配信の売上高を合わせた音楽市場の規模で、史上初めて米国を上回り、世界第1位の音楽大国になる可能性が高い。


 日本の人口は米国の半分。マジか?

日本はCD、配信とも縮小が続くが、単価の安い配信への移行が急速に進んだ米国の落ち込みがそれ以上に大きいからだ。


 う~ん、売上伸びたからではないのか、、、


 7月8日以来5ヶ月ぶりにCDを発注するために、HMV と 日米英のアマゾン を覗いて見た。(基本的に手持ちのCDが充分にあるので頻繁にはCD は買わない。)EU圏のアマゾンで英国からしか買わないのは「英語しかメールやりとりが出来ないから」である(爆

 驚いた!

  1. 元気の良かった廉価盤レーベル "DOCUMENTS" "membran wallet" "membran" が「壊滅的」とも言える惨状で、新譜数が激減している


  2. 米アマゾン が「MP3ファイルダウンロードだらけ」になり、新譜の1部をディスクで扱っていない


  3. 閉店店舗が急増しているらしく、日アマゾン出店者に「値札付き大特価品」が続出


  4. SACD 新譜がやたら多くなり、しかも高い(爆


  5. NAXOS が「ブルーレイディスク新譜」を出していた



だったからだ。ちなみに、英アマゾン は値段が上がっていたが、これは為替変動のためではなく、米アマゾンに比べて高かった品が多いのが印象的。今回、英アマゾン には発注しなかった。


この状況は「既視感」あり! 『1981年頃のLP状況に極似』


である。翌1982年に「CD発売」になる。既発の廉価盤がやたら出たと思ったら、「スーパーヴァイナル」とか「ダイレクトカッティング」とかの高価品がグチャグチャ出廻っていた(爆

 私高本も「スーパーヴァイナル」「ダイレクトカッティング」も両方購入した。但し「何で普通の盤の2倍も3倍もするのか?」が猫頭では理解できず、共に数枚の購入にとどまった。当時から猫頭だったことだけは覚えている(爆

 1981年当時の「東京のLP市場」は今は亡き「石丸電気レコード売場」が市場を左右していた。年に数回「傷物輸入盤バーゲン」があり、私高本もお世話になりました!

2011年は「HMVジャパン」が「東京のCD市場」を左右しているように見える > 価格がバーゲン時には最も安いから


 だが、嗅覚鋭い「NAXOS」が「ブルーレイディスク新譜」を出すようになっている。

ブルーレイディスク使ったら「フィッシャー=ディースカウのシューベルト歌曲大全集」が1枚で収まるハズ


である。圧縮率次第かも知れないが「グラアム・ジョンソンのシューベルト大全集」も1枚で収まるような気がする。「現在のCD規格=サンプル周波数=44.1kHz」の音質を保って。「MP3程度の音質で構わなければ、フィッシャー指揮ハイドン交響曲大全集」も1枚で収まるような気がする、、、


 そうなると、どうなるのか? を予測する。私高本は「猫頭」なので、1982年の「CD出現時」と同じことが再現する、としか思えない。つまり

  1. 直前まで意欲的な企画を実施していたマイナーレーベルが「即死」状態になる > 米VOX、米NONESUCH 等


  2. 「売れ筋」以外はカタログから消える



 VOX とか NONESUCH とか「CD世代」は知らないレーベルだよな(爆

 この予感がしたので「いずれ安くなったら聴いておきたい」と思っていた盤は全て発注した。大半がHMV。日アマゾンと米アマゾンにも少々。もしかしたら「ブルーレイディスクで今よりも安くなる可能性」はある。だからこそ

今の価格で「納得」できるモノは全部入手することにした次第


である。読者の皆様のお役に立ったでしょうか?
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デュトワ指揮N響バルトーク「青ひげ公の城」他 批評 後編予告(No.1956)

2011-12-13 23:10:19 | 批評
 私高本は「猫頭」である。2ちゃんねるでも「猫頭を揶揄するスレッド」が立っている(爆
やっぱ「頭は猫頭」の水準である。だが、「耳は良い」よ。先日の「パドモア+フェルナーの冬の旅」で文句書き込んだ人、
きちんと「自分の情報書き込んで」ちょ(爆
-------

ドイツ音楽と近接ハンガリー音楽に「最高の結果」を産んだ デュトワ指揮N響



(後編は日曜に書きます)
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岡原慎也のマーラー(ピアノ伴奏) 批評 前編(No.1955)

2011-12-11 23:49:05 | ピアニスト兼指揮者・岡原慎也
 唐突に予告も無しに、「岡原慎也のマーラー」を聴いて来た。「指揮」では無く、「ピアノ」。ブログ読者の皆様はご安心して読んで下さい><

 5日前には 神戸新聞松方ホール にて、ドヴォルザーク室内楽を聴いて来たばかり。1週間に2回「岡原慎也演奏会」を聴くのは、「同一プログラム」以外では初めてのハズである。演奏会全体は「日本ドイツリート協会 関東例会」なので、多彩な(岡原慎也よりも若々しい演奏家ばかりが)登場して全力の演奏を聴かせてくれた。その中で(岡原慎也と共演できるはずもないピアニストに)素晴らしい人が2人いたので名前だけ書く。

西川典子 と 志茂征彦


 この2人は「ピアノパートに最善の心配り」をしていたが、結果としては「岡原慎也会長」ほどの演奏の高みには達しなかった。原因は「猫頭の私高本」にはワカラン。岡原会長に尋ねてほしい。
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 演奏順は「おそらく、歌手の生年順に若い方から並べて、最後にJDL 会長&副会長の模範演奏」の予定だったのだった、と推測される。随分(良い方に)見込みが違ったのだが(爆
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 演奏順では「最後に据えられていた JDL副会長ソプラノ = 浅田啓子 と 岡原慎也」から批評する。マーラー自身が(どんな形でも)オーケストラ化しなかった「若き日の歌」から4曲。まず間違いなく、「登録された曲を全部外しての模範演奏」と推察される。プログラミングがキツいわなあ(泣
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「ハンスとグレーテ」の超名演を聴かせた「浅田啓子 + 岡原慎也」


  この曲難しいんだよね。超初期のマーラーの名曲なんだが。フィッシャー=ディスカウも「生涯に1回だけセッション録音だけ残した曲」だし(爆

 浅田啓子JDL副会長が選んだ曲なのか? 岡原慎也JDL会長が選んだ曲なのか? は全くわからん(爆

 これほど素晴らしい「ハンスとグレーテ」が聴けたのは幸いである。


信じられない素晴らしい「マーラーの世界」を「若き日の歌 ~ リュッケルト歌曲集」で聴かせてくれた 内藤稚子 + 岡原慎也


には深く感謝するばかり。(私高本の猫頭だと)これが初の共演。内藤は「関東人」と打ち上げでは言っていた。
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 「模範演奏」にするはずだった「マーラー:若き日の歌」の「浅田啓子 + 岡原慎也」は素晴らしかった。おそらく「岡原慎也の頭」に想定していなかったことは

模範演奏を遥かに越す演奏が「一般参加者 = 内藤稚子」に生まれたこと!


だろう。このソプラノは凄いわ > マジで

「夏に交代」では「滑稽に交代する様を十全に表現」したし、「ラインの伝説」は(書き難いのだが)他の組も演奏したのだが、「全く別の超名曲」に聴こえた名演だった!

(続編は水曜日以降に掲載します)
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パドモア+フェルナー シューベルト「冬の旅」批評(No.1954)

2011-12-10 23:45:26 | 批評
 本日、所沢ミューズにて開催された パドモア+フェルナー の日本最終公演を聴いた(私高本1人)後、皆既月蝕を 佐伯周子 と見た。演奏は深く考えさせられる出来であり、皆既月蝕は「欠け始めから皆既月蝕なるまで晴天」に恵まれた!


ピアノ~ピアニッシモを巧みに操る パドモア の魅力全開の「冬の旅」だが


  パドモア は人気あるテノールで、古楽~シューマン辺りで特に評価が高く、録音も多い。かく言う私高本も「グラアム・ジョンソン のシューマン全集」録音で聴いて興味を持ったテノールである。ナマで聴くのは今回が初めてである。
  パドモア は、「ピアノ ~ ピアニッシモ の美しい声」が魅力であり、高い声域は「基本的ファルセットで抜いた声」で歌う。「カウンターテノール」の技巧の応用である。甘くたっぷりと歌い上げる。テンポを小刻みに揺らして表情を付ける。アンコールで歌われた「夜と夢」などでは、その甘い声に酔い痴れる!
 この日も「パドモアの魅力」は充分に聴かせてくれた。第1曲「おやすみ」は、それはそれは「よそ者の寂寥感」を見事に表現。第2曲「風見の旗」では、シューベルトが指示している「フォルテの高音域」をファルセットで抜いて歌う。第1曲に続く寂寥感がホールを支配する。ピアノの フェルナー はブレンデルの弟子として有名。パドモア とは「アン・デア・ウィーン劇場」を始めとし、「シューベルト3大歌曲全曲」で共演している。第1曲前奏冒頭第1小節から「4つの8分音符」が不均等に演奏される。師匠=ブレンデルとは随分解釈が異なるものだ。アクセントはほとんど出さない。左ペダルを巧みに操り「ピアノ~ピアニッシモ」を パドモアの音色 に合わせる。右ペダルの使用法はこれまた ブレンデル とは全く異なり「ハーフペダルは用いず、基本的に音符1つ または 1小節毎に踏み替える」。音の濁りを極端に嫌う奏法だ。第3曲「凍った涙」では「涙」を象徴する「1拍目裏からの2分音符」を遠くに響かせるように鳴らす、あたかも「鐘の音」のように。効果的だ。

 ・・・で、この調子で全24曲が演奏通せれば、「パドモアの魅力」だけが浮かび上がるのだが、有名な第5曲「菩提樹」辺りになると、都合の悪いことが発生してしまう。まず、ピアノ。

「菩提樹」の短調の中間部を導く「フォルツァートで 左手の符点2分音符 と 右手の3連符16分音符の箇所」で フェルナー は「音が濁らないよう」に3連符の束毎に踏み替える


 力感が全く生まれない。ダイナミクスも「フォルテにも達しない」感じ。パドモア は(苦手な低音域に)処理を苦労して、ほとんどピアノ1本槍で中間部を通したかのよう!
 曲集の中でも超有名な曲なので、これは「締まらない」こと甚だしい。長調が戻って来た時も、「表現の差」がほとんど無いので、「安らぎが戻って来た感」が全く無い。パドモア の解釈だと推測するが、「美しい音域が狭い」のが原因だろう。中間部最後の「中央C の すぐ下の H の2分音符」は ピアノ と言うもののほとんど響きが無かった。


 同じ問題が第11曲「春の夢」で起こる。

「春の夢」は「冬なのに、春の夢」を見てしまう「夢見心地の気持ち良いフレーズ」と「冬の現実の耳を塞ぎたくなるフレーズ」の対比が命! の名曲


だが、

ピアニスト=フェルナーは「フォルティシモの中のフォルツァート」を轟かせ無いし、パドモア は「軽く流す」


 何と平坦な薄い表現に「シューベルトの名曲」は貶められたことだろう(泣
 「春の夢」は「冬の旅:第1部」のピークの1つなのに(爆涙


パドモア + フェルナー の演奏で耳障りだったことの1つに「前奏ピアノの音量がシューベルトの要求よりも必ず大き過ぎる」こと!


がある。フェルナーは「ソロピアニストでも売ってま~す」を宣伝したいのだろうか? テノールが入る箇所から、いきなり無意味に音量が落ちるのは興醒め。何だか安い酒で悪酔いした時の感触に近い。(若い頃はバカな呑み方をしたものだ > 私高本)
 パドモア は「前奏」には全く興味が無いようだ。同じテノールの シュライヤー や ボストリッジ とは「違う音楽観」だ。シュライヤー も ボストリッジ も「前奏まで責任持った音楽作り」だったからなあ。


 「パドモアの高音域」は全部が全部ファルセットで抜く、と言う訳では無い。それでは「音楽作り」が成立しないからだ。例えば第21曲「宿」の終結部周辺は(高音域であるが)実声で「張る」。だが

「nur」のEsも「Nur」のFもぶら下がり!


だった。「第9コーラスのバス」でさえ、「F実声」だよ! これはヒドい!


 1部に熱狂的なファンがいるし、また第1曲やアンコールでは極めて魅力的な声を聴かせてくれるテノール = パドモア であるが、シュライヤー や ボストリッジ の域には遠い、と感じた演奏会である。しかも(曲数は2曲か3曲か絶対音感が無いので断定できないが)下に移調して歌った曲があったし(泣
 フェルナー が「師匠 = ブレンデル」の域に達することは不可能。「音を聴く」ことが出来ていないからだ。しかも

フェルナーは『譜めくり無し』の演奏だったが、楽譜を自分でめくる際に「音が落ちる」が多発!


 「シューベルトの音楽」を完全に「舐めている」。

 シュライヤーは引退した。ボストリッジは全盛期を過ぎた。「ドイツリートのテノール」を牽引してくれる次世代テノールが現れてくれることを首を長くして待つ。私高本の首が「ろくろ首」になっても構わない。「シュライヤークラスのテノール」が1日も早く登場してほしい限りである!!!
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デュトワ指揮N響バルトーク「青ひげ公の城」他 批評 前編(No.1953)

2011-12-09 22:48:30 | 批評
 「世紀の名演」をマーラー「千人」で聴いたので、デュトワ指揮N響 に大いに興味が湧き、「中4日」の定期初日を聴きに行った。


 昔々、まだ20世紀だった頃、「Daily Classical Music critique in Tokyo」と言うサイトを主催しており、常時 2000アクセス/日 くらいで盛り上がると 3000アクセス/日 を越していた。今の大体 10倍(爆

 そんな当時に「在京オケ 事務局トップインタビュー」なんて、企画も実行した。N響は当時、副理事長 = 原さん が答えて頂いた。確か、N響退任後は「サントリーホールの重責」を担っていらっしゃた「在京クラシック音楽界の重鎮」である。私高本は、21世紀に入って「川上敦子マネジャー → 岡原慎也東京公演マネジャー → 佐伯周子マネジャー」に重点を置き、批評活動は20世紀の 1/10以下になっている。だが、

今回の デュトワ指揮N響マーラー「千人」の凄みある超名演は、「批評したい魂」を揺さぶった!


 これほどの名演に「基本的に岡原慎也と老田裕子以外は首都圏から絶対に足を伸ばさない私高本」が(糖尿病平均余命まで後わずか15年)の時に、出会えるとは思っても見なかった。主要7名のソリスト中、3名が交代、しかも1名は直前の交代!!!

 それが「ヨーロッパから、ソリスト8名と大人の合唱全員を引き連れて来た ベルティーニ指揮ケルン放送交響楽団の千人」を比較にもならない遥かに上廻る演奏に導いた「今の瞬間のデュトワ指揮N響のベストの続き」を聴きたい、と感じたからである。私高本は頭は「猫頭」だが、耳は良いよ。NHKホールで「どの座席が音は良いか!」なども含めて、「Daily Classical Music critique in Tokyo」の財産もあり、熟知している。2ちゃんねる「N響スレッド」で「音がスカな1階後方座席で文句垂れてるバカ」とかを見ると腹が痛い(爆

 あんな席で聴く方が悪い > しかも自腹で(爆

(続きは日曜か月曜に書きます)
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岡原慎也+シュトイデ&仲間たち室内楽 批評(No.1952)

2011-12-08 18:23:47 | ピアニスト兼指揮者・岡原慎也
 神戸市にて初めて演奏会を聴いた。神戸駅前の足の便が良い立地の上に神戸港が一望できる高さに位置する神戸新聞松方ホールの演奏会。前半に

  1. シューベルト : 弦楽四重奏曲第12番「断章」D703


  2. ドヴォルザーク : ピアノ五重奏曲第2番作品81



が据えられており、ここまで聴いて大阪のホテルに戻ったので、後半は聴いていないから全くわからない。前半だけの批評である(爆


 シューベルトは「ウィーン風」を前面に打ち出した演奏。柔らかい「ウィンナ・トーン」で美しい音だけの範囲でダイナミクスを大きくは取らない。この作品にシューベルトが込めた「不気味さ」は後ろに隠れて、「親しみ易さ」がホールを包み込む。「コンサート全体の序曲」の役割のように演奏された、と書くのが最も適切だろう。

ドヴォルザークの「表情変化の大きさと変わり身の速さ」を見事に描いた 岡原慎也 + シュトイデ&仲間たち



ドヴォルザークピアノ五重奏曲第2番は、3重奏以上の規模の室内楽曲中「1つの楽章内の表情変化が最も濃い」作品


である。シューベルト「鱒」五重奏曲も表情濃いのだが、「楽章内」がこれほどめまぐるしく表情は変わらない > 例え「変奏曲楽章」であっても。「ピアノ五重奏曲」は、シューベルト、シューマン、ブラームス、ドヴォルザーク の4名のそれぞれ1曲のみが超圧倒的な人気があるのだが、(正直に告白すると)ドヴォルザーク だけは「名手」で無いと聴けないのである。中間2つの楽章でピアニストにも弦楽奏者にも「ソロ」並みの負担を強いるからだ。

 岡原慎也 も シュトイデ も仲間たちも、テンポもダイナミクスも自在に操りながら、ドヴォルザークならではの美しい旋律線を楽しげに バトン受け渡ししながら奏でて行く。互いにしみじみ聴き合ったり、煽ったりしながら。

 ウィーン、ザルツブルク、神戸 で共演しているのだが、東京でも 共演してほしい限りだ > 岡原慎也 と シュトイデ! 今回も「東京公演」で聴きたかった次第である。音響も良い「浜離宮朝日ホール」で演奏会あったのだから > 今回
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