Piano Music Japan

シューベルトピアノ曲がメインのブログ(のはず)。ピアニスト=佐伯周子 演奏会の紹介や、数々のシューベルト他の演奏会紹介等

岡原慎也+老田裕子「世界初共演」を聴きに行くことにした(No.1908)

2011-07-30 22:43:06 | 演奏会案内
 これ「演奏会案内」にしていいのかなあ? 「日本ドイツリート協会」関西支部例会。一般の人も3000円突っ込めば聴けるが、会員&会友は1000円なので、(普通は年会費=4000円の会友になって)聴くのが、効率的。私高本自身がそのパターンだし(爆

 前回大阪行きの「岡原慎也指揮者デビュー」批評後半が書けていない状態。あぁ! 批判集中止む無し!!


 いくら泣き叫んでも、「1ヶ月以上書き落とした私高本が悪い!」のだから、批判は全て(菅首相程度に)受ける。難しいことは、「日本」では、首相もわからんのだから「猫頭=私高本」には無理だぞ(爆


岡原慎也+老田裕子「世界初共演」


と聞いたがマジかよ?
 この機会を逃したら、悔やみ切れない。7/30発の切符が高過ぎだったが、7/31発ならば(なんとかぎりぎり行けるので)早朝07:09新横浜発で聴きに行くことにした。こんなスケジュールは「音楽家」には無理だろが(泣
 貧乏はしたくないものだ(爆涙
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「子供の不思議な角笛から」の謎を解く(No.1907)

2011-07-29 20:37:55 | 歌曲作曲家・マーラー(1860-1911

1人の歌手による「決定的名盤」が存在しない「幻の名曲 = 子供の不思議な角笛から」の謎を解く(5)


不人気原因その5

「歌手1人が歌う」パターンだと、ピアニストが萎縮してしまう!(除く フィッシャー=ディースカウ)


 前回書いたのは「指揮者が独裁者となってしまい」失敗に陥るパターン。大半の録音が前回パターン。
・・・で、フィッシャー=ディースカウ、ハンプソン、ゲンツ の3名のバリトンだけが(収録曲数には若干の意見の相違があるが)全曲録音を実行してくれている。全3名のバリトンには感謝するばかり!!!

 ・・・なのだが、ハンプソン と ゲンツ の録音を聴くと違和感大! 他のマーラー歌曲(もちろんピアノ伴奏曲のこと!)に比べて、ピアニストが「引っ込んだ」印象なのだ、ハンプソン も ゲンツ も。

 特に ハンプソン の演奏はショックだった。なぜなら

ハンプソンは、「新マーラー全集」編纂の要にいて、当該の「子供の不思議な角笛から」全曲編纂にも関わっていたことが周知の事実だったから


である。「ハンプソンのマーラー」は全盛期のセッション録音は全部持っている。作曲順(と言われている順に並べると)「ピアノ伴奏曲」を含め以下の通りになっている。

  1. 3つの初期の歌曲 ルッツ(p)1992.01


  2. 「若き日の歌」 4曲=オリジナルピアノ伴奏=ルッツ(p)1992.01、10曲=ベリオ編曲オケ版ベリオ指揮フィルハーモニア管1992.10


  3. 「さすらう若人の歌」バーンスタイン指揮ウィーンフィル1990.02


  4. 「さすらう若人の歌」ベリオ指揮フィルハーモニア管1992.10


  5. 「子供の不思議な角笛から」全15曲 パーソンズ(p)1991.11 & 1993.06


  6. 「リュッケルト歌曲集」全5曲(1曲の編曲版を含む)バーンスタイン指揮ウィーンフィル1990.02


  7. 「リュッケルト歌曲集」全5曲 リーガー(p)1996.03


  8. 「亡き子をしのぶ歌」バーンスタイン指揮ウィーンフィル1988.10



 素晴らしい盤歴! バーンスタイン指揮ウィーンフィルの2年後に、ベリオ指揮フィルハーモニア管で録音した「さすらう若人の歌」を発売したのは(もしかしたら)「大事件」かも。普通「5年」は発売禁止だからなあ > 同一演奏家の同一曲。オペラの端役とかなら特に話題にもならないだろうが、マーラー「さすらう若人の歌」だからなあ(爆


・・・で、この全ての中で

はっきり「子供の不思議な角笛から」全15曲 パーソンズ(p) が劣る


のである!


 信じられない! 「シューベルト楽譜校訂者」の演奏が「校訂している楽譜に限って落ちる」なんて無い! フィッシャー=ディースカウ、バドゥラ=スコダ、デムス、ギーゼキング! 全員が「最善を尽くした演奏」を残してくれている。何で???


 ハンプソンは「フィッシャー=ディースカウの録音全てを詳細分析した」と思われる。セッション録音だけでなく、FM放送などで流された海賊盤までも > 今は「正規盤」で聞けるのも多いが。

「フィッシャー=ディースカウの子供の不思議な角笛から」は「息が短過ぎる」がハンプソンの結論


であった。

とにかく「息の長さ」を全ての曲で、フィッシャー=ディースカウ越え、をする


を目指し、実現した。
 ・・・で、聴くと「冗長な限り」なのだ。テンポ設定は間違いなく ハンプソン。 1年半後に「再録音」しているので「1時の気の迷い」では無い。


 ここで(書き難いことだが)書く。

パーソンズ ほどの名ピアニストでも、屈してしまったのか!


と言う事実。「子供の不思議な角笛から」は上演頻度が異常に低いので、抗弁し難いのだろうなあ > ピアニスト

あぁ、「佐伯周子のピアノで!」の気持ちが起こって来ることが出来るのだろうか? > ハンプソン でさえも、パッとしないのに(爆涙


「歌手1人が歌う」パターンだと、ピアニストが萎縮してしまう!(除く フィッシャー=ディースカウ)


は残念ながら事実である・
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「子供の不思議な角笛から」の謎を解く(No.1906)

2011-07-25 20:06:05 | 歌曲作曲家・マーラー(1860-1911

1人の歌手による「決定的名盤」が存在しない「幻の名曲 = 子供の不思議な角笛から」の謎を解く(4)


不人気原因その4

歌手が全力を注げない曲集=「子供の不思議な角笛から」


 う~ん、言い難いが言う。「歌手が全力を尽くせない曲集」である。私高本は、フィッシャー=ディースカウ の信奉者の1人であり、この曲の演奏も大好き。
 ・・・で、

大概のヒョーロンカが「1押し」にするのが、フィッシャー=ディースカウ も加わっている「セル指揮盤」だ。


 もちろん、持ってます、ハイ。これが「良くない」んだよね、フィッシャー=ディースカウ も シュヴァルツコップ も。「EMI の マーラー箱16枚組」にも入っている「名盤扱い」なんだが(苦笑

 私高本は、マーラー「子供の不思議な角笛から」については「犬のサンダル集め」癖が出ている。「シューベルトピアノソロ」「グルダ」「1957以前のマリア・カラス」「マーラー:子供の不思議な角笛から」「グールド」「1991年以前のブレンデル」くらいか? これは(過去の演奏から類推して)「おそらくスカだろうな?」と思うものまで全部収集してしまう!! あぁ、「犬のサンダル集め」じゃん(泣
 犬もきっと「ヤバい!」と思ってサンダル集めているんだろうなぁ。


フィッシャー=ディースカウ の「子供の不思議な角笛から」セッション録音一覧



  1. 1959.06 Karl ENGEL(p):"Des Antonius von Padua Fischpredigt"のみ


  2. 1968.03 George Szell/London Symphony Orchestra 4曲をソロで、5曲を Schwartzkopf と共演で


  3. 1978.02 Barenboim(p):全12曲


  4. 1989.04 Barenboim/Berliner Symphoniker:全12曲



 これが全てである。これから「ライブ録音」はマリア・カラスのように「膝上録音」が雨後の筍のように出てくるかどうかはわからん、「フィッシャー=ディースカウが「残したい」と思ったものは上記が全て。
 ・・・で、聴いてみると、「セル指揮盤」って、全部の4録音中、演奏水準が最も低いんだよね、「録音技術上」でなく、「演奏水準上」で。ちょっと前までは「何故だかわからん、オレはピアニストのマネジャーだから、歌手の状況まではわからん」と思っておいたのだが、何回か聴いていて、(錯覚かもしれないが)思い当たる節があった。

フィッシャー=ディースカウの立場(&シュヴァルツコップの立場)では、「本番でどの曲を採用されるか?」の権限が全く無かった!


 盲点である! 私高本は「猫頭」なので当初全く解らなかった。「何で9年前のエンゲル共演盤よりも表現が後退しているか?」が(爆


「予定されていたレコーディングがリリース前に流れる」ことはあっても、「他の歌手に切り替えられる」ことは他の曲では皆無


である。出来不出来やギャラの配分やら(以下省略)で、リリースされないことはある。だが、「他の歌手に切り替え」されることはあり得ない > マーラー「子供の不思議な角笛から」以外では。世界一流の歌手が控えていないからなあ(爆


 セル指揮盤について考えてみよう。フィッシャー=ディースカウもシュヴァルツコップも「一応この曲のこの箇所歌って来てね!」とセルに言われて集まったハズ。だが、最終テイクと同じかどうか? これは当事者しかわからん。マーラー指示よりも「2名歌手への配分」が多いし。


 ここで考えてほしい。

歌手が「ここをこのようにしてほしい」と言えたか? どうか?


 ごちゃごちゃ言えば、「もう1人の歌手」に即チェンジである。「セルの言うがママ」になっただろう、ことは(猫頭の私高本でさえも)理解できた。この録音の「全貌設計」は『セル1人』である! セルは元々「独裁者」の評判高いし(爆


歌手が全力を注げない曲集=「子供の不思議な角笛から」


 残念ながら、これは真実である(泣
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐伯周子のシューベルト(No.1905)

2011-07-23 22:01:58 | ピアニスト・佐伯周子
 先日のユーロピアノの演奏会以来、久しぶりに1日中「佐伯周子のシューベルト」を聴いた。いつも練習しているピアノよりも1ランク大きいピアノであり、「聴き映え」は抜群。いろいろなことを改めて感じた1日だった。


 最近は、メノッティとかプロコフィエフとかブルックナーとか、シューベルトよりも大いに時代が後の作曲家ばかり取り上げているような気がする。(おいおい、ブルックナーとメノッティが一緒くた???)
 やはり「佐伯周子のシューベルト」はいいぞ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野優子ピアノリサイタル 批評(No.1904)

2011-07-22 23:57:15 | 批評
6月27日の演奏会の批評。素晴らしい演奏を聴かせて頂いたのに、これまで1言も触れていなくてごめんなさい。全て私高本の責任です><


「21世紀のシロティ」=上野優子


 これまでのリサイタル中、最も「全プログラム」に万遍無く「伝えたいこと」がはっきり聴き手に伝わって来た演奏会であった。上野優子は、2011年現在最も注目しているピアニストの1人である。「ボルトキエヴィチ」の作品を次々と紹介するばかりでなく、ラフマニノフ や プロコフィエフ でも(ヒナステラ などでも)名演を「1度も期待を裏切らずに」演奏してくれている。半月以上も批評が滞ったには(私高本なりの)言い訳がある(爆

何で「上野優子は国際コンクールで評価されなかったのか?」


という疑問。これまでの(東京の主要)リサイタルを上野の好意で全部聞かせて頂いていて、「何で?」と思っていた。この日、私高本の猫頭でも、その一端を聞かせて頂いたように思う。これまで多くを聞かせて頂いていたにも関わらず、きちんとした批評が掲載できなかったのは、全て私高本の猫頭が原因です。すみません><


 上野優子のピアニズムは(フランスとイタリアに留学していた、と経歴に書かれているが)

「ラフマニノフやスクリャービンやシロティが居た旧ロシア帝国時代」そのもののピアニズムを上野優子は引き継いだ


である。これは、ラフマニノフやプロコフィエフでは相当に優位になるのだが、(大きい声では言えないが)

古典派以前の音楽では「どう処理するのですか?」と言う問題に直面する


1面を抱えている。上野はこれまで、バッハでは「シロティ編曲版」などを聞かせてくれていた。演奏は「シロティ方向」に的を射ており、説得力が高かった。近現代曲については(ロシア作曲家中心に)素晴らしい!

 ・・・で、「ハイドン → モーツァルト (→ ベートーヴェン) → シューベルト」は、焦点が合わなかった。バッハ/シロティは良いのに、である。今回のリサイタルについて

ボルトキエヴィチ & プロコフィエフ は最高!!!


であった。プロコフィエフのソナタ第3番「古い日記帳から」からはこれほど素晴らしい名曲だったのか! と感じたほど。過去に聞いた「ロシア人ピアニストの全て」よりも感動したことをここにお伝えする。

ボルトキエヴィチ「バラード」作品42 は、日本初演


 印象批評になるが、「メトネルの名作」に近い作風。個人的には素敵!

 ショパンのソナタ第3番ロ短調も、「ラフマニノフが弾くショパン」風の『超濃いロマンティズム』が前面に出た名演だった。


 書きにくいことだが書く。(これしか私高本の価値は無いからなあ)

「上野優子のスカルラッティ」は「シロティ時代そのまま」を再現しており、時代考証とか原典考証は一切なく、「濃厚なロマンティズム」が前面に出た演奏


である。
 これまで、「バッハ/シロティ」などで(化粧して演奏して来た)上野優子が「仮面を脱ぎ捨てた瞬間」を聞かせてもらったことに感謝するばかりである。私高本は「えっ? そこでクレッシェンド??」なんて思いながらも楽しんでいたのだが

コンクール審査員には「決して受け入れられない奏法」のスカルラッティ


であった。これか! 「上野優子の音楽で譲れないポイントは!」


 「ピアノの状態」も過去最高だった > 上野優子の(私高本が聞いた)全演奏会で。

 さらに深く「上野優子のピアニズム」を聴きたい。基本的には「ラフマニノフ以降のロシア派」が手堅い。だが、私高本の興味としては、もっと広い時代を聞きたい。
 上野優子のHPを読むと、北海道の演奏会などが計画されているようだが、糖尿病体ボロボロの私高本としては「首都圏演奏会」に的を絞っている。前に ロンド イ短調K511 を聴いたときは「?」と思ったが、

日本モーツァルト協会例会にも登場する人気!



 これ「1回券」が取り難いことが超有名な「日本モーツァルト協会」。「上野優子が聴きたい!」一心で会員になってしまった(爆
(他の公演も聞きたいのだが、佐伯周子に嗅ぎ付けられないことを祈るばかりだ(泣
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下野竜也指揮読響ブルックナー第4番 批評 続(No.1903)

2011-07-20 20:20:26 | 批評
 ブルックナー交響曲第4番の批評の続きである。ヒンデミットは何も無いので御了承のほどを。


 ppp の弦5部の上に「mpの1番ホルンがたゆたう」ように指示されているのが、第1楽章冒頭。「ブルックナーの至福の時」の開幕なのだが、(他の曲に比べて)「ホルンがコケる」確率が高いことでも有名。私高本の記憶だけでも何度となく失望に陥ったフレーズ。指揮者はいろいろと工夫を凝らす箇所。基本的に「そんなに絞らないでもいいよ!」と言う甘いささやきで「オケと妥協」する方向。どんな開始なの? 注視して、注聴した。

読響弦楽器は ppp そのもの、山岸の1番ホルンは mp


 マジかよ! スクロヴァチェフスキー でももっと安全策で開始したところ!(全曲聴いているぞぉ~!) 下野は「押さえつける」のではなく、読響を「軽くなでているかのよう」にデュナーミクを下げていた。これだけ「静かなブルックナー第4番の開始」は聴いたことがない。木管が加わってからの、クレッシェンドも極めて自然。ff確立の「練習番号A」での轟きの『空間の広がり』が何と左右上下に広かったことか!

 私高本は「ブルックナーで評論家デビュー」した(1996年「音楽現代」)くせに、ブルックナーをまとめて取り上げたことは(デイリー時代を含めて)1度も無い。今後も無いだろう。どちらかと言えば「初期マーラー」の方が感性に合うし。
 しかし「ブルックナーでデビュー」したように、ブルックナーは好きだし、これまでも「インバル、アルブレヒト、スクロヴァチェフスキー」の演奏会はほぼ逃さずに聴いて来た。インバルは(オケなのかも知れないが)「DENONのCD」よりもアンサンブル合わせが低いことが都響では多く、読響との第8番以外は納得行く演奏を聞かせてもらったことはブルックナーでは無い。アルブレヒトは細部がどうも合わない。棒が強引なのだ。スクロヴァチェフスキー は、第5番 などは超名演だったが、第4番は印象が薄い。他にも生前の 朝比奈隆 + 新日フィル & 東響 & 大フィル & N響 も東京公演は全部聴いたし、若杉 + N響 もシリーズ開始1/3 は聞いた、、、
 特にブルックナーを聴くのが少ない、とは言えないと思う。

 ・・・が、この日の「下野 + 読響」ほど、

ブルックナーのスコア通りに ppp → ff で開始された演奏は一切記憶に無い


 もっと「大きめ」に開始されてしまうのだ!


 下野は「読響を信じて任せた棒」。(他の指揮者も同じような棒で開始した人もいたのだろう。)オケは応えて「ブルックナー通りの ppp」を響かせ、その上に(あたかもウィンナホルンかのように聴こえた)ホルンが乗る。おそらくフレンチホルンだと思うが、私高本の視力では楽器は特定できなかったことも明記する。倍音の輝かしさよりも、基音が「鳴る」。

リンツからウィーンに出てきたブルックナーが「交響曲1曲を託した音」が鳴る


 「アルブレヒトのブルックナー」とは全く違う方向を目指した音。(アルブレヒトはもっと細部にこだわるが、全体設計は「ブルックナー」に関しては楽譜通りには、特に近接のダイナミクスがならない!)「スクロヴァチェフスキーのブルックナー」にはふくよかな響きが似ているところもあるが、スクロヴァチェフスキーがもっと「レガート」方向を求めるのに対して、

「下野竜也のブルックナー」は(使用楽譜の「ハース版」通りに)アーティキュレーションが「切れが良い」


 う~ん、こんなに「ベートーヴェンとシューベルト」を手本にしたのか! ってほどであった。例えば第1楽章練習番号「B」とか。スタカートやアクセントがこれだけ「浮き立つ」演奏は「珍しい」というよりも「無い」。多くの場合、クレシェンドに重心がかかっていて、「クレッシェンド中のアクセント」までは求めないか、に聴こえることが多いが、下野は細部まで詰める。

決して「弓を押し付ける奏法」はしない、で全曲通した


ことが印象深い。オケ信じていないと出来ないし、「オケが指揮者信じていないと出来ない」からだ。


第2楽章の「弦楽器のアーティキュレーションの明快さ」はこれまでの「ブルックナー観」を打ち壊すほどだった


ことだけ記す。ホルンをはじめとする管楽器も素晴らしかったことは第1楽章と同じである。


 第1~2楽章も素晴らしかったのだが、

圧巻だったのは、第3~4楽章


 これは、「演奏」が個別奏者の演奏が原因ではなく、ブルックナーと下野竜也が原因。(前半楽章でも薄々感じていたのだが)前号末尾に書いていた「金管楽器配置」が信じられない効果を産んだ!

弦楽器のppからかすかに聴こえて来たホルンが、トランペットと「呼応」するのが、左右で鮮やかに「音響として」広がる!!!


 確かに、トロンボーンもチューバも「ホルンの和音の支え」である。「低音金管楽器」と「トランペット」が最も奥で左右に呼応する。まさに「狩の信号ラッパ」だ。私高本はこの曲これまで何回聴いて来た? ナマも多いが、CDも腐るほどあるぞ(爆

左端にホルン、右端にトランペット でその間にチューバとトロンボーンを入れた配置のブルックナー第4番は初めて聴いた!


 「東京のオケの定期」または「市販のCD」で聞いたことのある読者の方は、コメントに書いて下さい。オケ定期ならば、事務局に尋ねます。CDならば購入して聞きます。もし、「手持ちCD」だったならばCDプレーヤー買いなおします><


第3楽章「練習番号O」から、「トランペットに拍頭のアクセント」を付けて fff を表現!


は感動! 全ての楽器を「押し付けずに鳴らしている」とトランペットが轟くのか、、、


 第4楽章は(第8番に次いで)長いのだが、全く「長さ」を感じさせなかった。「アーティキュレーション処理」が信じられないほど正確であり、ベートーヴェンかシューベルトがそこで語っているかのように、「歯切れが良い」が印象的。帰宅してから楽譜見たら「楽譜の通り」! う~ん、私高本は今まで何聴いて来たのかなぁ?(爆


全4楽章が「弦楽器のpp」の上に「ホルンが旋律を奏でる」開始のブルックナー交響曲第4番!


を初めて知った。「楽譜の読み」が足りないことは認めるが、「耳」は悪くない、と思うぞ。指揮者の信頼に応えたホルンパートは(1番だけでなく)全員が素晴らしい! 管楽器も弦楽器も素晴らしかったし、ティンパニ も(出番は少ないが)的確。
 ・・・って、やっぱり

指揮者 = 下野竜也 の解釈&棒 が素晴らしかった + 読響との信頼が抜群!


ということになる。この日が「東京ブルックナーデビュー」と書いてあったが、信じられん。

 終曲後、完全に響きがなくなって、さらに下野が動いてから拍手&ブラヴォーの嵐。聴衆全員が本当に感動した演奏だった。下野 + 読響ありがとう。(前半のヒンデミットは2曲ともによくわかりませんでした><)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下野竜也指揮読響ブルックナー第4番 批評(No.1902)

2011-07-18 23:11:55 | 批評

「広がる響き」と「愉悦感あふれるリズム」に満ちた 下野竜也「ブルックナー東京デビュー」


  ブルックナーは「大指揮者が振る作曲家」のイメージが最も強い作曲家の1人、と私高本は感じる。同じ交響曲作曲家の ベートーヴェン、ブラームス、マーラー に比べても強い。読響は、アルブレヒト → スクロヴァチェフスキー と2代続けて「ブルックナー指揮者」を常任に擁したこともあり、「日本最高のブルックナーオケ」の評価を得ているが、それだけに若手指揮者が振ったのは記憶に無い。過去に常任指揮者経験がある 尾高忠明 くらいが最も若い、ような気がする(爆


 前半の ヒンデミット については、曲をよく知らないので、何とも書きようが無い。「ヒンデミット流パロディ」は、同じくワーグナーを題材にとったパロディであれば、個人的感性は「シャブリエ」の方が楽しい。「オーケストラのための協奏曲」は、バルトーク などが手本にしただけあり楽しい曲だが、楽章の対比などが(私高本の感性と)周波数が合わない感触。
 ・・・で、一番ビビったことは「ヒンデミットには、ソロホルンの山岸が乗っていなかったこと!」ブルックナー第4番は「全4楽章がホルンで旋律が始まる脅威のホルンの腕ひけらかし」だからなあ! 休憩時にコーヒー飲みながらビビッていました><


 後半のポジションに面々が着席する。1番ホルンは山岸だった。ホッとする。何やら見慣れない座席配置だ。木管の後ろが金管なのはいつも通りなのだが、

左から、「ホルン → チューバ → トロンボーン → トランペット」の並び


 弦は16型、木管は定数通りで、金管は トランペット と ホルン の1番にアシスタントを付けている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下野竜也指揮読響ブルックナー第4番+ヒンデミット(No.1901)

2011-07-17 19:27:13 | 演奏会案内
 明日7/18(祝・月)から2日連続で標題の演奏会がある。

読響は4月からの今シーズン「全回全席完売」を繰り返していた


ので、演奏会紹介が難しかったが、今回は両日共に当日券が発売される(爆

読響最新ニュースに練習日2日目の練習状況


が掲載されている。クリックして読んで下さい。わかることは

  1. 練習は3日取っていること(この日は中日)


  2. コンサートマスターは藤原


  3. 1番トランペットは長谷川


  4. ヒンデミットの1曲目は「小物」を使って思いっきり「遊び」があること



 面白そうなので初日に聴きに行くことにした。時間が18:00開演。1時間早いので注意を!

 ・・・って書いているヒマがあったら、批評書かなければいけないのに、、、
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」批評 その5(No.1900)

2011-07-14 21:21:49 | 批評
 1900号か、、、

 脳梗塞を(しかも2回も)起こした時からすると信じられない。これも佐伯周子のシューベルト演奏のおかげ、と思っている。
・・・で、今日はメノッティ「ブリーカー街の聖女」批評の続きである。(シューベルトとの関連は全く無い!)

  1. 作品批評
  2. 音楽批評
  3. 演出批評

が全く不足だよなあ(爆


 メノッティは、この「ブリーカー街の聖女」世界初演でも「演出」を担当しただけで、「指揮」はシッパーズに任せた。興味の中心が「演劇的」であった様子がありありと感じられる。
 メノッティ は、極めて柔軟な作曲家であり、作風は千変万化。だが大筋の方向として次の2点は指摘できるだろう。

  1. 前年1953年に亡くなった プロコフィエフ の音楽を模した


  2. バーンスタイン「ウェストサイド物語」を先取りしている



 「オペラ作曲家」としては、「台本まで全部支配するタイプ」なので、ワーグナー や チャイコフスキー の路線。この2名よりも「オペラ作曲家」として、名声が得られなかった原因は(書き難いが)

「美しいメロディーラインが遺せなかった」に尽きる


 「プロコフィエフ風の皮肉交じりの曲想」ははっきり出てくるのだが、プロコフィエフのバレエ「ロメオとジュリエット」や「シンデレラ」ほどの「美しいメロディーライン」が今1つ聞こえてこない、のだ。
 舞台設定は、おそらく バーンスタインが「手本」にしただろう。「ニューヨークのイタリア人街」。この『ブリーカー街』というのが、どんな街なのか? は全く見当が付かない。「新大久保のコリアタウン」みたいな感じなのだろうか?


 とても「言葉」を大切に作曲していることは聞こえてきたのだが、「演劇性」と「音楽の昂揚」のバランスがやや「演劇性」に寄っているようにも思える箇所がいくつかあった。例えば第1幕第1場の「アンニーナ狂乱の場」。どう考えても、「演劇性優先」にしか感じられない。拍手&ブラヴォー完全拒絶だし。
 メノッティは、「アメリカオペラ樹立の功労者」であるが、その分、苦労も多かったようだ。このオペラも「世界初録音」は「世界初演」の3ヶ月後になっている。予算の問題だったろうなぁ(泣
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」批評 その4(No.1899)

2011-07-12 18:04:52 | 批評

プリマドンナオペラは、プリマドンナが『場』を作り上げる!


  ヴェルディ「椿姫」、ドニゼッティ「ルチア」を思い浮かべてほしい。ヴィオレッタ、ルチア に聴いた後の感動は集中している。「プロヴァンスの海」だけ良くて「良かった公演」と思う聴衆は皆無だろう(爆
 東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」が実施できたのは、橋爪ゆか & 福田玲子 2名のプリマドンナが居たおかげである。これについての感謝は、これまでの批評に書いた通りである。「ブリーカー街の聖女」は、管楽器編成が「変形2管」と言うか「変形3管」と言うか? オーボエとファゴットだけが2管で、他が3管、ホルンだけ4本でチューバ1本あり。さらに、ティンパニ1名 + 他打楽器3名、ピアノ(スタインウェイのAだったように見えた)、ハープ と言う大編成である。弦楽器は 8-6-6-4-3 だったが、響きとしては「8型」と言うよりも「3管編成」に聞こえる。しかも結構「強奏」が多い曲だ。橋爪 & 福田 の ff が無ければ「埋もれてしまう」のだ。東京近辺に「民間オペラ団体」は多いが、「自団体メンバーだけ」で公演が成立しているのは、「東京オペラプロデュース」と「東京二期会」くらいだと思う。二期会に比べて1桁少ない(2桁?)会員の中から、このような日本初演オペラの難しい主役をダブルキャストで選出できるのは、これまでの活動の成果に他ならない。

 橋爪 と 福田、2人の歌唱は全く違った。書き難いことだがはっきり書く。(これしか私高本の価値は無いからね)

ff 方向の音量は2名にほとんど差が無かったが「ダイナミクスレンジの巾広さ」は 橋爪ゆか が圧倒的に上であり、表現力全体も圧倒的に 橋爪ゆか が上だった


 その原因は2点に集約される。

  1. pp 方向に、橋爪ゆか は無限に音が広がるが、福田玲子は mf まででそれ以下の音量ではストンと「響き」が無くなる


  2. 橋爪ゆか は「アメリカ人か?」と言うほど『自然なアメリカ英語』に聞こえるが、福田玲子 は「母音だけで押す」唱法で「子音」がほとんど識別できない



 これだけであるが、これはオペラのプリマドンナを務める上で「天と地の差」になった。もっと前にきちんと書くことができれば、福田玲子 に良かったのだが、大好きな シャブリエ「エトワール」アロエス役 などを聴いた時には、

私高本の猫頭がフランス語を全く理解できていなかったので、「きちんと批評出来なかった」ことが原因。深くお詫びする!


 福田玲子 は音程は正確だし、音量はふくよか。だが、「何か違和感あるよな?」と感じていた。フランスオペラで聴いている時は(私高本の猫頭では)何が原因か? 全くわからなかった。私高本の仏語力が原因。avoir の活用さえ、全貌は未だに理解できていない程度のバカである(泣

 「外国語力理解力皆無」と揶揄される私高本も、メノッティ「ブリーカー街の聖女」程度の英語は「字幕を見れば」理解できる。(字幕制作の増田恵子さん、ありがとうございました!)「イタリア語なまりで歌った方がいいのか?」とかはわからないし、「イタリア語なまりの英語」発音の癖もわからないが。

 「today」と言う単語でさえ、(発音が明瞭方向な単語だが)福田玲子では「何と言ったか?」が聞き取れない。前日に 橋爪ゆか では明瞭に聞き取れていたので、これは福田自身の問題である。(メノッティは無関係)

 その結果として、信じられないほど、「Aキャスト」と「Bキャスト」で「差」が生じてしまった。

Aキャストは全員「自然な英語発音」だが、Bキャストは「母音で押す」になってしまった


からだ。この呪縛から逃れられたのは「合唱団」だけ。楽日公演で「英語発音」が最もきれいだったのは、合唱団員であった! う~ん、考えさせられる事実。ちなみに

東京オペラプロデュース合唱団は、「新国立劇場合唱団の最高の時」並みの合唱


だった。少なくとも、天吊りマイクはあったので、私高本の発言が信じられない人は、東京オペラプロデュースに頼んで、聴かせてもらってね。人数も少なめだし、私高本も「聴いた瞬間」は「人数と響きの違和感」があったが、これこそ

東京オペラプロデュースが「張り出し舞台」を設置して(チケット代金回収を諦めてまで)得ようとした音響そのもの!


である。松尾史子代表が決断してくれたおかげである!!

 ・・・で、他の主要役についても、きちんと記述しなければならないだろう。


  1. ミケーレ役 は Aキャストの 羽山晃生 が圧倒的に上


  2. ドン・マルコ役は Aキャストの 工藤博 が圧倒的に上


  3. デジデーリア役は Aキャストの 田辺いづみ が圧倒的に上



であった。他にも書けば

  1. マリア・コローナ役は Aキャストの 小野さおり が圧倒的に上


  2. カルメーラ役は Aキャストの 鈴木彩 が圧倒的に上


  3. アッスンタ役は Aキャストの 丸山奈津美 が圧倒的に上



 これまでの東京オペラプロデュース公演では無かった事態。原因を私高本が推察するに

プリマドンナの唱法が伝播した!


だと感じる。
 「Aキャスト」は「橋爪ゆか の歌唱」が伝播し、「Bキャスト」は「福田玲子 の歌唱」が伝播した。私高本は、そのように感じた。Bキャストの脇役の何人かは過去に発音悪い、とは感じていなかったのだが、この公演では「英語発音悪いね」と感じた。もしかして、私高本が仏語や独語の理解力が無かっただけ、の可能性もあるので、断言はできないが(爆

 Aキャストのミケーレ役=羽山晃生 について。過去最高の歌唱&演技。高音に癖があるのが気になっていたが、今回の「ブリーカー街の聖女」公演では1音も気にならなかった。橋爪ゆか との共演がプラスに働いた結果、と感じる。
 Aキャストのドン・マルコ役=工藤博 について。いつも「安定した歌唱」なのだが、今回は「入魂の歌唱」だった。感謝する限りです!!
 Aキャストのデジデーリア役=田辺いづみ について。「嫌われ役」を見事に嫌われて演じてくれた。これまでとは別人のように「嫌われモード」をプンプンと匂わせて死んでくれました><


 Bキャストの人は、「子音が立たない」発音。あぁ、プリマドンナの唱法が影響したなあ。「マリア・コローナ」みたいに アンニーナ登場前にほとんど大切な出番が終わってしまうソリストでさえ、プリマドンナの唱法が大影響。小野さおり(A) の「あこぎなあおり」は再現されなかったことも印象深い。アッスンタ役=丸山奈津美 の押し出しの強さも Bキャストでは印象に残らなかった。

 ・・・って、結局、

プリマドンナの唱法に全てのキャストが影響されて、指揮者や演出家でもひっくり返せなかった


ということになった。
 ここで「原点」に戻ってもう1回振り返ってみよう。

メノッティ「ブリーカー街の聖女」の、東京オペラプロデュース原語日本初演は「世界初録音」を越す出来で Aキャスト公演を聴かせてくれた上に、「新国立劇場中ホール」で過去最高の音響を提示してくれた


である。
 このような素晴らしい公演に(2日とも)現場を聴かせて頂いた私高本は幸せである。これから、新聞やクラシック専門誌に批評が掲載されるだろうが、私高本の猫頭を越す批評が掲載されることだろう。


 あぁ、演出と指揮について書いて無いわ(爆

 演出は「幕引け」が最高。2日目にカーテンコールに出て来なかったのは、どうやら「八王子オペラ:ロッシーニ:シンデレラ」の演出初日と重なったから、らしい。超人気演出家 = 八木清市、である。

 あぁ、指揮者 = 飯坂純 についての記述が最後になるなんて、私高本はバカだ。今回の

舞台引き出し案 も おそらく「飯坂純提案」だろう!


 指揮者が拒絶すれば、即廃案だからなあ(爆

 ホルンパート制御は楽日まで出来なかったが、これは指揮者の責任では無い。「予算の責任」だろう。山岸さんを1本釣りする予算は無かったんだろうな(泣
 Bキャストで「ミケーレ役=三村卓也」に、声量が全く不足で「オケを被せなければ音楽が進行しない!」時には、躊躇があった。指揮棒落とすなよな(藁

 今回公演が「Aキャスト軸」だったことは、音で理解した。それだけで素晴らしい成果だった。新国立劇場関係者とかは2日目に大勢来ていた。1日目は来て居なかったような記憶がする。2日目のキャストが弱くて、少々焦ったかな? 2日目だけ聴くと「これまでの飯坂純の最善」は描けていなかった。ホルンは2日目の方がマシだったが(爆

メノッティ自身の演出メンバーの「世界初演」を越す演奏を指揮した飯坂純


って、凄いことだと確信する。この公演の(断定は出来ないが)中心メンバーなのではないか???
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」批評 その3(No.1898)

2011-07-11 21:24:58 | 批評

世界初演キャスト を越す演奏水準を聴かせてくれた 東京オペラプロデュース「メノッティ : ブリーカー街の聖女」初日公演!


 本日からが普通の意味での「演奏会批評」のような気がする(爆

 2011.07.09 に私たち聴衆は「とんでもない名演」に出会ってしまったようだ。私高本は「1924-1960 のブロードウェイミュージカル」が実は大好きである。1961以降は全く興味ない。1960は私高本は1才だったので、リアルタイムでラジオとかテレビで聴いたワケではなく、全てが「録音」である。「ド名作」と言われている作品は全部聴いている、と個人的には思っている。
 ・・・で、名作は必ず映画化されて「サウンドトラック」を収録されたり、再演時に録音されたりする。定評ある作品は全種類集めて聴いた。(「犬のサンダル集め」に近い気がする・・・)
 ・・・で、1作品の例外も無く「名作は世界初演時キャストが最高」だった。あぁ、バーンスタイン「ウェストサイド物語」「キャンディード」も同じ。何が原因か? はわからない。


 拠って「ブロードウェイで世界初演のブリーカー街の聖女」公演も、「世界初演キャスト」を越える演奏が聴ける、とはみじんも思っていなかった。世界初演は、メノッティ自身の演出だったし。東京オペラプロデュースの皆様、ごめんなさい!!!

 冷静に考えてみる。何が良かったのか?

  1. キャスティング


  2. 指揮


  3. 演出



 このどれか、である。


 おそらく、この3点全てが「世界初演」より良かった、と推察される。「演出」については、本当のところは全くわからないのだが(泣

 映像残っていないし(爆
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」批評 その2(No.1897)

2011-07-10 21:33:36 | 批評

典型的な「プリマドンナオペラ」であるメノッティ「ブリーカー街の聖女」


 東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」公演は、『日本オペラ公演史上の金字塔』だった。2日連続全公演を聴けた私高本は幸せである。昨日書いた「舞台使用の画期的な革新」だけでなく、

メノッティ自身が演出した「初演メンバー」に拠るレコーディングを越えた演奏を聴かせてもらった! ことに感謝するばかり


だからである。
 東京オペラプロデュースの岸純信執筆のプログラムノートに拠ると、「資金不足でいったん上演を断念、最終的には ブロードウェイで1954.12.27初演」とのこと。初演キャスト録音では「主役の魅力」が全く感じ難い。ギャラを値切ったのだろうか? 初日公演のタイトルロール=橋爪ゆか の方が遙かに上の歌唱である!


 メノッティ「ブリーカー街の聖女」が公演頻度が極めて低い理由は理解できた。

「プリマドンナオペラ」であるのに、第1幕第1場の「狂乱の場」のアリアで『拍手を一切拒絶』しているから


 これはムゴい。ヴェルディ「椿姫」の「乾杯の歌」よりも遙かに長いアリアを歌ったのに、アリアに拍手、を拒絶する後奏がついているのだから。他の歌手のアリアの後は拍手が来るように設計されているのに! これは「ブリーカー街の聖女」の設計上、最大の問題点だ。

プリマドンナオペラであるのに、「プリマドンナのアリア」の後だけ、拍手&ブラヴォー禁止になっている!!!


 世界初演時に何かトラブルがあったような気がする><


 「プリマドンナオペラ」を「原語日本初演」するには、ふさわしいプリマドンナが2名必要。日本の民間オペラ団体に「中3日」なんていう財政負担に耐えられる団体は1つもないことは私高本が断言しておこう。「ホールの貸与規定」を読むと私高本程度の頭でも理解できる。2日連続公演が「最も良心的」。私高本が主催者ならば「土曜か日曜で昼&夜公演」をマジで企画してしまうほどだ。(オケや合唱が最善尽くせるワケないよなあ!)


 ・・・で、「ブリーカー街の聖女」公演を実現するに当たって、プリマドンナを2名 見付ける必要がある。必要条件は何だったのだろうか?

メノッティ「ブリーカー街の聖女」タイトルロールの必要条件



  1. 「譜読み」が正確(← 現代曲に必須!)


  2. 「声量が大きい」


  3. 「音程が正確」



 この3点だろう。こんなソプラノを2名見付けるのは(私高本の知っている範囲では)極めて難しい。技巧的なソプラノは基本的には「モーツァルト~ヴェルディ前期」がレパートリー。その後のことには興味ない(爆
 声量があるソプラノは現代曲に興味ない。(近代以前で充分レパートリーあるからなあ)

 音程正確なソプラノは、モーツァルト以前に的を絞っていることが多い。などなど。


 そんな中、橋爪ゆか と 福田玲子 を見付け出してくれた 東京オペラプロデュース には感謝するばかりである。もちろん、橋爪 と 福田 にも感謝するばかりである。

(続きは寝てから「その3」で書きます。無理できない老体なので)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」批評 その1(No.1896)

2011-07-09 23:17:42 | 批評

1997年新国立劇場開設以来、15年目にして初めて「最良の音響」を聴かせてくれた東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」公演


 上の文章は私高本が確信を持って記述する。新国立劇場中劇場は、言っては悪いかも知れないが「大劇場(=オペラパレス)」が満席にできる見込みが極めて薄い公演にて「のみ」使用される。新国立劇場オペラ(主催オペラの意味)では、バルトーク「青ひげ」が最初だった記憶がある。来期も 松村禎三「沈黙」公演 でのみ使用予定。確かに大劇場を満席にするにはちょっとしんどい公演ではある。
 ・・・で、東京オペラプロデュースを初めとする(大きい団体とは言えない)オペラ団やバレエ団が「借りて」使用することの方が圧倒的に多い。オペラ公演に関しては「いつも同じセッティング」であった。東京オペラプロデュースも含めて。

これまでの新国立劇場中劇場オペラ公演 = 5列目までの座席を取り外し、かつ左右両側を狭めた(10列目左で18番より左を外す)配置


 このパターンだけ。「悪くない響き」と思っていたし、名演も随分聴いて来た。近いところでは、東京オペラプロデュースの アルファーノ作曲「シラノ・ド・ベルジュラック」や、ジョルダーノ作曲「マダム・サン・ジェーヌ」や、ビゼー作曲「美しきパースの娘」も「良い響き」と思って聴いて来た。


 ・・・で、本日の 「ブリーカー街の聖女」開演前に座席に着くと何か変。舞台が近く見える。「糖尿病悪化が目に来たか?」と思ったが、手元の公演パンフレットはまともに読めるから、どうやら違うようだ。「見えなくなる」が悪化の方向だから、「より見えた」はちょっと違う(爆
 (基本的に近距離焦点の方が合わせ難くなるのが糖尿病合併症の特徴)心を落ち着けて確認する。「近くに見える」のは、どうやら私高本の体の変調は全く無く「本当に近い」ようだ。「数にこだわる」癖が出て、座席数を数えた。唖然!

1階席の前9列が取り外されて、その分「舞台が前に迫り出して来ている!」


だった!
 開幕前から舞台は見えていて(って言うか、緞帳が降ろせない状態なので照明を完全に落とさないとどうしても「ある程度」は見えてしまう!)「周り舞台」が用意されている、ことは理解できた。あれっ? 新国立劇場中劇場の廻り舞台はこんなに前に引き出せた???


 普通「拍手に迎え入れられる指揮者」は2階席からも最前列右側の客からも見えず、チューニングの後いきなり音楽が鳴る。えっ? こんなこと東京オペラプロデュースにあったっけ???
 ピットは相当に「深め」。充分に美しく溶け合った音。短いオケ前奏曲(序曲?)が終わり、合唱団中心の声楽が聞こえて来て唖然とした。

声が「客席」に直裁的に「飛んで来る」。


 終演まで全く変わらなかった。


 在京オケが「定期演奏会」(定期公演と呼ぶオケもあり)を「サントリーホール」へ移したのは、20世紀後半の1大イベント。現在「在京7大オケ」全部がサントリーホールで「定期演奏会」を実施している。理由ですか?

サントリーホールで演奏すると「響きが豊かになる!」と聴衆の支持が圧倒的だから


 おそらくこれだけだろう。オペラ団体だって、「オケのサントリーホール」のようなホールがほしい。各団体が(生存を賭けて)競って来たが、「2011.07.09」までは「手探り」状態だった。その中で

「宝」を掴んだのは、東京オペラプロデュースであり、新国立劇場中劇場オペラを「前9列を撤去して、舞台を迫り出す」と音響が抜群に向上する!


を見つけ出した。誰が見つけ出したのだろうか? 私高本は3名しか想起できない。

  1. 代表 : 松尾史子


  2. 演出 : 八木清市


  3. 指揮 : 飯坂純



 誰が言い出したのか? それは公演中には確認できない。終了後にじっくり時間を掛けて確認する。だが大切なことは

代表 : 松尾史子、演出 : 八木清市、指揮 : 飯坂純 の3名全員が賛成しなければ実現できなかったこと!


である。
 実際の舞台設定はさらに細かいよ! 迫り出した舞台に「廻り舞台」が設置されているがこれが「特注品」。新国立劇場中劇場に元々設置されている舞台とは違い、東京オペラプロデュース独自の作成だろう。「張り出し舞台の上に設置」されていて、全角度360度中120度だけ「音響が良さそうな白めのニス仕上げの木材」が張られていて、この120度だけが歌には使用される」である。あぁ、このようにすれば残り240度は「あるだけでいい」素材でいいのね、、、


 歌手陣の「響き」は皆この日が最高! (元々がしつこい性格の私高本が)全員書くと、夜明けに間に合わなくなり、明日公演が聴きに行けなくなるので、

最も印象に残った主役 = アンニーナ = 橋爪ゆか だけ記す


 過去、最高の歌唱。第1幕から出てくる「狂乱の場」から始まり、全てがこれまで最高の歌唱。「1皮剥けた」とかのレベルでは無い。「別人になった」が率直な印象。
 演出は「光の陰」が印象的で私高本は素晴らしい、と感じた。「やや暗い」と感じる人もいるかも知れない。指揮は基本的には「歌手の最良」を引き出していたが、「現代曲」で少し合わせ時間が足りなかったかも。特にホルンパート。飛び出したり、遅れたり。「しょうがない」か? 「さらに上がある」か? 飯坂純ならばさらに上が明日ある、と信じたい。

特筆しておかなければならないことは、合唱が極めて水準が高いこと!


 ワーグナー「さまよえるオランダ人」では無いから、ブラヴォーの嵐にはならないだろうが、私高本手持ちの「シッパーズ指揮のCD」と比べても魅力大。合唱指揮者も本番指揮者も素晴らしかったことをここに記す。明日も今日と同じ、いや今日以上の合唱を聴かせてほしい、と祈願して(体力が無い私高本は)筆を置く。

 最後に1言。

新国立劇場中劇場でオペラ公演を計画している団体関係者は、新幹線や飛行機に乗っても明日の7/10東京オペラプロデュース「ブリーカー街の聖女」公演は聴く必要がある


 1回、この響きを聴いたら、これまでの配置の響きでは満足できない。(売る座席数が減るので)財政的には大きな損失になる。だから「必ず実行してほしい」とは言えないが、とにかく「この響き」を聴いてほしい。信じられないほどいいから。
 1階席後方と2階席は信じられないほど空いていた。明日が今日よりも埋まっているとは考え難い。好みの方で聴いてほしい。細かい批評は明日公演終了後に掲載する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡原慎也指揮者デビューコンサート批評 続予告編(No.1895)

2011-07-08 23:00:45 | ピアニスト兼指揮者・岡原慎也
 批評の間隔が空いたことをまず初めに、読者の皆様と演奏家の皆様にお詫びする。突如として、シューベルト「フィエラブラス」D796、「美しき水車屋の娘」D795、「ロザムンデ」D797 に興味が集中してしまったことが原因。どれもが名曲中の名曲なので「はまってしまった」状態だった。佐伯周子が「岡原慎也ピアノ伴奏盤の美しき水車屋の娘CD」を見付けて聴いたのが直接の引き金。原田茂生バリトン。久しぶりに「美しき水車屋の娘」の世界に浸った時間を過ごせた。シュライヤー盤、ヘンシェル盤、ゲルネ盤、フィッシャー=ディースカウ盤などなど聴きまくり! ファスベンダー盤聴いていたら、佐伯周子にきつく説教されてしまった。う~ん、確かに趣味悪いよな > ファンベンダー盤
 明日の、東京オペラプロデュース「メノッティ:プリーガー街の聖女」が楽しみでならない。「英語」だから「ドイツ語」や「イタリア語」よりも聞き取り易いのも好影響、って私高本だけか?(爆 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京のオケとオペラ団が潰れて行く!(No.1894)

2011-07-06 21:36:27 | その他
 あまりに痛ましいことが発覚したので「岡原慎也指揮者デビュー批評 続」掲載の予定を変更して標題について書く。

  1. 東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団が「ファイナル・コンサート」発表


  2. 東京室内歌劇場が「年度内公演全部」をキャンセル


  3. 日本オペレッタ協会が年度内公演について告知一切無し



 「演奏会も実施しなければレコーディングもしないオケやオペラ団は維持費が保てない」は鉄則。このままでは、ユニフィルだけでなく、室内歌劇場もオペレッタ協会も潰れること必至。コンサート開かなければ「代金回収」不可能だからなあ。1975年に「シティフィル創設」以来、このような事態が発生したことは1度も無かった。(新星日響が東フィルに吸収された件は別問題)

 36年に亘り「我が世の春」を謳歌して来た「東京クラシック音楽界」に『冬の季節』が到来してしまった。他人事では無い。「佐伯周子シューベルト全曲」は石にかじりついても全曲完遂するつもり > 佐伯も私高本も

 聴衆の皆様のご支援をよろしくお願い申し上げます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする