本日号は、
2012.09.01 下野竜也+読響:マーラー交響曲第2番「復活」
2012.10.18 老田裕子X佐伯周子:マーラー「子供の不思議な角笛」1899年版
2012.10.28 インバル+都響:マーラー交響曲第3番
の3公演を聴いて、徐々に感じていたことが「はっきりと明示された」から書ける文章である。演奏家の皆様には深く深く感謝する次第である。
音楽史上で「フモレスケ」と名付けた曲を初めに作曲したのは、おそらく シューマン。作品20である。「クスッ」とさせられる面白さを感じる曲。
マーラーは「子供の不思議な角笛」1899年版の次に作曲した「起床合図」"Revelge" にも「フモレスケ」と呼んでいるので、「フモレスケ」と言う語を広く「子供の不思議な角笛」に用いていたようである。
『マーラーのフモレスケ』は何を意味するか?
下野竜也 が「面白おかしく」交響曲第2番「復活」第3楽章「パドヴァのアントニウス 魚へお説教」を軽やかに振った時、空気が軽くなったように感じた。
老田裕子 が「誰がこの小唄を思いついたの?」をコロコロと転がすように、コロラトゥーラで歌い始めると、あたかも「モーツァルトのダ・ポンテ オペラブッファ3部作」が今から上演されるか? のように感じた
インバルが、交響曲第3番第1楽章第3主題呈示でそれまでの重々しい雰囲気が一変し「腰を振って、田舎の人たちが行進」が目前に広がるかのように感じた
これまでに何回も聴いて来た「マーラー交響曲」だが、下野竜也の第2番&インバルの第3番 は「彫りの深さ」がこれまでの全ての演奏よりも『濃い』。何が『濃い』と感じさせたのか?
ずばり「面白おかしさ」方向の表現力が徹底的に「面白い」方向にベクトルが最大化されている!
である。
交響曲第2番も第3番も、終楽章は「荘厳に」演奏しようとどの指揮者もがする。(成功するかどうかは別として)だが、その成否は、直前までの楽章の「演奏設計」に掛かっているのだ!!!
マーラーは「フモレスケ」を言葉通りに「ユーモアのあるモノ」として捉えた。「アントニウスさま お説教には来たが教会はからっぽだ!そこで彼は川へと出かけ魚どもにお説教!」とか「宿屋の娘が可愛い」とか「カッコウが死んで落っこちちゃった」とか、歌詞を見ると「アチョーーーー」ってな歌詞ばかり!
これが「交響曲」に入り込んでいるのが「角笛交響曲」の特徴。マーラーの純器楽交響曲は、それなりにうまい指揮者でも「角笛交響曲」は「あれっ?」と思える人もいる。特に「第3番」は「第2番」「第4番」以上に厄介だ。初めの3つの楽章が「狂気の田舎臭い雰囲気ぷんぷん」だからだろう。大好きな テンシュテット もこの曲だけは「真面目に過ぎたかな?」と思える録音を残している。「昨日のインバル」くらい「狂った田舎臭い雰囲気」が必要な曲なのだろう。都響は録音体制だった上に「録画」もしていたので、全席完売で聴き逃した方は「録画売ってくれ!」と都響事務局に願い出るのが良いと思う。客商売だから、「販売」方向で検討してくれることだろう。
下野竜也 と 老田裕子 と インバル のことばかり書いたように思う。
読響 と 佐伯周子 と 都響 の「演奏精度」の素晴らしさ は特筆モノだったから、名演が実現した!
ことをここに明記する。ソプラノソロ & アルトソロ & 合唱団 も含めてである。尚、インバル指揮都響は、第1番、第2番、「嘆きの歌」では、旋律線の受け渡しが緻密でなく、「マーラーの意図」を100%は実現できていなかった。徐々に「息が合って来た!」と言うことなのだろう。
『マーラーのフモレスケ』は「面白おかしさ」方向に感情起伏が大きく、『シューマンのフモレスケ』の感情起伏を大巾に逸脱しており、「クラシック音楽」中最大値に近い
だろう。
この感情起伏に迫った作曲家は「マーラー以前」には無く、「マーラー以降」では ストラヴィンスキー & ショスタコーヴィチ だけ
だろう。「面白おかしさ」方向では無く、「原始鼓動」とか「悲劇に対する虚無感」が起点となっているが「感情起伏巾」で言えば、巾広さはこの3名の作曲家が最大では無かろうか?
・・・ってな「角笛交響曲」の元ネタになった マーラー「子供の不思議な角笛」1899年版 を演奏する 老田裕子 X 佐伯周子 の感情起伏は極めて激しい。立役者は勿論「ソプラノ = 老田裕子」。『13曲のマーラー作曲オペラアリア』を歌い尽くす、だからなあ。これだけ歌えるソプラノは、日本だけでなく、世界でも数少ないと感じる。
マーラー「子供の不思議な角笛」1899年版は「女声のための曲集」だが、過去「CD録音した女声歌手皆無」に世界初挑戦 = 老田裕子
と思われる。だが、佐伯周子 も、「前奏」で煽ったり、なかなかのモノ。「あの世の暮らし(天上の生活)」の長い前奏などは耳を澄まして聴いて欲しい。