Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽ジャーナルの高忠実度

2015-11-24 | マスメディア批評
ネット検索していた。苦労してDLしたヴィデオファイルよりも高品質そうなものがYOUTUBEで落とせた。ファイルの大きさで2.67GBと1.94GBの差異があったが、しかしAUDIOではAAC44kHz125kbpsに対して48kHz160kbpsと逆転していた。要するに前者の方が画像は美しいが、音は貧弱だとなる。つまりロウファイなのだ。HiFiなオーディオファイルを入手しようとすれば、上の「ルル」新上演公演の私が体験した初日のラディオ中継のそれでなければ話にならないとなる。オーディオ趣味は無くなったが、やはり記録としてその音楽などを評価しようと思えばHiFi(ハイフィデリティー・高忠実度)が求められることになる。

先日DLしたファイルは、2014年バイロイトの祝祭劇場からの中継録音の一部だった。自分自身がそこにいてそのあとも録音を逃していたものだだった。一年前は、まさか、あれほど高音質なものがネットから落とせるとは思っていなかったのでこれは録音していない。当日の記憶を辿るためにそれを探していたのではなく、なぜあれほどに今年六月の時点まで指揮者キリル・ペトレンコが日本で十分に評価されていなかったかの原因を探りたかったからでもある。そこから広く文化的な移植や情報やトレンドの伝わり方が分かるからだ。

満足いかないオーディオクォリティーながらも2014年7月30日のメルケル首相がやってきたその日の楽劇「ジークフリート」の名演を再生してみて、ある程度の結論は出た。更に、2013年の新聞評と2015年のそれを比較して読み、また日本でも毎年ラディオ試聴している人の感想記事や2015年に多く訪れた日本の人の中の感想を読むと、十分に推論可能となった。なぜここまでオーディオファイルの形態について触れなければいけないのか、それは音に対する認知の問題だからである。

先週日曜の朝、ラディオ番組でミュンヘンの音響建築の教授が電話で話していた。世界中で新しいホールを請け負っている専門家だ。概ねの話は馴染みがあるものだったが、意識していなかったのは二十世紀後半の試みとその結果への認識である。

様々な形のホール、たとえば靴箱型、扇形、円形などがこの間沢山作られたが、その結果としてワイン山型に収斂してきたという。但し目的によって様々なので一概には決められないということだ。そこで、バーデン・バーデンの祝祭劇場に関しては、そもそも私立であり、総工費に対する収益性が無視できなかったので、音響を左右する一人当たりの必要な立法面積を確保して且つ構築費を押さえることに苦労したようだ。所謂、鳴り潜めるだけの余裕は無くても響かすことは出来たという。その結果、舞台に近い席では直接音が多く、離れるに従って間接音が多くなる音色となるが、重要なのは視覚との違和感がないことだという。ガラスなどの素材の使い方もヴィ―ンの黄金のホールなどを例にしていた。だから音響計算上の確定した値とは別に聴衆の反応も確かめる必要があるというものだ。

ここにあるように仮説として、音響的な情報量とその認知を上げた訳だが、HiFiに加えて視覚的な情報が欠けているラディオなどの媒体を通して、例えば特定の劇場などの音響空間で起こっていることをどれほど認知できるかへの問いかけでもある。今回二種類の情報量の異なる録音を比較してみて、最低CD基準の情報量が無ければ理解できないこともあるのは確認した。それに気が付くか気が付かないかは、但し情報量の問題だけではなくて、可成り文化的な背景があることでもある。

反対に少なくともそうした差異の認識は、高額な再生装置と試聴環境に使用が前提になるのではなくて、現在の状況からすればPC音響ならば精々真面な音楽ヘッドフォンとヘッドフォンDACさえあれば再生可能となる ― これは自分自身DACを持っていないので確かめていないが、ヘッドフォーンはスタディオモニターの基本でさえある。寧ろ、ここでもジャーナリズムの問題が立ちはだかっている。

特にEムジークと呼ばれる領域において、まるでワイン文化と同じように、日本などでは輸入文化としてそれが紹介されて、そうしたジャーナリズム擬きが横行したことで ― 発信国のジャーナリズムは絶えず商業主義のそれを繕い紗を掛ける必要に迫られている ―、そうしたオタク的な審美眼(耳)が各々の心(脳)を閉ざすこととなり、なにも録音されたものでなくて実際のその音響空間においても肝心な音が耳に届かないということにもなっているようだ。

その耳に届く届かないの相違は、人種や年齢や性別などとは全く関係がなさそうで ― 全くワインの試飲と同じで ― 寧ろ特殊なオタク文化に染まっていない開かれた感覚を持っている人の方が感受性が高く、一種の認知力の問題なのだ。そこに、その人の教養や知識や経験によって、情報が捻じ曲げられて入ってくるものと、それとは反対に所謂Uムジークとしてのエンターティメント市場のように万人に分かりやすいというものも存在するという両面がある。

造形芸術でもなんでも変わらないが、そのような大衆性ととても高い認知性との間を説き解くのはジャーナリズムの仕事であり、そうした作業によって初めて正しい情報の伝達と文化的なトレンドの共有などが可能となる。ジャーナリズムとは、そこで何が起こっているかを正しく認識して、それを分かりやすく伝える作業でしかない。



参照:
お目当ての録音をDL 2015-11-17 | テクニック
耳を疑い、目を見張る 2015-05-27 | 音 
そこが味噌なのですよ! 2015-08-13 | 音

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