Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

耳を疑い、目を見張る

2015-05-27 | 
眠気というよりも、目が疲れている。どうも長距離ドライヴの疲れは目から来るようだ。逆にこれだけ走れるようになったのは、良い眼鏡のお陰かもしれない。以前は夜道を走るのが億劫になったときもあったが、最近はまた深夜のアウトバーンを飛ばせるようになった。

さてミュンヘンの初日のオペラ「ルル」新演出のなにから書こうか。結果からするととても価値があった一日旅行だった。あれだけの質のオペラを日常上演可能なオペラ劇場は流石である。最後の付け焼刃の勉強に、行きがけの車の中でザルツブルクでの「ルル」のヴィデオをCDに焼いたものを流していた。ミュンヘンの劇場でもその噂を聴衆から耳にした。とても話題になった上演のようだが、「これではとても」とその音楽を聴いていた。

なるほど台詞やディクラマツィオ―ンに重きをおいた2011年の上演でメディア化されてもいるようだが、音楽的には指揮者のマルク・アルブレヒトの見識を疑わせるものだ。第二・第三幕はCDを焼くときにエラーが出来て聞けなかったが、第一幕の出来で十分だろう。あのような演奏では、ベルクの作曲の真髄どころかその音楽構造が全く浮かび上がらない。このような上演がまかり通っているようでは百年後にもこの楽曲は理解されていないことになる。まだ若い指揮者のようだが、親戚の防衛大臣のおばさんやこうした実力でドイツを代表するのは解せない。なるほどヴィーンの座付き管弦楽団らしきからそれ風の付随音楽を奏でているが、それではどのような技法で書かれていても、同じように劇に付けられているただの音楽となる。そのようなベルクの音楽が二十世紀を代表するオペラであるわけが無い。

そしてアウグスブルクを過ぎて、ミュンヘンの環状にさしかろうかとするときラディオは夕方の生中継の予告を伝えていた。そこで前日の最後のゲネプロのエンディングが流れた。その最後の一声とペトレンコ指揮の管弦楽団の充実した響きに満足した。初演のブーレーズ指揮のパリの座付き管弦楽団からは聞けなかった響きである。そしてその声の強さは何かと思った。これならばザルツブルクのそれのようなことは無い。態々出向いたことが報われる可能性が見えたのだ。

その三幕の構造から見てみる。やはり何よりも間奏曲で変奏される俗謡主題に代表される調性とその音調の利用がこの幕の音楽構造を十分にあらわしている。そこでも複調的な展開があるが、一場における12声部からの複雑性とその収斂との対比でもある。遺作でもあるヴァイオリン協奏曲でのケルンテンの民謡やバッハの引用のそれの扱い方を思い出さずにはいられない。これらは、「白鳥の歌」と勘違いされそうになるが、アイブスの交響曲などの多層性でもありアロイス・ツィンマーマンの「ディ・ゾルダーテン」などに拡大されるものだろう。

その効果はと問われるときに、今回のチェルニアコフ演出はこの一場で、群集つまり社会を ― 第二幕転換点でも男女の番として ― とても明白に示しており、要するに群と個、社会と個人、世界と主観などの関係つまり相克として、この音楽構造を解釈している。多声と調性や、自由と束縛など、様々な二項対立がここでは一括組織化へと動くために、恐らく20世紀初頭の社会学的な認識の発展に呼応するのだ。そこから音楽はカオスへとも進むのが、この一場の多層性であるだろう。そしてそうした多層性が二場のクライマックスへと収束するようになっている。全幕のサイン波構造の中での終結であるから、その構造感は定まっているのであるが、この第三幕における構造感はとても憎い手練手管で、まさしく劇場音楽の天才のなせる業である。

勿論こうなれば画家の歌手が演じる黒人の客がシェーン博士の息子であるアルヴァを撲殺し、シェーン博士の歌手が演じる切り裂きジャックがルルを刺殺するまでの運びは楽曲の分析などなくとも聴衆にその音楽構造を明白にする。そして落ち着くところへと落ち着くのだが、今回の演出ではゲシュヴィッツ令嬢はナイフで刺されて瀕死とはならずに生きるのである ― ドイツへ帰国して女性の権利のために法学を学ぶのである。その音楽も将来へと開かれている。

そうした全体の構造とは異なって、開かれたままのものは第一幕の転換の音楽のまさしくマーラーの交響曲十番そのものの響きであり、少なくともブーレーズの指揮ではこれほど充実した音楽は奏でられてはおらず、ここでは第三幕でのそれとの連関において甚だしい効果をあげていた。そしてそれがシェーン博士とルルのソナタへと、まさしくこのオペラ作品の核となるソナタの対峙構造へと導かれることになるのだが、特筆すべきは十二音技法的な扱いの中での低弦や低音の管楽器のバスの鳴らせ方の明白さであり、多声の対位法的な扱いとしてもとても秀逸であった。

反面、今回のそれではそこへと導かれる画家とルルのカノンから医療顧問官の死への音楽の流れの歩みは、スピード感を落としそれほど音楽的な強調が無かった割には、演出と相俟って ― ややもすると間男を見つけた旦那の心臓麻痺の一件が芝居がかって見えるところなのだが ―、とてもよい一連の流れの中で展開されていて、明らかに転換音楽へとそれが流れ込んでいる。アルバン・ベルクの劇場感覚と管弦楽法の非凡さこうしたところにも顕著となる。

画家の自殺を受けて、三場の劇場楽屋でのシェーン博士とルルの対峙のガヴォットのソナタは音楽的にも全曲中最も充実した箇所であり、ここにおける声部の扱い方こそが、このオペラの音楽的な解釈の全てではないだろうか?ブーレーズ指揮の録音でももう一つ不満であったところを、バイエルンの座付き管弦楽団は可也健闘していて、大変充実した音楽を体験できた。そして第二幕一場でのシェーン博士の暴力から反対に射殺されるまでの流れも演出としてとても上出来であった。

そうした管弦楽の充実は、全体の転換点となる第二幕一場から二場への転換の音楽にも聞かれるのだが、それに続くルルの登場とその歌い始めまでの準備、そしてそのときの音楽の精細さには圧倒される。この表現も特筆すべきもので、ブーレーズの表現では若干隔靴掻痒といえる箇所であったが、今回はとても合点が行った管弦楽表現だった。そもそもピエール・ブーレーズの指揮はよく批判されたようにあまりにもテムポが早い部分があって、その管弦楽団のサウンドの移り行きは鮮やかになるのだが、音楽表現の肝心なところをあまり聞き取らせないことも少なくなかったのである。

歌手陣では、タイトルロールのマルリス・ペーターソンに喝采が集まっていたが、シェーン博士を歌ったボー・スコーフスに初めて感心した。氏が余興の時に擦れ違ったりしたことがあるが初めてその歌唱に接して、とても正確に的を押さえて歌っているのがよく分かり、若いときから名声が高かったのも頷けた。その他、ゲシュヴィッツ令嬢のダニエラ・シンドラームなどなかなか立派な歌謡陣でドイツ指折りの劇場であるだけのことはある。こうした高品質の上演がされるのも公的な援助があるからで、今回の舞台も決して芝居的にも大人のものとしても隣の芝居小屋に負けないほどの充実したものであった。

アルバン・ベルクの「ルル」三幕完成版が、西欧のオペラ芸術が到達した一つの頂点であったことは、漸くこれだけの時が経ってはっきりと確信できるに至ったのである。大芸術はなかなかそう簡単には社会に定着しないということであろうか。

Kirill Petrenko conducts the final scene from LULU


参照:
竹取物語の近代的な読解 2014-12-31 | 文化一般
二十世紀前半の音楽効果 2013-11-28 | 音
こうなると付け焼刃の勉強 2015-05-25 | 生活
経済的に降臨するミュンヘン 2015-05-26 | 暦

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