ギュンター・グラスは、コール首相とレーガン大統領の慰霊碑訪問に対して、1985年の5月6日以下のように演説した。そして同年5月10日ツァイト紙は、書名付きの文章「授かった自由-無機能、罪、過ぎ去った好機」として掲載した。
― この度、 無 実 の 立 証 が見出しにまで躍っているのを知っています。我々は、今首相に向かおう。根っからのものでは無いが、無実の星の下に生まれたと言う首相にである。彼が1950年代当時に非ナチの証明書を手に入れたのは判っている。しかしである、ガス室の、大量虐殺の、民族根絶のドイツ国民の殆どがなにも知らなかったというのは一体どう言うことなのか?こうした無知は潔白を語っていない。それこそが罪であって、取り分け言われるところの、大多数が強制収容所が存在する事を知っていたのである。其処にいるのは、アカとユダヤだと言うことを。こうした知識は、後からもどうしようも救いようが無い。これで、「自尊心溢れる無実」と相殺される事は無いのである。皆が知っていた、知ることが出来た、知っていたに違いない。
授かった自由は、当然のものとなった。つまり、開口すれば、違うと言うべきが現代なのである。であるからして、1970年12月にブラント首相がヴァルシャワを訪問した際、ジークフリート・リンツと私は同行した。お互いの不利益を承知で、東プロイセン人とダンチッヒ人はポーランドの西部国境の承認に同意をした。ドイツ・ポーランド協定が結ばれた。これは強調されるべきなのである、なぜならば先日ドイツ首相はポーランドとの協定を危ういものとしたからである。馬鹿な狡賢さは、引揚者に取り入って、信頼できない者となった。これに続いて彼の為政術を証明する事となった。この首相のイスラエル入りは遺憾ながら思い出となり、アメリカ大統領との友人関係において、5月8日は一つの寄せ集められた歴史と相成った。当然のことながらユダヤ人ならびにアメリカ人やドイツ人を、全ての当事者をメディア上で傷つけたのである。コールはドイツの歴史に余分な負担を明らかとしたのである、まるで重荷が十分では無いかのように。しかし、こうした苦難を我々は受けるに値するのだ。―
これを今読むと当時の社会・世界状況が分かり、どのような顔をしてこうした演説ができるものかと思う反面、「皆は知っていた。」と言う言葉の重みは際立つ。実際、当時子供であった者の言い訳として、「まさかアウシュヴィッツのような事になっているとは知らなかった。」と言う友人はいる。
こうした感覚の麻痺は、戦時下では当然のことなのであろう。ここから学ぶことも多いが、戦時体制に入るまでナチ政権にしても永年に渡り体制を固めて行ったのである。だから対プロレタリア革命を旗印に洗脳・教育されていた大衆を理解できる。テロリストグループなどよりも国家的テロは、その初期段階で叩かなければいけない。
その辺りの時の流れの中での論調の構築は、戦後の冷戦下からデタントを超えたイデオロギーの左右対決構図の最終時期をも特徴付けているのだろうが、現在からするとおかしな情景にしか見えない。より多くの読者がコール首相のあまりに素朴な言い分に共感を覚え、イデオロギー色の強いグラス氏の演説により多くの違和感や怒りを抱くかもしれない。
そうして、ポーランドから米国への難民である「戦時下の偽り」の著者ルイス・べグリーことルートヴィッヒ・ベグライターは、グラスの態度を「平和時の偽り」として糾弾している。相対化して米軍の人種差別をあげつらう人種主義者とも非難する。
グラス自身が書くように、彼は「馬鹿な自負」を持っていた確信犯の親衛隊であって、捕虜や終戦を機会に一朝一夜で宗旨替えが出来るわけが無い。それが普通の人間である。だからこそ転向して戦後イデオロギーの意匠をもって活動して来たこの作家は、東独の共産主義者のようにイデオロギーに戦中も戦後も囚われ続けた。多くの官僚や下級役人や企業家の様に、その精神は蝕まれ続けた。
本日、食事をするために隣町へ歩いて行って帰って来たが、道すがら考えても、人類の永遠の課題の様なこのような現象には容易に解答が見つかる筈が無い。(不公平に扱われる英霊 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-23 より続く)
参照:
正当化の独逸的悔悟 [ 文学・思想 ] / 2006-08-13
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
78歳の夏、グラスの一石 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-15
― この度、 無 実 の 立 証 が見出しにまで躍っているのを知っています。我々は、今首相に向かおう。根っからのものでは無いが、無実の星の下に生まれたと言う首相にである。彼が1950年代当時に非ナチの証明書を手に入れたのは判っている。しかしである、ガス室の、大量虐殺の、民族根絶のドイツ国民の殆どがなにも知らなかったというのは一体どう言うことなのか?こうした無知は潔白を語っていない。それこそが罪であって、取り分け言われるところの、大多数が強制収容所が存在する事を知っていたのである。其処にいるのは、アカとユダヤだと言うことを。こうした知識は、後からもどうしようも救いようが無い。これで、「自尊心溢れる無実」と相殺される事は無いのである。皆が知っていた、知ることが出来た、知っていたに違いない。
授かった自由は、当然のものとなった。つまり、開口すれば、違うと言うべきが現代なのである。であるからして、1970年12月にブラント首相がヴァルシャワを訪問した際、ジークフリート・リンツと私は同行した。お互いの不利益を承知で、東プロイセン人とダンチッヒ人はポーランドの西部国境の承認に同意をした。ドイツ・ポーランド協定が結ばれた。これは強調されるべきなのである、なぜならば先日ドイツ首相はポーランドとの協定を危ういものとしたからである。馬鹿な狡賢さは、引揚者に取り入って、信頼できない者となった。これに続いて彼の為政術を証明する事となった。この首相のイスラエル入りは遺憾ながら思い出となり、アメリカ大統領との友人関係において、5月8日は一つの寄せ集められた歴史と相成った。当然のことながらユダヤ人ならびにアメリカ人やドイツ人を、全ての当事者をメディア上で傷つけたのである。コールはドイツの歴史に余分な負担を明らかとしたのである、まるで重荷が十分では無いかのように。しかし、こうした苦難を我々は受けるに値するのだ。―
これを今読むと当時の社会・世界状況が分かり、どのような顔をしてこうした演説ができるものかと思う反面、「皆は知っていた。」と言う言葉の重みは際立つ。実際、当時子供であった者の言い訳として、「まさかアウシュヴィッツのような事になっているとは知らなかった。」と言う友人はいる。
こうした感覚の麻痺は、戦時下では当然のことなのであろう。ここから学ぶことも多いが、戦時体制に入るまでナチ政権にしても永年に渡り体制を固めて行ったのである。だから対プロレタリア革命を旗印に洗脳・教育されていた大衆を理解できる。テロリストグループなどよりも国家的テロは、その初期段階で叩かなければいけない。
その辺りの時の流れの中での論調の構築は、戦後の冷戦下からデタントを超えたイデオロギーの左右対決構図の最終時期をも特徴付けているのだろうが、現在からするとおかしな情景にしか見えない。より多くの読者がコール首相のあまりに素朴な言い分に共感を覚え、イデオロギー色の強いグラス氏の演説により多くの違和感や怒りを抱くかもしれない。
そうして、ポーランドから米国への難民である「戦時下の偽り」の著者ルイス・べグリーことルートヴィッヒ・ベグライターは、グラスの態度を「平和時の偽り」として糾弾している。相対化して米軍の人種差別をあげつらう人種主義者とも非難する。
グラス自身が書くように、彼は「馬鹿な自負」を持っていた確信犯の親衛隊であって、捕虜や終戦を機会に一朝一夜で宗旨替えが出来るわけが無い。それが普通の人間である。だからこそ転向して戦後イデオロギーの意匠をもって活動して来たこの作家は、東独の共産主義者のようにイデオロギーに戦中も戦後も囚われ続けた。多くの官僚や下級役人や企業家の様に、その精神は蝕まれ続けた。
本日、食事をするために隣町へ歩いて行って帰って来たが、道すがら考えても、人類の永遠の課題の様なこのような現象には容易に解答が見つかる筈が無い。(不公平に扱われる英霊 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-23 より続く)
参照:
正当化の独逸的悔悟 [ 文学・思想 ] / 2006-08-13
似て非なるもの [ 雑感 ] / 2006-08-14
78歳の夏、グラスの一石 [ 歴史・時事 ] / 2006-08-15
グラスの「ブリキの太鼓」から連想するのが、なぜかダンテの「神曲」とトーマス・マンの「魔の山」で個々に思い出をまとめようと思った矢先のグラスの告白で多少頭が混乱しています。
ノーベル文学賞受賞前の盛大な「選挙運動」が漏れ伝わり、とても鼻白む思いがしたのですが、それと作品の価値はまた別?
かの受賞者リストを眺めるたび、何故か滑稽さがこみ上げるのですが、エルンスト・ユンガーがそこに無いことをグラスはどう思うか知りたいですね。
(カール・シュミットとの往復書簡集を探して)
この辺りの年代のドイツ人を考えて、そのままユンガーの話題に移行してみます。私はその、最近ボート・シュトラウスなどが語る作品は知らないのですが、戦前の民族主義者としての活動は、ナチスの初期へと戻ればシュトラサーとか抗争に負けた突撃隊などの左派に近いのかなと想像します。
従来の保守派にも属さず、それでもヒットラー暗殺メンバーに近くとも生き延びているの面白い。戦後は政治的意味合いを失い、自己の違う世界に入って行っている様ですね。
其々の姿勢のとり方は世代の違いや職業の違いも大きそうです。
日本の戦争責任についてさえ答えが出せないのに、他国について論じるのは荷が重かった感がします。日本版の発売を待ちながら、史実を学びたいと考えています。
ワレサの反応も、かなり冷たいものでしたね。ポーランドでは「地下水道」に見られるようなレジスタント運動も展開されていました。グラスに反ナチスの側で闘う選択肢があったのかも興味があります。
間接的な戦争体験、確かに傷痍軍人などですら消えてから時が経ちます。体験を語れる肉親を持つ人がますます少なくなってきます。
そうした時の流れの中で今回の発言も捉えていきたい。両国とも戦後を見直す好機だと思います。
小さな記事を見ますとヴァレサ氏は市民の反応も考慮して、グラス氏に一定の理解を示したとかありました。
入隊するまでのことも一部読みましたが、それはそれでレジスタンスとなると余程イデオロギーによる鎧を着ている環境でないと、子供がぶれることはなかったでしょう。白薔薇のゾフィー・ショル嬢でも兄がいて、教授がいてのことですから。
時代の気風に流されるのが普通でしょうか。
今更、告白するのにも相当勇気がいるかと思いますけど・・。
実際にはポーランド人だってユダヤ人が連行された後、無人になった家に平然と住み着いたりしてたわけだから(映画「ショアー」なんかでは、そういう人たちも痛烈に批判されてますが・・・)結構人間自体が怖いなと思いますけど。
当時国外に逃げた人はともかく、
みんな時代に押し流されたのかなと思ったり・・
90歳と言うと一番戦死している世代ではないかと思います。ヴィリー・ブラントなどの活動家以外では、ナチと共に育った世代です。日本で言えば、福田赳夫や三木武夫元首相や宮本顕治元共産党書記長の世代です。
ポーランドでの生活とグラスの非ドイツの血筋は背後説明として今回も出てきます。
時代の認識自体が難しいですから、それは現在も同じです。新記事に書きます。