「音の風景」と云う概念がある。社会学や環境・伝統などとの関連で比較的狭義に捉えられている事が多いようだが、本来は風景画に対してそのような制限が必要ないように、全ての音響的な環境が含まれるのが本義であろう。
先日死亡記事の載っていた韓国人マルチメディア芸術家ナム・ジュン・パイクは、米国フロリダ在住の73歳で、96年以降は心臓発作で車椅子生活だったという。ソウルオリンピックの巨大なTVモニターを積み重ねた塔が有名らしい。元々ミュンヘンで美学を習い、その後デュッセルドルフとヴィースバーデンで「フルクサス」の催し物で名を挙げて、作曲家シュトックハウゼンとの西部ドイツ放送局などでの活動で地位を築いたようである。その後の活動はある意味お決まりの方向へと進んだようだが、数限りないモニターを使った「第二の自然」が主な活動領域であったろうか。インターネット普及の遥か以前から所謂ヴァーチャル空間を仕事場としてしたのである。
さて、風景は第一の自然であろうが第二の自然であろうがどちらでも良くて、関心はこちら側の若しくはその風景に含まれているかも知れない観察者の視点である。つまり、上のような活動の背景には何らかの既成の固定化された視点があってこそ、それを裏切る事で初めてその意外性が効果や価値を持つと云う事になりそうである。パイク氏の場合は、東西の視点の差異を強調していたようだが、何らかの建設的な思考に繋がったのかどうかは知らない。
風景が様々な情報を持っている事は事実なのであろうが、これを解析的に扱うには限度があるので、それに何とか注意を促すというのが限界であろう。さもなければ、これまた固定化した概念を植えつけるだけになるからである。本来はそうした注意を促す現象が偶然に発生する事が自然である。
タウヌスの丘陵にあるクロンベルクの旧教教会から新興住宅地の方へと歩いていくと、何とも不思議な響きに気が付く。暫くすると音が止むので、発音基はなかなか分からない。暫く歩みを進めるとまた聞こえてくる。周りを伺って、耳を音の強くなる方へと持って行くと、遥か上空の城壁の上の鋭塔の風見鳥が目に入った。暫く観察をしていると、風が吹いて初めて回転軸が軋んでいる事が確認できた。
高音のハーモニックス成分の拡がる響きは何とも不思議で、何ら町の音の風景に影響を与えないかのような、並行した関係が面白い。城への登り口を探しながら旧市街を大小二周した。城門への道は、雪の凍る冬季は閉ざされたままで、またしても風見鶏を近くで観察は出来なかったが、町へと降りる途中で撮影する事が出来た。
この風見鳥の付いた塔へのリアリズム芸術家の関心は知らなかったけれど、奇しくもこうしてこの風見鳥に注目する事になったのである。回転軸に油を指す必要も無く、こうした日常とは違う世界に気づかされるような静かな環境が素晴らしい。その響きからして引伸ばされた薄板である事が知れる。
参照:
"cui-cui"-"pip-pip"/抽象的な言葉 [ 音 ] / 2004-11-08
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
クロンベルクの皇后陛下 [ 女 ] / 2006-02-02
「ある若き詩人のためのレクイエム」 [ 文化一般 ] / 2005-01-30
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
先日死亡記事の載っていた韓国人マルチメディア芸術家ナム・ジュン・パイクは、米国フロリダ在住の73歳で、96年以降は心臓発作で車椅子生活だったという。ソウルオリンピックの巨大なTVモニターを積み重ねた塔が有名らしい。元々ミュンヘンで美学を習い、その後デュッセルドルフとヴィースバーデンで「フルクサス」の催し物で名を挙げて、作曲家シュトックハウゼンとの西部ドイツ放送局などでの活動で地位を築いたようである。その後の活動はある意味お決まりの方向へと進んだようだが、数限りないモニターを使った「第二の自然」が主な活動領域であったろうか。インターネット普及の遥か以前から所謂ヴァーチャル空間を仕事場としてしたのである。
さて、風景は第一の自然であろうが第二の自然であろうがどちらでも良くて、関心はこちら側の若しくはその風景に含まれているかも知れない観察者の視点である。つまり、上のような活動の背景には何らかの既成の固定化された視点があってこそ、それを裏切る事で初めてその意外性が効果や価値を持つと云う事になりそうである。パイク氏の場合は、東西の視点の差異を強調していたようだが、何らかの建設的な思考に繋がったのかどうかは知らない。
風景が様々な情報を持っている事は事実なのであろうが、これを解析的に扱うには限度があるので、それに何とか注意を促すというのが限界であろう。さもなければ、これまた固定化した概念を植えつけるだけになるからである。本来はそうした注意を促す現象が偶然に発生する事が自然である。
タウヌスの丘陵にあるクロンベルクの旧教教会から新興住宅地の方へと歩いていくと、何とも不思議な響きに気が付く。暫くすると音が止むので、発音基はなかなか分からない。暫く歩みを進めるとまた聞こえてくる。周りを伺って、耳を音の強くなる方へと持って行くと、遥か上空の城壁の上の鋭塔の風見鳥が目に入った。暫く観察をしていると、風が吹いて初めて回転軸が軋んでいる事が確認できた。
高音のハーモニックス成分の拡がる響きは何とも不思議で、何ら町の音の風景に影響を与えないかのような、並行した関係が面白い。城への登り口を探しながら旧市街を大小二周した。城門への道は、雪の凍る冬季は閉ざされたままで、またしても風見鶏を近くで観察は出来なかったが、町へと降りる途中で撮影する事が出来た。
この風見鳥の付いた塔へのリアリズム芸術家の関心は知らなかったけれど、奇しくもこうしてこの風見鳥に注目する事になったのである。回転軸に油を指す必要も無く、こうした日常とは違う世界に気づかされるような静かな環境が素晴らしい。その響きからして引伸ばされた薄板である事が知れる。
参照:
"cui-cui"-"pip-pip"/抽象的な言葉 [ 音 ] / 2004-11-08
木を見て森を見ず [ アウトドーア・環境 ] / 2006-01-28
タウヌスの芸術家植民地 [ 文化一般 ] / 2006-02-01
クロンベルクの皇后陛下 [ 女 ] / 2006-02-02
「ある若き詩人のためのレクイエム」 [ 文化一般 ] / 2005-01-30
デューラーの兎とボイスの兎 [ 文化一般 ] / 2004-12-03
「ナムジュン・パイク - Wikipedia」でデータを調べたら、興味深い逸話がいろいろ。
インスタレーションアートに興味のない小生、「阿部とともに、廃品を寄せ集めて、歩きながら空気袋を膨張させたり豆をぽろぽろ落としながら歩くロボットも開発した。(このリモコン式ロボット「K-456」は1982年、ニューヨークのホイットニー美術館での個展の際、パフォーマンス歩行中に自動車にはねられ、史上初のロボットの交通事故犠牲者となった。)」という逸話が面白かった。
ところで、動画が見えない。
http://blog.goo.ne.jp/j-tkfj/e/f26caa9c353592750f10ae5cb62dba0e
動画みれませんか?キャパシティーは充分あるのですが、DLが上手く出来ませんね。何回か再生を押している内に観る事が出来ます。如何もサーヴァー側の反応が良くないようです。メインテナンスをして欲しいものです。リポート有り難うございました!
ありがとうございました。
偶然にも私も風見鳥をしばし
今日、仕事帰りに見入ってました。
ただぼんやりとですが。
また宜しくお願い致します。
「音のある風景」ではなく「音の風景」。
面白い切り口だなぁと興味深く拝読しました。
知らないことを教わることができるのがblogの喜びです。
>何らかの既成の固定化された視点があってこそ、それを裏切る事で初めてその意外性が効果や価値を持つ
ゲージュツ、殊に現代美術にはそういう側面が必ずつきまとうような気がします。
人為的、人工的な創作活動を通していながら、偶然(の現象)との「結婚」を渇望し喜ぶシュルレアリストたち…(時に陳腐に思えることもあって、そういうことも含めて憎めません)。
注意を促す現象が偶然に発生する、という「自然」にめぐりあい、それに気づくこと。
そういう「風景」の中に自分の存在があって、初めて意味を持つ「瞬間」がそこかしこにあるんですよね。
トラバ本当にありがとうございました。
「そういうことも含めて憎めません。」-結婚渇望ですか、なるほどね。赤い糸で結ばれているのでしょう。
そうですね。そういう「風景」の中に自分の存在があると気が付く。主観と客観が交差する瞬間でしょうか。
他の記事も読ませて頂きましたが、結構ユニークです。コメントでまたお邪魔しますので宜しく。