Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

創造の霊感と呼ばれるもの

2023-05-17 | 
ミュンヘンの劇場からのオペラ「アイーダ」生中継を聴いた。前回のプロコフィエフ「戦争と平和」に続く新制作初日中継放送だった。演出はトレイラーや写真や話しなどでしか分からないが、最初から詰まらないものであることは分かっていた。特に新シーズンにフランクフルトでは先日のリディア・シュタイヤー演出があるので少し楽しみにしているから、あまりにもイデオロギー臭いものは興味がない。

そして演奏もラディオ放送なのでそれしか分からないのだが、昨年もミュンヘンでベルリオーズを振って評判の良かったリヨンのルスティオーニの指揮ももたもたしていて失望した。ケントナガノなどに続いて売れっ子の指揮者であり、エンゲルも客演して好評を得ているようにフランスで最も重要な歌劇場の音楽監督である。

歌手陣も主役のスキーヒナは昨年の「スペードの女王」で四晩も観て手の内は分かっていて、更にイタリアオペラとなると聴く価値もなかった。下位の劇場ではあれで務まるだろうが頂点では無理である。しかしミュンヘンの評論家連中は拍手に応える答礼で涙を流されて完全に逝かれてしまっている。その舞台捌きの手練手管も私はよく知っている。悪い女である。

それに引き換え指揮者ムーティに最高のヴェルディメゾソプラノとされたラッチェヴィシヴィリの声は金をとれるもので、今回のキャストで最もギャラが高かったであろうと容易に想像できた。

さてバイエルン放送協会の中継番組にはいつも精神医師が出て話があるが、ヴェルディの母親との繋がりが話題になっていて、本人は口外しないばかりか可也意識下に秘められていたものとされる。我々が、昨年の「スペードの女王」におけるチャイコフスキーの同性愛や「ブルートハウス」のハースのサディズム、そして「影の無い女」の人の性、「アシジの聖フランシスコ」のオディディプスコムプレックスなどに影響されている創作者の潜在意識をその音楽に見出す時に合点が行くようなことが多いのが芸術音楽なのである。人はそれを創作における霊感と呼ぶ。

それは創作の過程を考えてみればよいが、芸術音楽は機会音楽のように何かの必要性に迫られて創作される以前の創造の息吹がその原点にある。物分かりが良い人はこれで分かるだろう。何故大作曲家が音楽劇場の為に作曲したオペラなどにその創造の本質的なものが表されているか。台本があって、ト書きを作って、それに大作曲家がどのように曲をつけていくのか、その歌詞に導かれるだけではないのが楽劇と既に言及した。

特に楽劇においてト書き通りの演出というのが如何にその音楽の本質を理解していない者の戯言でしかないことぐらいは容易に想像できる筈だ。なるほど映画音楽の作曲もあり、劇音楽の作曲を大作曲家が為すことも少なくない。しかし音楽劇場作品というのは表現意欲だけでもそれだけの動機付けで済む筈がない。

「影の無い女」のようにその内容がある作品ほど劇場上演する場合は創造力に満ちた演出や舞台が欠かせなく、その指揮はそれだけの内容を読み込んで演出のコンセプトにも沿ったものでなければいけないのである。要するに演出がどうのこうのいう為にはそこまで音楽の内容を理解していなければお話しにならない。



参照:
報告から批評への相互関係 2023-05-16 | 文化一般
印象的な響き方のその時 2023-05-13 | 雑感
台詞が音楽を導く 2023-05-15 | 音

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