Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ペトレンコにおける演奏実践環境

2017-03-30 | 文化一般
承前)ベルリナーフィルハーモニカ―のデジタルコンサートホールのティケットを初めて購入した。なによりも前回お試しした時に生で再生不可だったミュンヘンの座付き管弦楽団の演奏会中継後半の録画は無くなっていてがっくりした。仕方がない。とは言ってもアンコールの「マイスタージンガー」序曲だけのことで、あとは音声や動画など全て手元に保存してある。またどこかで欠けているものも出るだろう。

Strauss: Sinfonia domestica / Petrenko · Bayerisches Staatsorchester


今回の主目的は先週生放送された「ハフナー」と「悲愴」の交響曲がジョン・アダムスの作品を挟む構造のプログラムである。ラディオと同じく録音技術的な傷はあるが、充分に使える音質でラディオよりも明晰である。ドイチュラントラディオは昔からRIASのものと比べて明晰さを犠牲にした音質で流していたのが今もなぜか傾向が変わらない。それもこれもマイクロフォンは同じ筈だが各々が別のミキシングをしているのだろう。

動画では悲愴交響曲の運弓などが確認できて助かるのだが、まだもう少しその辺りを纏めてみたい ― しかしその回答はインタヴューに奇しくも用意されている。ハフナー交響曲に関しては既に書いたが、キリル・ペトレンコのインタヴューでそれらが裏打ちされた感じになる。要するに、ハイドンに関しては言及していないが、ヴィーナークラシックにおける古楽器などのサウンド志向に対して、モーツァルトの場合はオペラをオリエンテーリングしながらアプローチすることで本質に迫ることが出来るということだ。同時にビーダーマイヤー的な快い響きに対して、もう少し刺激的な同時代的な感覚が折衷されるということだろう。コン・スプリトーソの展開部の短調へのその前の休止が、ラディオ放送とは違って、はっとさせないのはそこに視覚があるからだが、まさしく天才アマデウスの本質はピアノ協奏曲に表れるような歌劇におけるようなそうした心理の音楽構造となる。それを如何に交響曲として、その構造として明らかにするかということである。

このインタヴューにおいて興味深いのは楽員とのムジツィーレンとその演奏実践との関係への問いかけがフィルハーモニカ―からなされたことであろう。これはまさしく時間を掛けないと解決しない問題であり、ペトレンコがミュンヘンで実現していることが客演のベルリンでは出来ていないという当事者からの認証ともなる。特にフィルハーモニカ―の場合は、発し発しとそれでもクールに合奏することをカラヤン時代から旨としてきたことから未だに抜け切れておらず、これが次期監督に期待して、脱皮する可能性が希求されている点である ― そもそもサイモン・ラトル指揮の弱点と見做されているのは、ライヴにおけるムジツィーレンの現象への懐疑であって、ペトレンコがそれを埋め合わせることが期待されたのだ。歴史的にはフルトヴェングラー時代のフィルハーモニカ―はその点で全く違った訳で、現在特に弦などは楽員が高齢化しているようなので、新監督が二三年も仕事をすれば大分変わるのではなかろうか?

そこでは指揮者の職人的技術を超える話しとなっているのだが ― パブリックコミュニケーションが苦手とされる新監督は、話し出すとどうも止まらないような感じで、寧ろ自らかん口令を布いているとしか思われない ―、新聞はその職人的技量を他の指揮者と比較している。先ず同世代の指揮者の中で、キリル・ペトレンコはウラディミール・ユロスキーとその指揮技術の経済性と明晰さで双璧とされる ― 名前は聞いているが、そもそも指揮者など全く興味が無いことなので、正直だからどうだということになる。そして、アンドリウス・ネルソンズ、ヤニック・ネゼ・セガンやクリスティアン・イェルヴィなどのような無駄が無く、テューガン・ソキエフのように焦点が定まらぬことも無く、しかしながらテオドール・クレトツィスのように、表面的な無造作な音響に賭けるということはしないとされる。

インタヴューで本人も、指揮者の職人的な技量そして楽員のそれを日々問いかけながら仕事をしているというのは、既に周知であるようにその客演の状況によって ― つまり管弦楽団の技量や質、その演奏する環境によって、制約の中で狙いを定めていることがここでも語られている。演奏実践の難しくも面白いところは創作の抽象的な解釈や再現だけでなくて、芝居でも同じだがコンサートもある種の劇場の壁を超えた劇場空間のそうした固有の環境に存在するということであり、はからずもキリル・ペトレンコは創作事情をして、歴史的社会的なコンテクストの中でのそれを理解することとしている。まさしくこれは、創作における環境から影響を受けたインプットと、それが演奏実践されることでのアウトプットにおける環境への影響ということが出来るであろう。(続く

Mozart: Symphony No. 35 “Haffner” / Petrenko · Berliner Philharmoniker


参照:
Interview Kirill Petrenko im Gespräch mit Olaf Maninger (Digital Concert Hall)
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
陰謀論を憚らない人々 2016-03-29 | 暦

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