Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

デジタル演奏会の品定め

2016-09-21 | マスメディア批評
デジタルコンサートホールお試し券を使い切った。一週間足らずで、途中三回の生中継を含んで、六十曲以上を視聴した。多くは仕事をしながらBGMとして流しておいた。繰り返して観るべきものは殆どないが、永久保存物もある。ざっと、キリル・ペトレンコ指揮の六曲に続いて、ピエール・ブレーズの自作自演やストラヴィンスキーなどを中心に、そしてクラウディオ・アバド指揮のベルク作曲作品、またブロムシュテット指揮のヒンデミットや北欧作品、フランソワ・サヴィエー・ロート指揮のデビュー演奏会などである。

そして、現音楽監督のサイモン・ラトル指揮の数々の演奏会からである。先ずは何よりもシェーンベルク作曲「グレの歌」が永久保存版だった。在任中の音楽的な頂点ではないかと思う充実した演奏会だった。シュテファン・グールトの歌唱も素晴らしい。こんなに立派な歌唱が出来る人だとは知らなかった。シェーンベルク作品は後任監督のメインレパートリーになると思うが、この初期の曲に関してはそう簡単には凌駕しないのではないか。それ以外のシェーンベルクも名演揃いだ。

充実した響きという事ではブルックナーの交響曲第九番の四楽章完成版の演奏が取り分け素晴らしかった。これほど音響的に充実した響きで鳴らされた事は嘗て今までなかったのではなかろうか。この指揮者も完全に二十世紀後半のカラヤン亜流を逃れているのが大勲章である ― 同じようにどんなに美しく立派に鳴ってもハイティンク指揮の五番では亜流を一歩も出ないのが歯痒いばかりである。前監督も同様だ。

マーラー作品は今回は二曲しか聞いていないが、ブルックナーの方が音響的に充実しているのは意外だった。その他も当代一のハイドンの演奏やシベリウスの交響楽曲、生で体験した魔笛全曲、内田光子とのモーツァルトやメシアンなどレパートリーが広い。まだマタイ受難曲は聞けていないが、ピーター・セラーズ演出シリーズの「ペレアスとメリザンド」など立派な演奏が多い。

話題のアンドリス・ネルソンズ指揮「アルペン交響曲」はなるほど立派に鳴り、流石にソヴィエトのエリート教育システムの秀才で、楽譜も完全に読み切っている。これから鳴り響く音響をしっかりと和音連結で描いているところが憎い。それだけに完璧に鳴るのだが、シュトラウスだから月並みな鳴りでそれで終わりとは限らない。少なくとも指揮者ロートが指摘したカラヤンやティーレマンの風呂場での鼻歌シュトラウス程は行かなくてもそれほど変わらないのが嘆かわしい。この人を合衆国の名門が監督にして、東ドイツの名門が監督にするのは分からないではないが、その市場がエンターティメントを一歩も出ないことになるので反動も大きいのではなかろうか。少なくともドイツではこの人への評価は今後も限定されるだろう。要するにラトヴィアからの出稼ぎでしかない。そして顔写真と違ってあの体格や腹の出方は仲違いしたティーレマン監督にそっくりである。頭脳が良く似ているのだろうか。

三回の生中継を試聴してみて、完璧に流れることはなさそうで、こちら側の問題ではないことも窺い知れた。例えばペトレンコ指揮のアンコールの時はアクセスが集中したのか中断して、明らかに容量の問題だと感じた。ミュンヘンの歌劇場もベルリンのフィルハーモニカ―も一法人なので、公共放送のそのネット設備とは比較のしようがない。有料で映画館で流す時にはそれなりの態勢を取っているのだろう。アーカーヴ化が一週間後というのは一週間券の人に再度買わす効果があるのは理解できる。

レジデント作曲家ジョン・アダムスの自作自演コンサートも観たが。あの手のキッチュさは欧州ではキッチュ以外の何ものとしても通じないであろうから、その需要の可能性は限られているだろう。競演のヴァイオリニストもなにかタイ出身のスキー選手メイのヴァイオリンを思い起こさせた。これもアジアやアメリカ市場限定なのだろうか。

音響録音の技術的には、AACなのでそれ以上は期待できない。だから日本の企業がグレードアップしようとしているとあるが、そうなると今度はマイクロフォンセッティングなどの技術が問題になる。現時点のそれでは、なるほど現監督のラトル指揮の場合は比較的上手に録っているものがあるが、音質が良くなっても耳だけで音楽を聞けるような程度では全くない。要するにこの計画の問題点である。嘗てのカラヤンやネルソンスのような単純な鳴らし方を追求しているならば録音も容易なのだが、現在の音楽的な要求に堪えようとするならば正しいマイクロフォンセッティングは全く容易ではない。

今回一月以上前から準備万端を整えて、そしてボンでのコンサートを踏まえて、ペトレンコ指揮の最後のベルリンでの演奏会を再視聴した。辛うじてホールトーンなどが識別できる条件でになって初めてその演奏会の一端が掴めた。なるほどストラヴィンスキーから始めて、二曲のルディ・シュテファン、そしてスクリャビン「恍惚の詩」のプログラムは客演として十二分に力を証明している成功例だったと確認した次第である。

サイモン・ラトル指揮のリゲティもベリオもクルターク作品の演奏実践も充実している。エリオット・カーター作品はバレンボイムが振っている。管弦楽団は充分に新しい響きを身につけていて、その色彩のパレットはロート指揮のフランス音楽プログラムでも実証されている。管弦楽団自体は将来への可能性を残しているのを確認した。そこで、このデジタルコンサートホールがエンターティメント以上のものになるかどうかは不明である。優秀な人材を自前でやるのは、経済的にも上手にやらなければ、ドイツェバンクの寄付に頼っているだけでは難しいだろう。



参照:
価値ある管弦楽演奏会 2016-09-20 | 音
銅鑼の余韻の領域限界点 2015-04-07 | 音
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
伯林量子化演奏会の響き 2016-08-09 | テクニック
ジャンル:
サウンド
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