Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

もう一つの第六交響曲

2017-04-01 | 
もう一つの第六交響曲のお勉強を始めた。グスタフ・マーラーの悲劇的と呼ばれる交響曲である。バーデン・バーデンでは、キリル・ペトレンコ指揮の悲愴交響曲の翌日、サイモン・ラトル指揮で演奏される。この曲は、ベートーヴェンやシューベルト、チャイコフスキーなどと並んで第六番とされるものだろう。交響曲作家グスタフ・マーラーの最も完成された作曲としてもこの一曲は欠かせない。そのような訳で、他の六番に比較すると実演でも何度も体験している。

そこでデジタルコンサートから、2011年にラトル指揮で演奏されたものをダウンロードした。二楽章に緩徐楽章を演奏していて、最新の楽譜を使っているようだ。そのためか手元にあるオイレンブルク社のポケットスコア―にはないことがなされている。特にリタルタンドの指定などは早めにかけるにしてもその必然性などはよく分からない。この指揮者が準備して演奏している限り、何らかの示唆が新版にはあるのだろう。

全体の印象としては、テムポの設定が全く今までと異なる。そうして初めて、この二楽章と三楽章の入れ替えが違和感なく合理的に響くのは確かなようだ。この版の演奏では、ミヒャエル・ギーレン指揮SWF放送管弦楽団のザルツブルクでの演奏が一部では評価が高かったが、このベルリンでの演奏を聴くととても比較できないと思った。何よりも、校訂楽譜にどのような指示があるかは知らないが、そのテムポ配分が素晴らしく、ギーレン指揮のそれとは大分印象が異なる。それでも、共通しているのは、今までは早めのテムポで音響として鳴らされていた密に書き込まれている部分が、遅めのテムポで演奏されることで対位法的な枠組みの中での音程通しの引力・斥力を感じさせるところだろう。そのような力感覚はこの曲の有名な一楽章の第二主題などにも感じられていた訳で、シェーンベルクの初期作品での無重力感に繋がっていたことは皆認識していた。しかしこうして演奏されることで、嘗てのベートーヴェン的な動機の作曲技法以上に、なぜ新ヴィーン楽派にこの曲が直接の影響を与えたかがより実感されるようになった。

そしてラトルは、この曲の前にアルバン・ベルク作曲三つの作品を演奏しており、遅めのテムポのこの交響曲とベルクの曲で正味二時間に迫ろうというコンサートになっている。流石にバーデン・バーデンでは一曲上演となっているが、この2011年の演奏会はラトル監督時代の代表的な演奏会だったに違いない。まだ一週間ほど時間があるのでもう少し調べてみたいが、この交響曲の二楽章三楽章とその演奏形態などがどこでどのように変遷してきたのかなどもとても興味あることとなった。少なくとも、このラトル指揮の演奏実践は、細かなアゴーギクの必然性を除いては、とても説得力がある。

そこでどうしても思い出すのが、2014年12月に予定されたこの交響曲の演奏会をズル休みしたキリル・ペトレンコのことである。一体どの版で演奏するつもりだったのだろうか?こうした演奏を目の辺りにすると、違和感どころか中々以前の版には戻れない。しかし同時に、一客演指揮者として、決定的な楽曲解釈を演奏実践として示すのは決して容易ではなかったであろうと想像するのである。

Mahler: Symphony No. 6 / Rattle · Berliner Philharmoniker


参照:
デジタル演奏会の品定め 2016-09-21 | マスメディア批評
二十世紀を代表する交響曲 2015-03-24 | 音

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