Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

パラドックスの近代社会解析

2015-01-23 | 歴史・時事
日本人人質の話題は大衆写真紙にしか見つからない。あまり正式な話題にはしたくない事情があるのだろうか?ドイツの人質は全て解放されている筈だが。だから日本のネットを見ていなければ今回のニュースにも気が付かなかっただろう。日本では、フランクフルターアルゲマイネ新聞は例の再発行の表紙を載せなかったというデマが流布しているようだが、なるほど私よりも先には載せなかったが、発売日の様子を伝える町の写真として第一面の一番上に大きくカラーで掲載された。これが恐らく真相で、ガーディアンにしてもFAZにしても高級紙と呼ばれるものは中身で勝負しているので、その例えば「イスラム教におけるキリスト教と同等の改革が可能か」のような本質的な記事が重要で、あの手の大衆紙とは異なるのだ。つまり、つまらないところで挑発して反発を食らうのではなくて、その内容を読め込めば少なくともドイツ語の教養があればモスリムでも十分に自動的に啓蒙されるようになっている。そこからはじめて議論が始まるのである。

それよりも話題になっているのは、カウンターがPEGIDA(ライプチッヒのLEGIDA然り)の何倍も動員力があって、PEGIDA活動が護られると同時に急に勢いが失せてきていて、代表のヒットラーのチョビ髭事件と辞任と連なったのだ。日本の新聞などは最後のチョビ髭を桑田佳祐と同じように扱うのであろう。これが日本の大メディアであり、ジャーナリズムでもなんでもないものなのである。

またモスリム同胞団の創立者の子孫で、フランスではリベラルの論者として彼の射殺されたシャルブなどともTVで議論をしている有名人タリック・ラマダンのインタヴューが話題となっている。彼はかなり厳しくシャーリエブドを批判している。そこにモスリムのリベラルの本心がよく表れているとされる。ジュネーヴでは、そのものヴォルテールの「モハメッド」の上演を阻止して、また合衆国への入国が禁止されている人物でもあるのだ。フランス首相ヴァルスは人種隔離を批判しているが、まだまだ議論の余地のある事象である。

ネットを見ると、チョムスキーが今回の「報道の自由」をして、NATOによるユーゴの放送局爆破を挙げて、その理屈を批判しているようだ。CNNなどの情報を見ると更にノルウェーでの虐殺事件も挙げているようで、イスラエルの左翼新聞によれば、それが全てイスラエルにも向けられているとなる。勿論それは西欧のメディア報道への批判であるのだが、この左翼のユダヤ人老人が語るような構図が今も通じるのだろうかと疑問に思われる。つまり、西欧の価値観とはどこにあるのかということでもある。ポストモダーンにおけるマルキズムである。

非西欧のジャーナリズムが解析しなければいけないのは、その価値観であろう。それをしっかりと捉えることなくて、ユーゴスラヴィア空爆とパリの事件を文化の衝突として位置させても仕方ないのである。そうしたまるで透明人間のような姿勢を取る前に、イスラム諸国の刑罰の在り方や女性の権利を筆頭とする人権について、イスラム主義についてもう一度振り返るべきであろう。そこには、今日のジャ-ナリストとして ― またはありとあらゆる科学的な理性の学徒として、決して譲ることのできないイスラム主義への抵抗が沸き起こるに違いないのである。そもそもこの一連の件で、民主主義や表現の自由に懐疑したりするのが間違いなのである。

そこで、日本の報道を観察するととても興味深い。モスリム教徒への特に西欧における旧植民地出身や出稼ぎ労働者のモスリムへの共感が示されることが多い。その真意は分からないが、そのような発言をするのが、外交特権ヴィザで世界中で特権階級として滞在した元外交官などだとすると、その真意を問い質すべきだろう。このような視点での共感は、モスレムに向けられるのでもなく、イスラム圏文化に向けられているのだろうか?それとも非西洋の日本国の近代人としての共感なのだろうか?そうなると、大東亜共栄圏も直ぐそこではないか。ここにもパラドックスが表出する。それが、マルキストがアラブ民族に連帯を示すのとほとんど変わりがないという時代錯誤の視座も見え隠れする。

少なくともこの二十年だけを振り返っても、連邦共和国におけるイスラム問題は、重要な労働力となったトルコ人問題として、何度も繰り返し国会等でも扱われてきた問題である。だからあまりにもポピュリズムの巣窟としてのPEGIDA運動にしても、同様にドレスデンなどの自己意志で判断の出来ないドイツ民主主義共和国出身の人々特有の漠然とした社会への恐怖心 ― 社会主義体制は人民を覚醒させることなく、社会主義の蛹の中に人民を眠らせ続けていたのである ― を煽ったイスラム主義への嫌悪が炸裂した形となった。

東京新聞社がモスリムによって抗議運動を受けて、例のカヴァーの転載を説明しなければいけなかったという。こうした事態は今後繰り返される。日本は外国人労働者の労働力無くては国内産業は壊滅するに違いない。その時になって、日本社会自体が覚醒しなければいけなくなるのである。そこでは、モスリムの宗教的生活観の尊重などと呑気なことは誰も言わなくなる。十年ほど前、緑の党が政権に入ったときマルチカルチャーなどと薄っぺらい言葉が叫ばれ、今もメルケル首相は「モスリムはドイツに含まれる」とぶち上げて各界から批判が絶えない。現在のモスリムがモスリムらしく西欧で生活するときに、西欧の社会は崩壊していくのである。そこには基本的人権も近代的理性も秩序も消え失せてしまうのである。現在のギリシャがとんでも無い社会であるよりも ― だからギリシャ人はEUにおさまっていることをとても自慢に思っているという、東欧のロシアよりも、そのイスラム化した社会は退化してしまうのである。



参照:
首を喜んで差し出す外務省 2015-01-21 | 歴史・時事
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般

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