Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

首を喜んで差し出す外務省

2015-01-21 | 歴史・時事
一昨日警告したところだった。日本のメディアがあまりにも自らの置かれている環境も分からずに如何にも中立的な姿勢で、イスラム主義に対しているのを警告したところだった。安倍内閣がイスラエルとの軍事的な協力関係の確立の報道に続いて反ISIS支援を打ち出したので、ISISは良い機会と考えたのだろう。一人の男性はその渡航目的も知られており、斬首は免れないと思っていたが、もう一人のジャーナリストが拘束されているのは知らなかった。

イラク戦争時の人でなしの小泉に続いて安倍も同じように邦人の首を簡単に賭けるのだ。そしてそれを凝視しなければいけない責務を受け持つのである。日本人もフクシマ禍以降気が付いたように、日本外務省はこのような邦人の身代金どころか、救助などにも全く興味がない ― それどころか人質とされていた同胞の首を差し出す用意は整っていたのである。嘗ての人命優先(人命第一)などという意味不明の主張も消え失せ、利権のためならばそのような人命などは量るに足らないとするのが現在の外務省の在り方である。

ISISとイスラム主義を同一視しないとする考え方は当然存在する。それは正しくとも、一連の日本の反応をネットでみる限り、文化人を含めて日本人の考えの素朴さが顕著に表れた。そして、ドイツ人に先駆けて日本人の首が晒される時に、日本のそれはどのように変化するだろうか?とても興味深く、じっくりと観察したいと思っている。

反ISISを支援しようが、イスラエルと関係強化しようが、はたまたガザ支援をしようが、情報局出身の孫崎氏が語るように「東京で大規模な流血の無差別テロが発生する可能性」は容易に高まるのである。読売新聞が産経新聞などが爆破襲撃されても特に驚くに当たらない状況へと突き進むだけなのである。その時は三菱重工本社爆破事件のような左翼過激派の規模では済まないであろう。そのような想定内の状況に至っても日本人は日本のメディアは、それでも「イスラム教の価値観を尊重」と唱え続けるのか?

連邦共和国は、ISISの脅迫で一転してPEGIDA運動の保護へと動いた。我々の当然の主張を暴力の脅しで以て塞ぐことが出来ないことを示すことが最優先である。だからこそ連帯を示すことが重要なのである。日本はそのような状況になっても、自社が木っ端微塵に破壊されても、特派員の首が切られても毎日新聞は「価値観の尊重」を編集の是とするのだろうか?

日本の一部の文化人たちは、アジアでの自らの立場とパレスティナを代表とするような中近東を同一視して、飽く迄も西欧の植民地主義や帝国主義と対峙させて、広島・長崎(福島)の被害者として自らを位置づけたいと思っている。そして現にそうした活動や主張が講演会などでも繰り返されているのである。卑しくもジャーナリズムと称する者がなによりも留意すべきなのは「イスラムの価値観」などでは全くないのである。彼らが何よりも心掛けなければいけないのは、その表現によって人々の目を開かせ覚醒させることにあるのだ。啓蒙と呼ばれる西欧的な近代主義を否定まではしなくとも懐疑的な態度を通して、一体何を表現しようとしているのだろうか、ジャーナリストを名乗る日本人達は?

その意味からは、シリア取材の日本人ジャーナリストが狂信的なISISの面々によって斬首されても決しておかしくはないのだ。日本におけるジャーナリズムの不在を考える時に、やはり丸山眞男の書を紐解くことになるのだが、ヘーゲル弁証法から導き出されている、岡倉天心の「東洋の覚醒」における「あらゆる有機体は部分の全体への従属」を有機体論と結論つけて、「啓蒙主義の非歴史性を衝いたロマンティークが、しばしば啓蒙主義的歴史叙述よりもはるかに非歴史的な『民族精神』や『国民的性格』を歴史的素材から鋳造する、というパラドックス」をそこに見抜く。

なるほど、啓蒙思想には「今日よりも明日へ」の決して時間的なパラメーターが欠けている訳ではないが、覚醒の非連続性によって、歴史性をもたないのだろう。ここで批判的なアドルノの文章を読むと、そこに操作が介入する余地が残されているとなるだろう。理性が機能化して、それがおのずから無駄を省いていく機構として働くことを意味する。そして、観察そのものが機能を果たさないとき、啓蒙主義自体が原理原則となることを説いている。

日本人は現在起こっている時事を下らない被害者意識で観察していたのでは明日はないのである。そもそも覚醒しない懲りない人々の首はなにに役立っているのだろうか?



参照:
ポストモダーンの歴史化 2015-01-19 | 歴史・時事
己の文化程度を試す踏み絵 2015-01-14 | 文化一般

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2 コメント

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許せない2人 (matsubara)
2015-01-21 10:26:53
そもそも危険地帯に平気で行く日本人には
誰も批判しないのがおかしいです。

自殺行為に他ならないと思うのですが・・・
平和ボケが高じてこうなるのでしょうか~
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人質の一人 (pfaelzerwein)
2015-01-21 14:17:55
もう一人の方の仕事ぶりをネットで確認しました。安倍が言うような難民などの状況を伝えるにはこうした報道も役に立つでしょう。しかし公式には邦人保護が不可能なので外務省は渡航の規制をして責任逃れとします。同様な例は自称ISISの邦人の家宅捜索にもあって、もう一人の人質救助に手が出せなかった事を示しています。そのような事情があるのでミイラ取りがミイラになった彼を批判するには忍びないでしょう。

しかし、ああした現地通の人の常で、大局的な視座が欠けているのは仕方ありません。彼らはイスラムの友人として疑いを持っておらず、往々にして曲解しているのです。それは何も現場の人に限らず、今回の事件が示すように、日本国のイスラム世界における立ち位置も見えていない嘗ての左翼知識人も少なくないのです。

いかに日本が対岸の火事として一連の事象を捉えていたかが分かります。
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