光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

紫蘭明暗

2007-05-16 19:01:23 | 植物・花(春)
  ホトトギスは、その鳴き声で、たぶんやって来た、と思った。それ以外に、と考える。カツオは、さすがにこの辺りでは売っていない。カツオがドウノコウノ、聞いた事がない。話題になるのは、季節を抜きにしてだが、やはりブリの小さいのから、大きいのまでで、小さいのは、フクラギとかツバイソと言う。これも、この辺りだけかどうか、魚の名前は多ければ多いほうがいい。イナダ、ハマチか、ハマチは、これは今まで何度も聞いた。
  魚と聞いて、それが何かわからない、このどきどき感がある。だから、あまりガイドブックなど読まずにやって来てこの魚は、ホントおいしいですね、て言うに限る。自分は、東京にいるから、築地の市場経由で日本はおろか全世界中のうまい魚を知っている、なんて知っていても、知らないふりをするのが、おいしく各地の魚を食べる方法ではないか。
  この辺りで、カツオは食べたことがないようなこと書いたが、一度だけ、かなり昔だが、小型のそれでもカツオの名が付いていて、刺身で売っていた。その値段と、その量と、多かったのである、刺身の状態を見て、これはいける、と思った。そのとおりで、やはり、私は今でも安くてうまいカツオの刺身を食べたい。誰でも、そうかも知れない。成長してブリとなったものが、どこへ行くか、そんな事はネコでも知っている。
  ホトトギスから、カッコウに行く予定だったが、どうもとんでもない方へ話しがそれた。ホトトギスはいいとして、いつもその鳴き声ですぐわかる鳥、カッコウ。こんな声で鳴く事は決してないが、それがやって来ない。ここでは、ホトトギスではなく、カッコウでないと困る。この鳥の鳴き声は、その名前とぜんぜん似ていないが、感触はわかる。英語の発音にも似ていない。そもそも、その鳴き声を文字にする事がおかしい。これは、やはり物まねのプロの方のお仕事である。一体、今年は、いつカッコウはやって来るのか。去年は、小さなカエル、アマガエルかどうか、そのカエルの姿は見ることがなかった。それまでは、毎年現われて、食器の上に乗っかったりしたものだ。
  今日は、なかなかのいいお天気だった、暑くもなく、涼しくもなく、また風もほどほどであった。どんよりしていて、眠気が、原因は不明、襲ってくる。これではいけないと、あちこちつねったりする。どうしたもんやら。

  紫蘭、シランは、一度登場した。再登場である。気が付くと、まーどこにでもあることがわかり、特に騒ぐものでもない。それが、またいいわけである。なぜ、ここにはないか、それが不思議だ。それで、同じときに、機械の条件は同じで撮ったもので、おやおやというものがある。



  すでに、花の寿命を終えているものもある。この後どうなるかその姿も見た。ムラサキ色で、これは名前の通り。



  肉眼でファインダを見てると、それほど違いはわからないが、たぶん一瞬日が陰ったか、日影のところを撮ったのだろう。暗くすれば、何かが隠れるわけでもないが、この辺り微妙に心をくすぐるものがある。

行雲か閑雲か

2007-05-16 07:30:31 | 散策
  朝の天気、晴れ。ほぼ快晴。うす雲が少し、穏やか。室温17℃。
  日の当たっていないところに行く。少しひんやり、さらに、冷たいトマトなど食すると、これは野菜ではないことがわかる。冷たすぎる。さらに、味がない。端境期のしょうもなさ。それで、冷えてきてヒータを付ける。まだ、灯油ヒータを出している。これが必要なのである。
  まわりの木々の葉が、やけに大きく生長する。妙な表現だが、幹や枝も伸びて、さらに新芽が出る。ここには、常緑のモチノキがいやっというほどあって、これがやけに目立つ。カエデや、柿の木も、これももう古木といっていい、100年以上生きているに違いない、すでに、葉っぱは出揃った。虫がいれば、これはおいしそうですぐにも食べられてしまう、でも、まだそのような状態になっていない。この木を見ていると、これまであった、空間がなくなったようで、また雲の流れも見えなくなって、何とも複雑な気持ちになる。
  行雲野鶴、と言う言葉はなかった。行雲流水であった。さらに、それではと、野鶴を引くと、閑雲野鶴があった。行雲流水は、執着することがない、と言うこと。それに対して、閑雲野鶴は、何の束縛も受けない、と言うところが、注目するところかも知れない。似ているようで、かなり違う。なかなかそうゆう風に生きる事は出来ない、そう言う意味では、似ている。
  鶴は一応生き物で、これは意思をも持って行動する。自分の本能というものがある。子孫の繁栄のために、生きている。水は、これは、自然そのものに近い。あるいは自然そのものか、それだと執着なんてないだろう。ポテンシャルに逆らって、滝を逆行する水はありえない。しかし、水がなければ、まず生き物の存在は考えられない。こっちの方が、低次元、原始の存在。それに、執着云々の意味を持たせているのは、何かより深い意味があるのかも。
  天気がいいから、どうもおかしな事がよみがえった、そうゆう事です。