光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

ぽっかりと空いた虫空間

2007-05-24 19:16:11 | 植物・花(春)
  この三、四日いいお天気が続いて、初夏を通り越して、夏が近いことを感じさせる。それで、少し前まで、窓は閉めたまま、さらに眠るときは、冬モードという事をやっていたわけだが、さすがに建物も温まり、朝の冷却もなくなると、これは、何か確実な変化があると言わざるを得ない。
  木造の建物は生きている。ホントかどうか、それに近いものでいうと、例えば、私は床の、板の間の、カタカナだとフローリング、の上にいるわけだけど、ミシミシという音がする。あまり気分のいいものではない。木造の建物がどのように作られているか、もっと詳しく知っているべきであった。それが、思うとおりにゆかなくて、わずかに、かろうじて、この建物をつくりあげているある時間に、そのときの写真を撮っていただいていて、それはもうずいぶんと昔になるが、少なくとも、この板の間の下には、何本かの水平方向の支えの木材が入っていることがわかる。
  この板の間が、なぜギシギシ音をたてるか、これは乾燥して、木材も悲鳴を上げていると言うことだろう。重力に対して、床板は、抗力で支える。このとき、板のどこかのレベルで、ギシギシいう、一種の非常事態、あるいは、よくある変形作用が起きていて、それゆえこの板の間は安全である、と言うことも出来るようである。まさか、合板ではないだろうな。
  これと、似て非なるものに、虫の今どきの活動があげられる。いっとき、かなり虫に出会って運よく、ファイルにおさめることも出来た。最近は、どうしたことか、あまりぱっとしない。それでも、小さな虫はたくさんいる。例えば、白色のシャクヤクの花に、蟻かあるいはそれより小さいアブか、ハチが、ぽつんと写っている。そうゆうファイルを選んで載せた。そんなに大仰に言うことではないが、これが今どきの、花の周りの事実である。また、ここにあるシャクヤクも、どうにか二つ咲いてくれたが、そのまわりは、蜘蛛の巣がどっかとあって、申しわけないが、撮る時に少し、それを払った。
  そうゆう事があるかも知れない。花のまわりには、まず蜘蛛が寄ってきて、花には巣を張らないが、そのまわりの小さな草やら、木々の枝を支えどころにして巣を張る。花が咲けば、いやでも、その花そのものあるいは甘い蜜を求めて、虫たちはやって来る。蜘蛛は、まるでおとり捜査をやってるごとく知らん顔をして、獲物がかかれば、それをいただく。
  小さな蛾のようなもの、それにハナアブが、すでにだたの物質として蜘蛛の巣の中にある例は、何度か見た。自然界の位置でゆうと植物は、虫の餌であって、もっとも、同時に植物はそれを利用して、自身の更なる繁栄を達成している。それで、虫と蜘蛛の関係はどうか。何だか、怪しげなところに来てしまった。そんなこと考えていない。今ひとつ、なぜ、虫の姿が、目に付かないか、小さな虫は別にして、ただ、今はそうゆう時期なのかも知れない。

  シャクヤクのことだけが頭にあって、いざ一応出てしまうと、他に何があったか、なかなか出て来ない。ここは、少し昔のもので、



  この花ですね、アヤメ科のある花。大きいし風が吹くと大きく揺れるし、でも花だけでなく全体が写っているものがあって、平凡だけど選んでみました。



  これは、コンクリートつながりで、何だかわからない花。ただ、この近く、地面にも咲いていて、まず庭に咲いて、それが、こんな道路の端にも咲いたのだろう。花の上に、緑、これも花かな。それと、赤い点のようなもの、小さな生き物、虫かどうか。ちょっとしたアクセント。これ見て、痒くなる事はないと思う。

どんどん拡大すると、どうなっちゃうか

2007-05-24 07:31:24 | 散策
  朝の天気、晴れ。三日続けて晴れで、風は弱く、空気はよどんでいる。靄があって視界は悪い。室温21℃。夜は、窓を開けっ放しにした。
  外の大きな木の白い花や、きらきら光る畑の反射テープを見る。このテープは、やっぱりカラス対策かな。ここで書いている事は、要はと書くと一行で終わりそうで、それを最近ずいぶん膨らませていることに、少し危惧を抱く。自分で書いていておかしな気もするが、もう一人の自分が警告もし、失笑あるいは苦笑する。
  それで、例えば、なんでもいいが、ここにある今年の手帳を拡大していくとどうなるか考える。白い紙に、罫線と文字が印刷され、私の読めない、のたくった文字が、黒か、ブルーのボールペンで書かれている。
  印刷文字は、これは拡大すると、全体はもう見えない。そこには、薄いインクの粒子とまだ白い紙が混合している。新聞の写真などは、拡大鏡で見ると、小さな円の大小で構成されていて、これで類推すると、その先には、白地と、印刷粒子が、ぱらぱら見えることになる。さらに、大きくすると、もはや印刷粒子はなくなって、全部が白になってゆく。でも、まだ、そこは植物の繊維の世界だ。
  対照的な、あるいは次元の違うものに、一本の直線がある。そこに、0、1、2、3、・・・と座標を打てば、これは数直線の世界で、これまた拡大できる。
  0と1の間だけを考えても、そこを拡大すると、色々な数字が見えてくるが、決して、まばらにならないで、色々な数字は、実に密にきざまれている。すでに、原子の世界に入るくらい拡大しても、そこには、まだいやっというほど、数字は存在して、いくらクオークの世界だからといって、ぱらぱら、あるいはある特定の値しか存在しない、そうゆう事はない。そこには、無限の数字がきざまれている。また、線には太さはない。いくら拡大されても、それは、線としてある。
  そこで、最近思うのは、ある連載小説を例えばある広報誌で読んでいるが、話しが、今年のお正月から始まったとして、もう第5回終了したのだが、だが、話しはある男女がめぐり合って、ようやく喫茶店に入り、ようやく何を飲むか注文したところ、そうゆうところまでしか来てないことがわかると、この先どうなるか、1年たってもまだ、ジュースをすすっている、その辺りではないか想像にかたくなく、少し気が抜ける。こうゆう感想が、話しを膨らませる、あるいは拡大していることを意識させるのだが、どうも自分も、これはプロの作家さんと同一にはどう考えても出来ないが、やっぱり少しは、ピリッとスジの通った、簡潔な文を書くことを意識しないと、っと思う。
  それはいいが、やっぱり、これも、ただの拡大、あるいは拡散で終わっていて、あきませんです。もう一人の自分は、あきれて無視している。