光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

厚ぼったい雲が空を覆ったが、わずかの時間で、快晴の空が出る不思議、2月18日。

2016-02-20 14:08:18 | 散策
  えーっと、格別新しい何かはないので、画像は2月18日の雲。

  18日の木曜日、朝は日が出たが、その後はヒツジ雲か鯖雲か鰯雲か、と思われる雲で、空はほとんど覆われて。


  それで天気予報は、たしか晴れという言葉もあって、大体の感じでしか書けないが、1時間か、1時間半かで

  雲はなくなってしまった。この様子を見ていたわけではないが、ふと気が付くと、空は快晴。

  太陽以外何もなくなった。ちょうど二日前である。


  この日は、暖かくはなかった。雪がまだ屋根に残っていた。で、この真っ青な空が出た後、カチカチになった

  雪、あるいは雪氷が、融けはじめて、空は真っ青だが、屋根からは、雪融けの水がぼたぼたと落ちて、それを

  見ていると、外に出てみようという気もなくなった。こうゆうことを書いたことを思い出した。


  で、毎度切羽詰った感じであるが、画像としては、雲は同じようなものが出るときが多いが、そこに青空だけ、と

  いうよさもあるが、それまでに空を覆った雲はどうゆうものか、こちらに関心はゆく。あの天気で、1時間と少しで

  雲のまったくない青空が出る。これは予想はできなかった。この空の青、これまでのカメラの設定では、キヤノンの

  ものが多いが、濃すぎる気もするし、少しパラメータを変えたりもした。真っ青な空、はそれはそれで美しく

  またカメラもだんだんと、老朽化してゆくようなので、それに合わせるとき、この青は、有効だなと思う。


  きのう出している、梅の画像は、この18日のもので、時間をもう一度たしかめてみると、午後の3時を過ぎていた。

  そのとき、こんなに空は青い。でも午前中は、雪融けの水がボタで、なおかつ気温は上がってはいなかった。

  だから午後の3時だと、多少は暖かさがある。そう思ったのだが、実際は風があって、感じるものは

  梅の白さと、空の青さはいいが、寒さだった。あるいは寂しさ。懐も寂しいし、目の疲労もずいぶんとあった。

  梅の画像を撮っていたときは、右手でカメラで、左手でときどきメガネをはずした。でもカメラも、手を伸ばして

  ある長さ離れると、メガネをかけていても老眼の影響はなかった。このいまかけているメガネだと、1mほど離れて

  いると、特に問題はない。近いところがだめである。がんばって、50cmだが。

  PCのモニタは70cmくらい、自分の目玉と離れている。文字は、周りが明るくなければ、ちゃんと見えるが。


  どうゆうわけか、ブログ、gooもそうだけど、やけに小さい文字が画面に出る。これを大きくすることも出来るが、

  今度は違和感が出る。結果として、大きくしていたときもあるが、いまは、特に文字の大きさに関して

  変更はしていない。

  
  で、空の雲の様子は、私もよく撮っているが、これに関して何かいうことがあるか、というと、ないのである。

  形、雲の厚さ、立体感、色合い、どの程度の雲か、運がいいと、見栄えはする。この程度である。


  2016年で、平成でいうと、28年になって、昭和で言うと、91年であって、私も齢をとった。

  つくづくそれを思う。10年前がある。20年前もある。あまりもう覚えていない。

  その10年前ころ、自分の顔を撮ったことがある。それからも何回か、カメラで自分の顔を撮っている。

  どうゆう顔をしているか。鏡で見るのとは違うものがある。


  顔はやはり印象は深い。もういなくなって、かなりたつ両親の顔も、今ごろもう少し撮っておけば、とまだ思って

  いるが、適当なものがなかなかない。思い出せないものもある。母のものは、程ほどにあるが、すでに

  認知症もはっきりとして、感情の変化が激しかったので、古いものを仏壇の前に飾ってある。このとき父も

  まだ特に問題はなく、いまでも思い出す顔がある。むかし、というとフィルム写真になるが、昭和も40年台に

  なると、小さいものが多いが、まだ若い両親の写真もある。父は、どうも機械には強くなかった。でもヤシカの

  二眼レフは持っていた。これはしかし、私が壊した。月の石が、大阪万博で展示された。

  父だけ、行きたかったらしい。私は行かなかった。カメラは、オリンパスのペンで、もちろん暗いから

  ボケたプリントが、カメラ店から戻ってきた。この写真、まだあるかな。

  私の赤ん坊のときの、裸の写真もあった。とても、こんな人間になるだろうとは予想できないものである。

  2歳くらいか。


  で、ときどきだが、2006年に撮った自分の顔写真を見る。あるとき、ここにあったかということである。

  今朝は、顔ははれぼったく、また左目の瞼がやけに下にさがっている、朝の顔を見て、ありゃこれは死んでいるなと

  思った。それに比べて、2006年の私のデジタルで、プリンタで打ち出した写真は、別物のように思える。

  人間、齢を重ねると、その老化の程度は、ますます加速する。確信を持った。

  アンチ云々は、顔や皮膚や内臓や体格では、なさそうである。この先、何年あるか、何ヶ月か、あるいはもっと

  少ないかも。そうゆう予想は簡単である。


  写真は、若いとき、少なくても、50くらいまで、いや一番元気だ、そうゆうときのものを撮っているといい。

  そう思う。


  それで、雲の画像である。最後には真っ青な空。こうゆう風に人もなれたら。とも思わせるものが。




  その一。硬そうな、ヒツジ雲、あるいは鰯か鯖か。今日は魚は漢字にした。




  その二。




  その三。




  その四。こちらは東の空、毎度。





  その五。南。時間的に連続性はある。続けている、移動に多少は、かかるが。




  その六。この雲は、少し柔らかそう。





  その七。西側。




  その八。




  その九。執拗に、融けない雪。




  その十。1時間くらい後。真っ青。紫外線は多そうだが。


  最近の大気中のオゾンはどうなっているのかな。紫外線は、オゾンに作用する。

  X線、ガンマ線。これが地球表面に大量に降り注ぐと、やはり具合は悪い。その量がどの程度は知らないが。

  大気圏の外に出て、遠く離れて、X線天文衛星は活躍。



どんよりお天気、蜘蛛の巣が夕日で光っていた。

2016-02-20 07:13:39 | 散策
  遅れた。


  暖かいこともあるが。

  朝は、ヒーターのファンの音やTVの音、あと鳥の鳴き声で、室内では小さな音は聞こえない。

  それで、いるかなと思って、ドアを開けると、そこで待っているネコがいる。

  小さく鳴いた。きのうは、日当たり良好のところで、長い時間昼寝していたが、そのまま帰っていった。


  食べているものは私と同じだが、皿は別で、また出すときは、小皿に入れ替えて、温める。

  この作業に、だんだんと時間がかかるようになった。滑るし、油が付くときもある。


  みな食べていったようである。


  これに15分くらいかかった。


  窓から外を見ていると、もう明るいので様子はわかるが、黄色っぽい色である。

  蛍光灯の光が白っぽい。壁紙も白いので、この黄色い色がわかるがある程度時間がたつと

  それもなくなってゆく。


  春は黄砂の季節でもあるし。

  うっすら立山連峰だが、雲薄いところも、黄色っぽい。これはしかしお日様の色だな。


  これはもう一昨日の夕方。何かが光っている。蜘蛛の巣だった。












  そのときはわからなかった。蜘蛛ももう出てきている。



  今日は雨で、日曜は雪だそうだ。

  弱ったね。