えーっと、格別新しい何かはないので、画像は2月18日の雲。
18日の木曜日、朝は日が出たが、その後はヒツジ雲か鯖雲か鰯雲か、と思われる雲で、空はほとんど覆われて。
それで天気予報は、たしか晴れという言葉もあって、大体の感じでしか書けないが、1時間か、1時間半かで
雲はなくなってしまった。この様子を見ていたわけではないが、ふと気が付くと、空は快晴。
太陽以外何もなくなった。ちょうど二日前である。
この日は、暖かくはなかった。雪がまだ屋根に残っていた。で、この真っ青な空が出た後、カチカチになった
雪、あるいは雪氷が、融けはじめて、空は真っ青だが、屋根からは、雪融けの水がぼたぼたと落ちて、それを
見ていると、外に出てみようという気もなくなった。こうゆうことを書いたことを思い出した。
で、毎度切羽詰った感じであるが、画像としては、雲は同じようなものが出るときが多いが、そこに青空だけ、と
いうよさもあるが、それまでに空を覆った雲はどうゆうものか、こちらに関心はゆく。あの天気で、1時間と少しで
雲のまったくない青空が出る。これは予想はできなかった。この空の青、これまでのカメラの設定では、キヤノンの
ものが多いが、濃すぎる気もするし、少しパラメータを変えたりもした。真っ青な空、はそれはそれで美しく
またカメラもだんだんと、老朽化してゆくようなので、それに合わせるとき、この青は、有効だなと思う。
きのう出している、梅の画像は、この18日のもので、時間をもう一度たしかめてみると、午後の3時を過ぎていた。
そのとき、こんなに空は青い。でも午前中は、雪融けの水がボタで、なおかつ気温は上がってはいなかった。
だから午後の3時だと、多少は暖かさがある。そう思ったのだが、実際は風があって、感じるものは
梅の白さと、空の青さはいいが、寒さだった。あるいは寂しさ。懐も寂しいし、目の疲労もずいぶんとあった。
梅の画像を撮っていたときは、右手でカメラで、左手でときどきメガネをはずした。でもカメラも、手を伸ばして
ある長さ離れると、メガネをかけていても老眼の影響はなかった。このいまかけているメガネだと、1mほど離れて
いると、特に問題はない。近いところがだめである。がんばって、50cmだが。
PCのモニタは70cmくらい、自分の目玉と離れている。文字は、周りが明るくなければ、ちゃんと見えるが。
どうゆうわけか、ブログ、gooもそうだけど、やけに小さい文字が画面に出る。これを大きくすることも出来るが、
今度は違和感が出る。結果として、大きくしていたときもあるが、いまは、特に文字の大きさに関して
変更はしていない。
で、空の雲の様子は、私もよく撮っているが、これに関して何かいうことがあるか、というと、ないのである。
形、雲の厚さ、立体感、色合い、どの程度の雲か、運がいいと、見栄えはする。この程度である。
2016年で、平成でいうと、28年になって、昭和で言うと、91年であって、私も齢をとった。
つくづくそれを思う。10年前がある。20年前もある。あまりもう覚えていない。
その10年前ころ、自分の顔を撮ったことがある。それからも何回か、カメラで自分の顔を撮っている。
どうゆう顔をしているか。鏡で見るのとは違うものがある。
顔はやはり印象は深い。もういなくなって、かなりたつ両親の顔も、今ごろもう少し撮っておけば、とまだ思って
いるが、適当なものがなかなかない。思い出せないものもある。母のものは、程ほどにあるが、すでに
認知症もはっきりとして、感情の変化が激しかったので、古いものを仏壇の前に飾ってある。このとき父も
まだ特に問題はなく、いまでも思い出す顔がある。むかし、というとフィルム写真になるが、昭和も40年台に
なると、小さいものが多いが、まだ若い両親の写真もある。父は、どうも機械には強くなかった。でもヤシカの
二眼レフは持っていた。これはしかし、私が壊した。月の石が、大阪万博で展示された。
父だけ、行きたかったらしい。私は行かなかった。カメラは、オリンパスのペンで、もちろん暗いから
ボケたプリントが、カメラ店から戻ってきた。この写真、まだあるかな。
私の赤ん坊のときの、裸の写真もあった。とても、こんな人間になるだろうとは予想できないものである。
2歳くらいか。
で、ときどきだが、2006年に撮った自分の顔写真を見る。あるとき、ここにあったかということである。
今朝は、顔ははれぼったく、また左目の瞼がやけに下にさがっている、朝の顔を見て、ありゃこれは死んでいるなと
思った。それに比べて、2006年の私のデジタルで、プリンタで打ち出した写真は、別物のように思える。
人間、齢を重ねると、その老化の程度は、ますます加速する。確信を持った。
アンチ云々は、顔や皮膚や内臓や体格では、なさそうである。この先、何年あるか、何ヶ月か、あるいはもっと
少ないかも。そうゆう予想は簡単である。
写真は、若いとき、少なくても、50くらいまで、いや一番元気だ、そうゆうときのものを撮っているといい。
そう思う。
それで、雲の画像である。最後には真っ青な空。こうゆう風に人もなれたら。とも思わせるものが。
その一。硬そうな、ヒツジ雲、あるいは鰯か鯖か。今日は魚は漢字にした。
その二。
その三。
その四。こちらは東の空、毎度。
その五。南。時間的に連続性はある。続けている、移動に多少は、かかるが。
その六。この雲は、少し柔らかそう。
その七。西側。
その八。
その九。執拗に、融けない雪。
その十。1時間くらい後。真っ青。紫外線は多そうだが。
最近の大気中のオゾンはどうなっているのかな。紫外線は、オゾンに作用する。
X線、ガンマ線。これが地球表面に大量に降り注ぐと、やはり具合は悪い。その量がどの程度は知らないが。
大気圏の外に出て、遠く離れて、X線天文衛星は活躍。
18日の木曜日、朝は日が出たが、その後はヒツジ雲か鯖雲か鰯雲か、と思われる雲で、空はほとんど覆われて。
それで天気予報は、たしか晴れという言葉もあって、大体の感じでしか書けないが、1時間か、1時間半かで
雲はなくなってしまった。この様子を見ていたわけではないが、ふと気が付くと、空は快晴。
太陽以外何もなくなった。ちょうど二日前である。
この日は、暖かくはなかった。雪がまだ屋根に残っていた。で、この真っ青な空が出た後、カチカチになった
雪、あるいは雪氷が、融けはじめて、空は真っ青だが、屋根からは、雪融けの水がぼたぼたと落ちて、それを
見ていると、外に出てみようという気もなくなった。こうゆうことを書いたことを思い出した。
で、毎度切羽詰った感じであるが、画像としては、雲は同じようなものが出るときが多いが、そこに青空だけ、と
いうよさもあるが、それまでに空を覆った雲はどうゆうものか、こちらに関心はゆく。あの天気で、1時間と少しで
雲のまったくない青空が出る。これは予想はできなかった。この空の青、これまでのカメラの設定では、キヤノンの
ものが多いが、濃すぎる気もするし、少しパラメータを変えたりもした。真っ青な空、はそれはそれで美しく
またカメラもだんだんと、老朽化してゆくようなので、それに合わせるとき、この青は、有効だなと思う。
きのう出している、梅の画像は、この18日のもので、時間をもう一度たしかめてみると、午後の3時を過ぎていた。
そのとき、こんなに空は青い。でも午前中は、雪融けの水がボタで、なおかつ気温は上がってはいなかった。
だから午後の3時だと、多少は暖かさがある。そう思ったのだが、実際は風があって、感じるものは
梅の白さと、空の青さはいいが、寒さだった。あるいは寂しさ。懐も寂しいし、目の疲労もずいぶんとあった。
梅の画像を撮っていたときは、右手でカメラで、左手でときどきメガネをはずした。でもカメラも、手を伸ばして
ある長さ離れると、メガネをかけていても老眼の影響はなかった。このいまかけているメガネだと、1mほど離れて
いると、特に問題はない。近いところがだめである。がんばって、50cmだが。
PCのモニタは70cmくらい、自分の目玉と離れている。文字は、周りが明るくなければ、ちゃんと見えるが。
どうゆうわけか、ブログ、gooもそうだけど、やけに小さい文字が画面に出る。これを大きくすることも出来るが、
今度は違和感が出る。結果として、大きくしていたときもあるが、いまは、特に文字の大きさに関して
変更はしていない。
で、空の雲の様子は、私もよく撮っているが、これに関して何かいうことがあるか、というと、ないのである。
形、雲の厚さ、立体感、色合い、どの程度の雲か、運がいいと、見栄えはする。この程度である。
2016年で、平成でいうと、28年になって、昭和で言うと、91年であって、私も齢をとった。
つくづくそれを思う。10年前がある。20年前もある。あまりもう覚えていない。
その10年前ころ、自分の顔を撮ったことがある。それからも何回か、カメラで自分の顔を撮っている。
どうゆう顔をしているか。鏡で見るのとは違うものがある。
顔はやはり印象は深い。もういなくなって、かなりたつ両親の顔も、今ごろもう少し撮っておけば、とまだ思って
いるが、適当なものがなかなかない。思い出せないものもある。母のものは、程ほどにあるが、すでに
認知症もはっきりとして、感情の変化が激しかったので、古いものを仏壇の前に飾ってある。このとき父も
まだ特に問題はなく、いまでも思い出す顔がある。むかし、というとフィルム写真になるが、昭和も40年台に
なると、小さいものが多いが、まだ若い両親の写真もある。父は、どうも機械には強くなかった。でもヤシカの
二眼レフは持っていた。これはしかし、私が壊した。月の石が、大阪万博で展示された。
父だけ、行きたかったらしい。私は行かなかった。カメラは、オリンパスのペンで、もちろん暗いから
ボケたプリントが、カメラ店から戻ってきた。この写真、まだあるかな。
私の赤ん坊のときの、裸の写真もあった。とても、こんな人間になるだろうとは予想できないものである。
2歳くらいか。
で、ときどきだが、2006年に撮った自分の顔写真を見る。あるとき、ここにあったかということである。
今朝は、顔ははれぼったく、また左目の瞼がやけに下にさがっている、朝の顔を見て、ありゃこれは死んでいるなと
思った。それに比べて、2006年の私のデジタルで、プリンタで打ち出した写真は、別物のように思える。
人間、齢を重ねると、その老化の程度は、ますます加速する。確信を持った。
アンチ云々は、顔や皮膚や内臓や体格では、なさそうである。この先、何年あるか、何ヶ月か、あるいはもっと
少ないかも。そうゆう予想は簡単である。
写真は、若いとき、少なくても、50くらいまで、いや一番元気だ、そうゆうときのものを撮っているといい。
そう思う。
それで、雲の画像である。最後には真っ青な空。こうゆう風に人もなれたら。とも思わせるものが。
その一。硬そうな、ヒツジ雲、あるいは鰯か鯖か。今日は魚は漢字にした。
その二。
その三。
その四。こちらは東の空、毎度。
その五。南。時間的に連続性はある。続けている、移動に多少は、かかるが。
その六。この雲は、少し柔らかそう。
その七。西側。
その八。
その九。執拗に、融けない雪。
その十。1時間くらい後。真っ青。紫外線は多そうだが。
最近の大気中のオゾンはどうなっているのかな。紫外線は、オゾンに作用する。
X線、ガンマ線。これが地球表面に大量に降り注ぐと、やはり具合は悪い。その量がどの程度は知らないが。
大気圏の外に出て、遠く離れて、X線天文衛星は活躍。