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手ざわりのある家

2012-05-06 12:11:06 | 日々

画家ジョージア・オキーフの晩年の生活を記録し、エッセイとして綴った写真集があります。そのなかで、晩年のオキーフは徐々に視力が弱くなり、だんだんと、ものを「見る」よりも、ものの「手ざわり」を慈しむようになった、ということが書かれていました。アメリカ・ゴーストランチの荒涼とした風土のなかにあった晩年の家のなかには、いくつかの家具や壺など、そして彼女の絵と、大好きな音楽のレコードで満たされていました。家は外も中も見た目はとても簡素でさっぱりとし、飾り気がありません。かといって無理にシンプルを気取ることもありません。でも得も言われぬ趣があります。

目で見るのではなく、手ざわりでものを感じ取るというのは、もしかしたら、ものの本質を最もつかみやすいのかもしれません。重さ、温度、凹凸、素材感・・・目で見る以上に、ものの存在を楽しめるような気もします。家のなかの床や階段も、ゆっくりと踏みしめるように歩くと、足の裏から、その家の年季が伝わってくるようにも思います。手で触れ足で踏まれることで、角ばったところは摩耗し、丸みを帯びていきます。そうしてだんだんと人に馴染むものになっていくのでしょう。極端に言うと、目を閉じて心地よく感じられる場所というのは、素敵だなあと思います。だから、見た目は本物に似せてある、ニセモノの材料というのは、どんなに手間がかからず便利であっても、豊かではないのだと思います。

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イタリア中部の街、コルトーナの一風景。山の上の小さな街で、ご年配の方も多く住まわれています。家は、それこそ何世紀も昔からずっと建っている古い古いもので、この街には、「新しい」モノという概念がないのかな、と思うほどです。

ある小さな家。ペンキの塗り重ねられた大きなドアと、手にいっぱいの大きなドアノブ。瓦の載った大きな庇。小さな窓。素焼きの鉢。床に映り込む樹影。落ち葉。何も目新しいものはないし、洗練されたデザインというわけではないのでしょうけど、ここに住まうことが楽しそうに思えるようなシーンでした。何か「手ざわり」のようなものが感じ取れるような気がする、からでしょうか。

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初節句

2012-04-13 11:46:12 | 日々

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昨年末に生まれた甥っ子に贈られた、端午の節句の兜飾り。とても小さなものなのだけれど、隅々まで丁寧につくられています。ちょいとつまんでしまえるほど小さいのだけれど、丁寧に手をかけてつくられたものは、そうはさせないオーラというのか、迫力のようなものがあります。

木工、金工、ガラス、陶芸など・・・、いろいろな工芸がありますが、この兜飾りはいろいろな分野の工芸の技があわさってできたようなものです。織物、塗りなども加わり、いわば総合芸術!このような日本の伝統工芸は、世界に誇るべきものですね。

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雪の日

2012-03-02 19:04:08 | 日々

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今年は東京でもよく雪が降りますね。子供の頃は無邪気に喜んでいたけれど、大人になって仕事をし始めると、いろいろなことが気にかかるものです。

それでも、雪化粧された風景はいつもと違って新鮮です。そんな気持ちとともに、なぜだか、師匠の村田靖夫さんの事務所に勤めていた頃のことを思い出します。

村田さんは、時折スタッフをランチに誘ってくださいました。常日頃、鬼のような形相でスタッフに相対し仕事をされていたから、スタッフにもちょっとした息抜きが必要だろうと思われていたのかもしれません。村田さんにランチに連れて行ってもらうと、すべて村田さんが支払ってくださいました。スタッフ6人がここぞ!とばかりに食べますから、ケッコウな金額になったのではないかと思うのですが・・・。その行き帰りの道は、ちょっとした課外授業でした。道端の木や草花を指して、なんというナマエかわかるか?とか、花が咲く季節がいつか、など、質問をされては、たいてい答えられない我々に、ヤレヤレという顔をしながら教えてくださいました。

雪が降った日。アスファルトの部分と、土の部分で、雪の解ける速度が違うのはなぜか。それを建築の断熱の仕組みの話にまで関係づけながら、いろいろ話してくださいました。

村田さんは、芸術家肌の建築家ではありませんでした。エンジニア肌で、厳密で職人的な設計の仕事を好まれました。ですから、感覚的な話をするとたいていは怒られました(笑)。

一昨日、「自由が丘の家」の、黒い漆喰の壁を背景に、白い雪が降りしきっていました。できあがって10年が経ち、黒い灰墨が削げて味がでてきた壁。雪が地面を覆い、モノクロームの世界になります。そういったものを、村田さんだったらどのように表現するのだろうか。

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マルノウチ

2012-01-23 12:43:16 | 日々

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庭に面した、居心地の良いカフェ・レストラン。ここは「丸の内ブリックスクエア」と「三菱一号館美術館」に囲まれた「一号館広場」。近年の再開発によって生まれたスペースです。

丸の内は再開発による整備で、オフィス街としてだけでなくショッピングエリアとしても洗練された、という話を聞きます。それが単に、一流ブランドのためのテナントスペースを、とにかくぎっしり詰め込んで・・・ということではなく、ゆったりとした歩道の幅を確保し、舗装も無味乾燥としたものにならないように気を配り、木を植えて・・・という風に、新しい再開発エリアでありながら、街並みに質感やゆとりや奥行きが与えられていて、この界隈を散歩するのが楽しくなるように工夫されています。

再開発では、大規模の建物を建てると同時に、空地を一定面積以上確保しなければなりません。つまりどんな再開発でも、ある一定の「ゆとりスペース」は生まれますが、それが生き生きとした場所になっているかというと、必ずしもそうとは言えなさそうです。ですが丸の内の再開発では、屋外空地がうまく使われているように思いました。上の写真の広場も、面積としてはさほど広くないのですが、木々が植えられた小径がつくられ、写真を撮ったりする人も見られます。

趣向を凝らしたイベントスペースは、流行とともにいずれ消えることが多いもの。でも、緑のある気持ちの良い屋外空間や、そこにつながる「窓辺」のような場所は、いつの時代でも居心地良いものですし、そのような場所には、自然と人が集まってくるように思います。そんな変わらない魅力を、街並みの中に少しずつつくり込んでいけたら、日本の都市風景は、美しさと居心地の良さが同居する魅力的なものになっていきそうですね。

余談ですが、この広場に面した「三菱一号館美術館」では、オディロン・ルドンの展覧会が開かれているとのこと。前に観に行ったルドン展は、黒の時代のものでした。退廃的で物悲しくも美しいモノクロの絵は、胸にぐっと染みるものがありました。そして今度はその後の、鮮やかなカラーが溢れ出た時代のものが展示されるそう。楽しみです。

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残りつづけることに向かって

2011-12-25 17:46:12 | 日々

物をデザインする、という言い回しはなかなか難しいもので、常に前向きなイメージが伴いがちです。これまでに無かった新しいものを生み出す、といったポジティブな印象は、常に「個性的」であることとワンセットであったようにも思います。それが商売となれば当然のことかもしれません。でもその過程で、忘れ去ってきた、あるいは落としてきてしまったものも多かったのではないか、と思うことがあります。近代よりも昔、まだ芸術が宗教と一体であった頃、絵を描いたり彫刻を彫ったりすることに、個性など求められない時代がありました。個人的な表現を求めるのではなく、宗教的な含意を表出することに目的をしっかり定め仕事をしていた時代のことに思いを馳せると、どこか心地良い気分になります。

ロマネスクとよばれる教会堂は、そんな時代につくられました。今から見れば技術的にも稚拙で、土地の形状なりに曲がった間取りは、個人的な作為とは無関係につくられました。でも、それから何世紀も経て残り続けるそれらの小さな教会堂が、慎ましやかで物の理に背かない姿を今だに保持し、現在に生きる私たちの心に、すっと沁みるように感じられ、今だに使われ続けているというのは、とても示唆的であるように思います。建物の佇まいを見たとき、あるいは中に入ったときに、あ、これでいいんだ、と素直に思えるような感じ。そんな感じをつくりだすことは、案外に難しいことのように思います。

どんなに考えを重ねて物をデザインして造っても、年月を経れば古びるし、時代に即した実用性に合わない、ということになるかもしれません。それは物の宿命とも言えそうです。でも、日常のなかにすっかりとはまり込んでしまったそれらの物が、いつまでも愛らしく、独特の存在感をもっていたとしたら、それは先ほど言ったところの、あ、これでいいんだ、という感じに近いのだと思います。たとえば古びたドアや窓が、人の心にすっと沁みるものになるようにすることは、今後、ますます大切なことのように思います。日々の暮らしのなかの、ありふれたものこそ美しい。画家・ジョルジョ・モランディが描き続けた静物画のような、ものごとに対する美徳を大切にしたいと思っています。

111225

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