せいくらべ

2009-12-31 18:36:39 | 日々

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少し前のことになりますが、自由が丘の家の、庭木の剪定をしてもらいました。数年間のび放題だったのですが、形式のないワイルドガーデン、むしろその方が魅力的だとも思っていました。鬱蒼とした木々は、庭の見え隠れをおもしろくし、静謐な雰囲気を創り出します。その雰囲気を、僕はとても気に入っています。ですが、あまりに放置すると、影になった植木は元気がなくなったりもするので、数年に一度、すこしサッパリとしてもらいます。

 「やっとモッコクが堂々としてきたな」とは、剪定を終えた植木屋さんの一言。モッコクとは、和風の庭木で、かつては多かったと聞いていますが、なにしろ地味!な木なので、最近では流行らないのでしょう、あまり見かけることも少なくなってきました。このモッコクの木は、家を建て替える前から植わっていて古いので、それなりに大きいのですが、新参者のシマトネリコに、みるみる背を抜かされ、今ではすっかりメインツリーの座を明け渡してしまったのでした。おまけにこのシマトネリコは株立ちである上に、生育がよく、あまり見たことがないぐらいに大きくなりました。その木陰には小さなテーブルとベンチがあって、木漏れ日の良い居場所をつくっているのでした。それに比べ、このモッコクの木は、居場所をつくるというよりは、長老のような出で立ちで庭をひきしめてくれている・・・はず。かつてのメインツリーはたしかに少し縮こまっているように見えていましたが、剪定をすると、シマトネリコよりも存在感が増しました。またメインツリーとしての風格が出てきました。

 この庭は、言わば雑木の庭で、好きなところに草花も植えられた自由気ままな庭なので、木にメインもサブもありません。でも、こうして古いものと新しいものが、せいくらべをするかのように共存している様は楽しいものです。草木の背景となる珪藻土の白い壁と、黒漆喰の黒い壁も、今年一年でまた少し味わいが出てきたように思います。一年一年が劇的に変わるわけでないけれど、注意深く眺めていると、庭も建物も一体となって少しずつ変わっていきます。

今年ももう終わります。どうぞ良いお年を。

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クリスマス・コンサート

2009-12-24 21:54:53 | 音楽

サンクトペテルブルグ室内合奏団のコンサートに行きました。

弦楽器のみの構成に、随所にソプラノ・ソリストの美声が加わります。ヘンデルやバッハなど、古典的な名曲が中心の曲目。ピアノの減衰音も良いけれど、弦楽器の震えるような旋律も胸に染み入ってきて、いい。
どんな分野でも「古典」というものは存在するのだろうけれど、音楽の古典は、簡素でありながら典雅で、奥行きがあるものなんだな。そんなことをしみじみ思いながら聴き入った、素適な時間でした。モーツァルトのサロン的な華やかな曲も演奏されたけど、僕はヘンデルの荘重な響きが好きかな。

チェロとビオラが弦をゆっくりと左右に引いてゆったりと通奏低音を奏で、バイオリンが弦を上下に引き叙情的な旋律を奏でる。水平と垂直。演奏の動きそのものが簡素で美しいと思いました。

いいコンサートに行くと、自分も音楽をやっておけばよかった、とついつい後悔(?)してしまいますが、もう遅い。簡素で典雅な響き。それを建築に宿らせるしかない、と思い直します。今日の設計案には、バッハが宿ってくれるかな?そんな夜に、設計案に思いをめぐらせるのも愉しいものです。

メリークリスマス。

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今井兼次の世界

2009-12-21 18:02:02 | アート・デザイン・建築

自分のルーツを知ることは、なかなか楽しいことでもあると思います。自分自身が建築の作家として活動している以上、自分の根源にあるものを自覚しておきたい、そんな気持ちがあります。弟子入りしたという意味では、故・村田靖夫の存在は僕にとって最大級なものですが、それ以前の大学時代に、僕が在籍した研究室は、師から弟子へと教育の場がバトンタッチされていく一本の文脈のなかにありました。その源流をたどると、今井兼次という一人の建築家に辿り着きます。
 今井兼次の存在は、現在では大きく取り扱われることがあまりありません。というのも、20世紀前半の合理主義の渦中にあって、今井先生は、建築における精神的な深まりをもっとも大切にしたことにより、同時代の建築界から非難をあびたそうです。孤立無援のような状態でありながら、門弟たちに大きな印象と記憶をのこし、20年ほど前に世を去ったそうです。その後になって建築を志した僕も、師の志を汲む研究室に在籍し、今井兼次に思いを深めるようになりました。

 

多摩美術大学美術館で開催されている今井兼次展に行きました。流行の人気作家というわけではないから、日曜日といえども人はまばら。その中に散りばめられている、今井先生の手の痕跡の数々。パステル画、スケッチ、設計図、石膏模型。これまでも機会があるごとに見てきたものばかり。でもなぜか、今回は胸がつまる思いがしました。ひとつの建物を生み出すのに、ここまで情熱を傾けるのは、なぜか。図面や模型に示されたものは、象徴の造形の数々。それらは装飾となって、建物の内外にちりばめられていくことになります。シンプル志向の現在からすると、それらは時代遅れのものとして扱われるかも知れません。でもそれらは、恐ろしいほどの存在感をはなっています。これみよがしなものではなくて、静かで荘重なものです。もっと魂をこめなさい、そんな風に語りかけられたような気がしたのです。

 

今井兼次が残した作品は、数としてはとても少ないと思います。でもその多くが、今でも大切に残され、使われ続けています。特に教会建築は、生きた場所として今でも健在です。そのひとつ、カトリック成城教会。

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師いわく「外観は平凡と申しますか、出来るだけ目立たない、ふつうのお聖堂のように、しかし、お聖堂の中だけは、聖タデオのお心を清らかに伝えるものでありたい。」とのこと。なるほど、とりたてて目新しかったり、シンボリックな建物ではありません。むしろ控えめで地味なものです。できあがってから数十年経ち、古びてもいます。そのなかに丹念に作り込まれた宗教的な含意のある造形に包まれていると、落ち着きと調和と、心の拠りどころを感じます。時折、今井兼次の空間に身を置きながら、そんなことを考えてみたいと思います。

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古びたもの

2009-12-15 20:26:24 | 住宅の仕事

住宅設計の仕事をしながらよく思っていること。それは、できあがったすぐの姿ではなく、それから何年も経った時の姿のこと。単純に、ものごとが古びていくことに、僕はとりわけ思い入れがあります。
 たとえば、こんな写真。

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これは、自由が丘の家のダイニングテーブル。桜の木でできています。築7年経って、もうすっかり傷だらけですし、いろいろなものをこぼしました。その跡や染みがひとつひとつ表情となって、味わい深い雰囲気になりました。このテーブルで毎日、当たり前のように食事をしたり、ティータイムを過ごしたり、新聞を読んだりして、片付けてフキンでふきます。それがいつの間にか美しいツヤとなって表れました。毎日テーブルを凝視しては、カタチがカッコイイだとか思っているわけではありません。毎日目にしているから、むしろカタチなど覚えていないぐらいです。でも、そこにある古びた質感と共に過ごしていると、確かに独特の安心感と居心地の良さがあります。建築家ができることなんてせいぜい、このテーブルのために、古びた質感を美しく浮かび上がらせるための、静かで穏やかな自然光を取り入れることぐらいでしょうか。

変わらない光と、古びていく物。その関係だけが、独特の美しさをつくっているように思います。そういえば、かつて旅行したリスボンの街はそんなイメージに溢れていました。そんな感覚が点から面へ、一軒の家から街全体へ広がっていってほしい、そんな思いで住宅をつくっています。

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京都さんぽ10 ~しもじんかもじん~

2009-12-08 19:07:34 | 京都さんぽ

京都の下鴨神社に、イタリア人の巫女さんがお目見えするというニュースがありました。アルバイトということですが、巫女としての礼儀作法や言葉使いを学んだり、下準備が大変そう。でも、このような形で、古来の文化が広く伝えられていくのは素晴らしいですね。

 下鴨神社は、「糺の森」という森のなかにあり、京都市中にありながら日中でも幽玄な雰囲気を漂わす、不思議な場所です。この神社に対になるように、さらに北に上賀茂神社があります。僕は学区が下鴨の地域に属していたので、友達との遊び場はもっぱら下鴨神社の境内でしたが、家から近いのは上賀茂神社でした。近いけれども、普段は行かない場所。そこに行くことは、小さな僕にとっては特別の感情がありました。

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 上賀茂神社界隈に、社家町という景観保存区域があります。いぶし銀の瓦と土塀。そこからのぞく和風の木の風情。脇を流れる疎水。そんな秘めやかな情感は、僕にとって強い原風景になっていて、今の自分の物事に対する好みにもつながっているように思います。
 そんな地域にある上賀茂神社は、鳥居をくぐると一変、大陸的な広がりのある雰囲気になります。土塀がもたらす秘めやかさとは逆に、ここでは舞台や神殿が自由に舞うように配され、訪れる度に不思議な気持ちになりました。自分の身近にある存在でありながら、どこかずっと遠いところに来たような。

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 下鴨神社も上賀茂神社も世界遺産に登録され、観光客もずいぶんと増えたそうですが、観光だけでなく、地域の人々に「しもじん」「かもじん」と親しみを込めてよばれ、子供の遊び場や犬の散歩、あるいは合唱コンクールの練習に至るまで、日々の暮らしに密接に関わる場所としてあり続けているのが嬉しいところ。なにしろ、一見さんお断りの文化、良きものを「隠す」のが京都の風習ですからね(笑) 

 ところで最近入手した茶室の本によれば、この上賀茂社家町のなかに、とても雰囲気のある茶室があるとのこと。土塀の裏側に隠された狭い茶庭と露地は幽玄の気に満ち、古き物がやすらぐ静かな場所であることが見てとれました。さーて、どこだ・・・?

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