アッシジ

2011-06-26 15:58:04 | 

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学生の頃、渋谷に行くとよく寄っていたBunkamura地下の本屋さんで、一冊の心に残る写真集に出会いました。石積みの重厚な壁、階段に沿うようにしてやってくる光。奥にはいっていくような、深遠なイメージ。モノクロームのしっとりとした画面から、慎ましやかでありながら美しい、得も言われぬ感覚をいだきました。

イタリアのアッシジ。そんな地名があることを、そのときに初めて知りました。自分にとって大切な本との出会いは一期一会、無理してでも手に入れておかないと後悔する。今ではそんな風に思っていますが、その大後悔のはじまりは、この写真集でした。その写真集の作者も出版社も記憶から抜け落ち、美しい写真集であったという印象だけが記憶の底の深いところに、ずっと漂ったままでした。

その後、いろいろな場面でアッシジという場所に思いを巡らせることがありました。フレスコ画への関心から、中世の画家・ジョットに興味をいだき、それはそのままアッシジの聖フランチェスコ聖堂へと知識がつながれていきました。あるいは、大好きなイタリアの画家・ジョルジョ・モランディについての解説文などを読んでいると、その禁欲的で慎ましやかな画風を貫いた画家としての生涯と、「清貧」に生きた聖フランチェスコとを結び合わせていくような解釈などがあったりしました。もっと言えば、京都に行くとよく訪れる高山寺石水院が、聖フランチェスコ聖堂と国際的な交流があったりするとのこと。高山寺の開祖・明恵上人の人生が、聖フランチェスコの人生に重ね合わされるそうです。洋の東西は違えど、ほぼ同時代の二人。偶然ではなく、歴史の必然だったのでしょうか。

そんな風にして、僕は何かに導かれるようにしてアッシジへの思いを強めていきました。何か見たい目的物がその街にあるわけではなかったのですが、ただ漠然と、その街の雰囲気に身を置いてみたい、と思っていたのです。そして数年前のことになりますが、ついにアッシジへ行く機会を得ました。今では旅行ガイドブックに「聖地アッシジ・・・中世の雰囲気を感じよう!」みたいなノリで登場するような観光地になっているようです。思いを強めて行った分、6月の少し暑いぐらいの陽気に照らされて、山岳都市アッシジはあっけらかんとした姿で、しっとりとした陰りも何もないような印象を受けたのでした。日よけのパラソルがあちらこちらに目立つ、そう、ちょっと拍子抜けした感じにとらわれてしまったのを覚えています。

僕が幸運だったのは、その後でした。とつぜん厚い雲がさーっと現れたかと思うと、たたきつけるような雨が降り始めたのでした。ちょうど聖キアラ聖堂の前にいた僕は堂内にはいり、時間を過ごしました。ほの暗い闇。浮かび上がるフレスコ画。それらが、なんとなく残念な気持ちで疲れていた心にすうっと染み入るような感じでした。

雨の気配が止み、しばらくして聖堂の外に出たとき、目の前に広がるアッシジの街並みは、別世界になっていました。浮き足だったものすべてが雨で抑制され、美しい陰りが街並みの隅々まで行き渡っていたのです。壁に積まれた石のひとつひとつが光と影を宿し、ひとつひとつが存在感を持っていました。それはまるで、目の前にある光景のその「奥」にあるものを、予感させてくれるような雰囲気でした。こじんまりとしたスケールの街中を歩き回りながら、かつて渋谷の本屋さんで見て以来、心にずっと漂っていたあの「アッシジ」の世界を、実際に垣間見ているような気分になったのです。それは僕にとって幸福な時間でした。

さらに数年後、僕は作家・須賀敦子さんのことを知りました。そのエッセイのなかで、アッシジについて書かれていることを知りました。須賀さんにとってアッシジは、かけがえのない存在だったそうです。イタリアに在住していた時分から含め何回もアッシジには足を運び、アッシジという街が、目には見えないけれど内包している何かについて、じっくりと理解をしていったようです。聖フランチェスコを慕い、自らも清貧の道を歩んだ聖キアラに、自分の思いを重ね合わせてもいたそうです。そんな須賀さんが、アッシジを撮ったある写真集について、アッシジの本質的なものを浮かび上がらせているとして絶賛しているのを見つけました。その写真集こそが、僕がかつて本屋さんで見たあの写真集、エリオ・チオル写真集「アッシジ」(岩波書店)だったのです。

「記憶」という目に見えないものについて、エッセイという短い文体のなかに濃縮し磨いていった須賀さんにとって、目の前にある姿そのものが絶対であるとは、思っていなかったのではないでしょうか。その奥にあるものをすすんで見ようとしなければ見えないものがあるし、また、そういったものを感じ取れる雰囲気がその場になければ、心眼で見ようとしても見えないことだって多いと思います。ですから、僕がアッシジに訪れた際に、一日の間に異なる「アッシジ」に遭遇したように、須賀さんにとっても、行くたびに別の趣をもつ「アッシジ」に出会っていたのかも知れません。

岩波書店刊のエリオ・チオル写真集「アッシジ」は、モノクロームを基調とした写真で、街並みを風景として見るというより、断片的な構図で切り取りながら、そのなかに深く沈んでいる何かを、ゆっくりと静かに浮かび上がらせてくれるような編集です。同じ写真集であっても、見るときの気分や環境によって感じ方は変わると思います。いえ、何も感じないときもあれば、すうっと染み入ってくるときもあるだろうと思います。

もう絶版になってしまっているこの写真集を、ようやく古本で手に入れました。この写真集を傍らに置き、時々取り出しては眺めるのを楽しみにしたいと思います。実際に訪れた記憶と、写真集や須賀さんの文体の記憶とともに、胸の内でゆっくりと熟成されて、僕にとっての「アッシジ」が芽生えていくのを楽しみにしたいと思うのです。

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進行中の現場

2011-06-18 21:49:42 | 進行中プロジェクト

オノ・デザインで設計監理している住宅の現場の様子を、少しご紹介したいと思います。

「東山の家」。鉄筋コンクリート造のなかに、八畳と四畳半のふたつの茶室をもつ住宅。床柱が現場に据えられて、いよいよ本格的に茶室の造作が始まっています。高揚感と緊張感、そのふたつの感情の狭間で、現場を見る目にも力が入ります。
床柱や床框は、お施主さんといっしょに本所にある数寄屋専門の材木屋さんまで見に行きました。八畳に用いる北山杉の磨き丸太、四畳半に用いる赤松皮付丸太、ともに穏やかで優美な表情をもち、茶席に荘重な趣をもたらしてくれることと思います。

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「東伏見のコートハウス」。約30坪の細長い敷地に、中庭のある住宅をつくっています。周囲は住宅が建て込んでいる敷地ですから、中庭をつくって、その廻りに生活空間が広がるようにプランができています。屋根の形を利用して、天井の低いところ、高いところがひと続きにつながり、変化のある室内空間になりました。まだ骨組みが組み上がったばかりの現場。ですが、しばらくいると、徐々に「効いて」くると言いますか(笑)、なんとも言えない居心地の良さがあります。

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「青葉の家」。仙台に建てているこの住宅は、震災の影響を大きく受け、資材と人手が足りない状況のなかですが、しっかりと骨組みを建ち上げることができました。桂離宮のようにジグザグと雁行しながらゆったりと広がるプランのこの住宅は、やがてここに植えられる木々の緑と一体となった雰囲気を念頭に置いて設計してあります。まず高木のヤマボウシの株立ちが、先行して現場に仮植えされました。家も木々も、時間をかけてしっかりとこの土地の一部になってほしい、そんな風に思います。

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列柱あるいは回廊

2011-06-06 15:05:01 | 自由が丘の家

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旅行先で、列柱だとか回廊のある場所に出くわすと、ついつい居座って居心地を確かめたりしてしてしまうクセ?があります。職業柄ということもあるかと思いますが、列柱や、それに囲まれる回廊というのは、多くの人を惹きつける不思議な魅力をもっていると思います。街に面してカフェになっているような回廊も素適だけれど、古い修道院の中庭のような場所は、独特の静けさに満ちていて、好きな場所です。

修道院の中庭の廻りには、多くの場合列柱が巡らされていて、それによって自ずと回廊になっています。中庭は石畳だったり植栽であったり様々ですが、回廊を巡っていると、列柱によって中庭が見えたり隠れたり、いろいろな風景を見せてくれます。もともと回廊は、ぐるぐると歩いて思索にふけったり、語らったりする場所だったとか。ある意味では、とても親和的な場所でもあるのだと思います。そんな場所に身を置いて、無為に時間を過ごしていると、なにか心が穏やかになっていくような気がします。

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自由が丘の家には、そんな「プチ」中庭のような場所があります。正確に言えば、数年という時間を経てそんな雰囲気になってきてくれた、というべきでしょうか。もともと建っていた古い家屋の建て替えでしたから、すべてを新しくするのではなく、昔からの時間をつなげていきたいという思いがありました。そこに流れてきた時間の「深み」のようなものを、雰囲気としてとどめたいと思って設計していました。数年を経て、色褪せた黒漆喰の柱の合間から、鮮やかな緑が顔をのぞかせる季節になりました。

普通であれば白くサッパリと着色した方が開放的・・・ということになるかと思うのですが、黒くしたのは、少しでも深遠な雰囲気をもたらしたいと思ったからでした。石造による重厚で太い列柱がもつ奥深さに、木造の細い柱であっても、少しでも近づけたかったのです。

黒い柱の脇に植わっているのはジューンベリー。ちょうど赤い実をたくさんつけています。鳥に食べ尽くされる前に、味見をしよう(笑)

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