先週の土曜日の朝日新聞「be」に、作曲家ビバルディのことが書かれていました。17~18世紀にかけて、ヴェネツィアに生まれ、愛され、そして捨てられた一人の作曲家として。
ビバルディはいまだに謎の多い人物だそうで、有名な「四季」以外に、800以上の曲を生涯でつくり、いまだに毎年のように新しい譜面が発見されているそうです。
ヴェネツィア・オペラの牽引役として一世風靡をしながら、新しいナポリ・オペラの流行に追いやられ、新天地をウィーンに求めたものの、人生の寂しい最期を迎えたそうです。そのウィーンで没した状況もほとんどわかっていない、とのこと。
でも史実として残っている、ビバルディのもうひとつの顔。それは、ヴェネツィアの孤児院で40年以上にもわたり少女たちに音楽を教える教師だったこと。音楽という希望。その演奏会はレベルが高く、欧州中から音楽好きが集まってきたほどだったそうです。
一人の人間の影と光。それが、都市ヴェネツィアの悲しみと希望に、ゆっくりと溶け込んでいくような心持ちになります。
作家・須賀敦子さんが、ヴェネツィアについてのエッセイを遺しています。ある一つの謎を追いかけていったときに発覚した、梅毒にかかってしまった娼婦たちが押し込められた、悲しい施設の話。その窓から対岸に希望のような存在として見える、建築家パラディオがつくったレデントーレ教会のこと。
「思いがけなく、ひとつの考えに私はかぎりなく慰められていた。治癒の望みがないと、世の人には見放された病人たち、今朝の私には入口の在りかさえ見せてくれなかったこの建物のなかで、果てしない暗さの日々を送っていた娼婦たちも、朝夕、こうして対岸のレデントーレを眺め、その鐘楼から流れる鐘の音に耳を澄ませたのではなかったか。人類の罪劫を贖うもの、と呼ばれる対岸の教会が具現するキリスト自身を、彼女たちはやがて訪れる救いの確信として、夢物語ではなく、たしかな現実として、拝み見たのではなかったか。彼女たちの神になぐさめられて、私は立っていた。」 須賀敦子「ザッテレの河岸」より。
今は人工的に照明されているこの教会も、これが設計された16世紀には夜には闇に包まれていたことでしょう、月夜にだけ、その外観が治癒の約束のように白く光り輝いていたのではないか、という印象を、須賀さんは別のエッセイで語っています。須賀さんからパラディオについての話がでてくるのは想像だにしていなかったけれど、僕が学校で習った大建築家パラディオ「論」のどれよりも、はるかにパラディオの遺した建物の存在意義を感じさせられる文章でした。
数年前に僕が訪れたヴェネツィアは6月。暑く、混雑し、快活で楽しい場所でした。そんなヴェネツィアに秘められた、多くの悲しみ、そして希望。ビバルディの曲やパラディオの建築を、ただ漠然と「芸術」として楽しむのではなく、それらが背負っているものを感じ取れたら、と思います。
ヴェネツィアを撮った写真集は数多くありますが、僕が好きな写真集のひとつがこれ。F.ブローデル著「都市ヴェネツィア」(岩波書店)。たまたま手に入れたものですが、「銀残し」の風合いのある写真にメランコリックな情趣が漂い、先ほど述べたところの、悲しみや希望、そういったものがページをめくるごとに静かに織り込まれているような、そんな写真集です。