20日(木)~26(水)まで、建築視察のためベルリン・ポツダムへ出掛けます。
かねてより見たかった建築があることが最大の目的ですが、学生時代からずっと気になり続けてきた街、ベルリン。ついに念願がかないます(笑)
またこのブログで、写真を交えながらベルリン紀行を書きたいと思います。
20日(木)~26(水)まで、建築視察のためベルリン・ポツダムへ出掛けます。
かねてより見たかった建築があることが最大の目的ですが、学生時代からずっと気になり続けてきた街、ベルリン。ついに念願がかないます(笑)
またこのブログで、写真を交えながらベルリン紀行を書きたいと思います。
インターネットでニュースを見ていたら、気になるニュースがありました。それは、大学時代の恩師・入江正之先生の活動を紹介したトピックス。
JR高崎駅周辺には、好立地なのに「狭小」ゆえに利用されなくなった土地が散在しているとのこと。それらの土地を残余空間として放置するのではなく、小住宅として最大限に活用していこうという取り組みでした。地元の工務店と入江先生の研究室が協力してできあがったその住宅は、「タカサキサキガケハウス」と命名されていました。
法的にも予算的にも制約が大きかったことは想像に難くないのですが、そのなかでも、下の写真のような陶片モザイクタイルが道路際になされていました。「住宅の基本である『家』の温かいイメージを発信したかった。そのため最も目立つ道路側の壁に施工した」というのは、入江先生の弁。研究室の学生が何度も現地に訪れモザイクタイルを施工したとのこと。
入江先生は、ガウディに関する一連の研究の第一人者です。当然、建築家としての設計活動のなかにも、ガウディ研究を通して捉まえられた思想が反映されています。陶片モザイクタイルの表現は、ガウディ作品に対して、さらには入江先生の師である今井兼次へのオマージュでもあるのでしょう。
僕は大学時代に、入江先生のもとでガウディに関する卒業論文を書きました。「アントニ・ガウディの建築作品における幾何学について」という少々堅苦しい題名のついた論文でした。その研究の一環として、ある研究所のエントランスホールに、実作として残す機会もいただくことができました。
来る日も来る日も石膏まみれになりながら、エントランスホールの天井に取り付く照明器具を自ら製作したことは、いろいろな意味で現在の僕の設計に対する考え方に影響しています。
最近、「未来の自由が丘を考える会」という会合に参加するようになりました。
キッカケはとても偶然でした。僕が講師をしている早稲田大学芸術学校で、ある日、都市計画の卯月盛夫先生の研究室にお邪魔した際に、自由が丘の駅前の広場の模型をつくっているところを見かけました。その時はじめて、目黒区から駅前広場の整備計画が出されていることを知ったのでした。区の計画案は交通の利便性を優先させたもので、人々が集い活用する広場としては、魅力に欠けるものに思われました。やはり自由が丘の住民も、同様に感じる方が多かったようで、住民からも意見を出し合うべきだということになり、上記のような会が発足したそうです。
卯月先生は、長きにわたりアドバイザーとしてまちづくりに関わってこられました。卯月先生を進行の中心として、専門の先生方、街の振興会の人々や住人が主体となり、このような「まちづくり」が議論されるのは、本当に良いことだと思います。そこで、僕も住人のひとりとして、会合に参加することにしました。
区の担当者を交えた会合では、最初からかなり熱~い議論がたたかわされました。話を詳細に追っていくと、風景論だけでは片付けられないいろいろな問題が複雑に絡み合っていることも、少しずつわかってきました。だからこそ、単に調整する案では、何の魅力もない案になってしまう。「街の顔」としての広場に求めるものは何か、優先順位とコンセプトについて、辛抱強い論議が必要なのだと思います。僕も建築の一専門家として、いろいろ意見を述べていきたいと思っています。
「自由が丘」という街は、戦時中に改名を迫られたりしながらも住人がその名を守りきってきた歴史があるそうです。住人主導でまちづくりをしてきたことに、古参の方々は誇りを持っておられるよう。自分の住む街に愛着がもてるほど幸せなことはないですよね。僕も微力ながらその活動に協力できれば、と思っています。