僕は大学生のとき、スペインの建築家アントニ・ガウディについて卒業論文を書きました。学生当時から、そして今でも現役学生から同じような質問を受けます。ガウディの研究をするとどういう点で役にたつんですか。
ガウディは世界でもっとも知られた建築家かもしれません。でもその建築思想が広く知られているというよりは、奇異な形のイメージ、いまだに未完成で建設途中である教会のエピソードなど、そういった面が彼を有名にしているのだろうと思います。でもそのあまりの特異さゆえ、それを勉強したところで、その後の設計のアイデアの参考にならないのではないかという思いも、きっとあるでしょう。
僕がガウディについて興味をもつようになったのは割合に早くでした。以前のブログでスペイン・カタルニア地方の素朴な教会の写真集に興味をもった話をしましたが、それと同じ頃ちょうどガウディの建築写真集が家の本棚に眠っていたのでした。見たことのない怪奇なイメージ。最初はそんな感じでした。陶器の破片に覆われた生き物のような建物。京都の碁盤の目の街並みに直角に建つ建物群を見慣れていた僕にとっては、不気味でありながらどこか惹きつけられる感覚でした。
大学の研究室では、ガウディそしてカタルニア建築研究の権威・入江正之先生に師事し、そこで卒業論文を書きました。ちょうど大学に赴任されて間もなくで、僕にとって幸運な出会いでした。装飾に覆われたぐにゃぐにゃな建物。それをくつがえすかのように与えられたテーマは、それらの形がすべて数学的な幾何学で構成されていることの研究でした。
バルセロナにあるサグラダ・ファミリア聖堂の柱に着目し、ぐにゃぐにゃにみえるその柱が、実は幾何学的な形を変形することでできあがっていて、それゆえ工事のしやすさが考慮されていること、その変形の仕方そのものに「三位一体」の宗教的含意が込められていること、そしてそれらが次第に組み合わされながら成長するかのように立体空間がつくられているプロセスに、自然の摂理がイメージされていること、そんなことを学びました。
研究とはいっても、新しい発見ではありません。先生にしてみればもうとっくにわかっていることなのです。まず課せられたのは、日本では発行されていないスペイン語で書かれた学術論文の翻訳でした。そのうえで、油土や石膏で模型をつくり、柱の変形を追実験しました。一般的にいわれるガウディのイメージを裏切るような、地味で即物的な研究になりました。
論文発表会では他の先生方から、サグラダ・ファミリア聖堂で仕事をしている職人達はみんな知っていることなんだよ!重箱の隅をつつくような研究をしたって誰も驚きはしないんだよ!と一刀両断の厳しいコメントをいただいてしまったのでした・・・。
そう、重箱の隅をつつくような地味な研究。革新をもたらすわけではない研究。今になって思えば、それは僕自身のための研究でした。はじめて目にするスペイン語との格闘。石膏で手を汚しながら即物的に向かっていく態度。そういったことを通して、奇異で不可解なものがすこしずつ自分の中で溶け始めてきます。こうした具体的に踏み込んだ研究を通して、ガウディをほんの少しだけ内面から知ったような気持ちになりました。そして、書かれた文章から何かを学び得るというよりも、体と心で「直感」するようにして、様々なものごとのあり方について思いを馳せられるようになったと、自分では思っています。
設計のアイデアとしてはすぐには役に立たないガウディの卒業論文。でも建築家という一生をかけて成熟させていく職業にあっては、すぐには消費できない研究の方が、汲めども尽きぬ源泉になるのかなあと思うのです。そして今でも、ガウディからはいろいろなことを考えるヒントをもらい、そして相変わらず謎に満ちた存在として僕の奥深くに居座り続けています。