庭の不思議

2010-08-29 19:24:11 | 日々

動かない人工物としての住宅を設計していると、常に変化があり移ろいやすい庭の存在が、とても魅力的に思います。だから、住宅を設計するときにはつとめて、庭や屋外とのつながりを大事にしています。

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写真の風鈴は、スペインのお土産のもの。チリンチリンという日本的な音とは少し違って、長さの異なるパイプがいろいろな音程を奏でます。ジューンベリーのもりもりとした緑に隠れて姿は見失ってしまいそうですが、遠くで音色を聴くと、やはりどこか癒されます。

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水をためたバードバス。西日を背景に見ると、水盤がくっきりと空の光を映し込んで、何か誘われるような雰囲気があります。

カタチのデザインだけでは、居心地よい場所、美しい場所はつくれない。そんなことを強烈に感じたのは、桂離宮を訪れたときのことでした。雨のしずくまでをも考慮に入れた修景は、大学で学ぶ建築空間デザインの何倍も、繊細なものでした。古人が持ち合わせていた繊細な感覚に、僕もなんとか少しでも近づけるように、磨いていかねば。

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幕間の出来事

2010-08-18 10:29:47 | アート・デザイン・建築

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まるで呼ばれるように引き寄せられて、心のなかに残り続けるものがあります。僕にとってそのひとつが、有元利夫。38歳の若さで夭逝した画家です。

70年代、アートシーンでは芸術の本質論に走るあまり、個性的で、前衛的なものがもてはやされたそうです。既成概念をぶっ壊せ。そんななか、普遍的なもの、よりどころになるような「様式」を創作のイメージの源泉に据えたのが有元の画風でした。中世の宗教絵画。ジョットの、ボッティチェッリの、ピエロ・デ・ラ・フランチェスカの画面が、そしてやがて平家納経や涅槃図が、有元の作品のなかに垣間見えるようになりました。マネだとかマンネリだとか言われても節を曲げずに貫き通す強さはすごいものがあります。そしてそれらの作品が並んだときに、人間というのは、こうだったかもしれない、という深い安堵感に包まれるように、僕には思われるのです。

今、東京都庭園美術館で、有元の展覧会が開かれています。アール・デコという20世紀初頭のデザイン・モチーフをふんだんに採り入れた室内装飾は、過ぎ去った様式の香りを強くとどめています。そこに、有元の「様式」の世界が、静かに幕を開きます。

有元の展覧会は、これまで幾度となく観てきました。東京ステーションギャラリーで、古びたレンガ壁を背景に観る絵も、時間の厚みを感じるような雰囲気になってとてもよかったけど、今回の、庭園美術館の建物との組み合わせも、まさに珠玉。インテリアと画風が呼応するように典雅な雰囲気を醸し出しています。

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庭園美術館の建物は、絵のためにデザインされたわけではないし、有元の絵画も、ここに飾られることをイメージして描かれたわけではありません。でも、出会うべくして出会ったというか、響き合う雰囲気があるのは、とても不思議です。昨年にできあがった「庭師と画家の家」も、そんな雰囲気になっていってくれることを心の中で願わずにいられません。さきほど出したピエロ・デ・ラ・フランチェスカの、たった1枚の絵のための美術館があるとか。いつかそんな場所をつくることができたら、建築家冥利に尽きると思います。

東京都庭園美術館での有元利夫展。9月5日まで開催しているとのこと。暑い日が続きますが、建物の中は涼しく快適です。画風のもつ安堵感とあいまって、ちょっと眠くなるかも(笑)

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東山の家 2 ~又隠~

2010-08-07 19:33:19 | 東山の家

又隠のような茶室がほしい。「東山の家」の計画にあたり、施主のOさんからはじめに言われたのは、そのような内容でした。又隠というのは、京都・裏千家にある茶室のこと。千利休の孫・千宗旦がつくった4畳半の席です。

千利休は茶匠として有名ですが、利休が極めた茶の湯の在りようは、その後、江戸時代になって紆余曲折を経ていきました。戦国時代のなかで研ぎ澄まされた美学が、その後の平穏の時代のなかで意味や価値観を問われることになります。時代に即した、時代のニーズに合った茶の湯として改変、発展させていくこと。それもひとつの自然な流れです。茶室には様々な演出が凝らされるようになり、「個性」を押し出す風潮も強まっていきました。

一方で、千利休が築き上げた茶の湯の思想を、頑なに守っていこうとする動きもありました。やや時代の気分とは反するかのような、求道的な姿勢。茶の湯のメイン・ストリームから外れ、細々と「形式」を重んじる利休の孫・宗旦は、「乞食そうたん」とあだ名がついたそうです。そんな彼が晩年につくった茶室が、又隠でした。そこには演出らしい演出はすべて削ぎ落とされ、必要なものだけが凛として在る、という感じ。個人的な作為を徹底的に省き、利休以来の茶の湯の思想に心を委ねてつくりあげた茶室の空間は、結果的に、「原型」といわれるような力強い普遍性と、類い希な存在感を得たように思います。本当の意味での個性というのは、このようなところに表れるようにも、僕は思います。

僕の師である村田靖夫は、「世で変わったことをすることが建築家と思われているなかで、変わったことをしない建築家として知られている」と自らを自嘲気味に語り、すすんでプロフィールにはそのようなことを書いていました。住宅とは暮らしの背景に徹するべきもの、という信条のもとに、30余年にわたり、ひとつひとつ自分なりの作法を発見し、積み重ね、洗練させてきた造形は、晩年にはほとんど「形式」のようになり、どの住宅にも反映されていきました。一見普通で控えめなそれらの住宅にはいったときに感じる、言葉にしがたい、きりりとした緊張感と格調高さ。その感じは、千利休の茶室・待庵や、千宗旦の茶室・又隠のもつ求道的な雰囲気にも重ね合わされてきます。

変わったカタチをつくることなく、そんな空気感をつくり出すことの意義と難しさをじわじわとあらためて思い知ったのは、独立して自分の手で設計をはじめてからでした。そのような意味で、僕にとって茶室・又隠は特別な存在です。村田さんの住宅や又隠がもつような格調高さを静かに醸し出すものになることを願って「東山の家」を設計してきました。いよいよもうすぐ、着工の予定です。

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