庭づくり

2010-04-26 17:11:55 | 自由が丘の家

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事務所のある「自由が丘の家」で、庭づくりが始まりました。半世紀にわたって建っていた古い家屋を建て替えた時には、以前からあった古い庭木を多く残し、新旧の庭を混在させるようにしました。

それから約8年が経ちました。古い和風の庭木と芝生でできていた庭を、「眺める」庭から、「過ごす」庭へ、思い切ってつくり替えることにしました。主要な老木は残し、それ以外の古い低木は、もう元気もなくなってきていることもあり、惜しみつつも多くを撤去することにしました。代わりに、老木に寄り添うようにベンチを設け、草花を育てるのが楽しい、もうひとつの屋外の居間になるように考えています。

庭師さんにはいってもらい、いよいよ新たな庭づくりがスタートしました。すっかり締め固まってしまった芝生の土を掘り起こし、連休中に天日干しにしています。こうすることで、土が「生き返る」のだそう。

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樹影の心地よい小道や、お茶の時間が楽しくなるようなスペースを織り混ぜたような庭のプランをスケッチで描いてみました。庭はいわゆる「本業」ではないためか、リラックスしていろいろなことを考えることができ、楽しみです。そういえば、庭を大切にしていたメキシコの建築家ルイス・バラガンも、庭づくりを「建築のアカデミーから開放され、自由になれる時間」というようなことを言っていたっけ。

この庭づくり、少しずつ、ブログでも経過を書いていきたいと思います。

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イコンの世界

2010-04-17 15:29:45 | アート・デザイン・建築

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最近、イコンに関する本を読んでいました。イコンとはキリスト教の聖像画のこと。はるか6世紀頃から、風雪にたえて、ひっそりと息づいてきたものです。

イコンについては、以前から興味がありました。その背景にある教義や歴史性はよくわからないまま、ただ、その画面のもつ内省的な雰囲気に引き込まれたのです。

イコンには画家の個性は求められませんでした。描かれるべき宗教的主題が言葉で定められ、それに従って描き、それから逸脱することは許されませんでした。修道院のなかで祈りながら、黙々と描く聖像画。気の遠くなるような丹念に繰り返される作業の果てにできあがる画面が、静謐な雰囲気をたたえるのは必然ともいえるのかもしれません。僕は、そんな物事のありように、何か満たされたような気持ちになります。

個性が求められないとはいえ、類い希なるイコン画家が現れ、画家達の新たな規範となったようです。ロシアのイコン画家 アンドレイ・ルブリョーフがその代表。その画面は、優雅さと品性をも持ち合わせ、洗練された姿であるようにも思います。首のかしげ方の具合、要素の簡略、円を基調とした構図など、他のイコンとの少しの違いが、印象の大きな違いを生み出しているように思います。

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それは、個性の芽生え、芸術の芽生えの瞬間だったかもしれません。それでも、画面に署名がされることはなかったようです。あくまで、神のしもべとして画家個人は生きていたのですね。現代と違って、芸術は自己表現のためにあったわけではありませんでした。

非個人的な芸術の魅惑。それは、イコンが描かれ納められていた修道院や教会にもあてはまります。西欧の都市部にもそれらはあるけれど、むしろ、人里離れた小さな素朴な教会などにこそ、イコンのための空間があるようにも思います。僕はまだ行ったことがなく、憧れるだけだけれども、バルカン半島に散在する小さな教会を、いつか訪れてみたいと思っています。大学の建築の授業にもほとんど登場することのない、歴史からとりこぼされてしまったような教会。でも、そこに身を置くと、簡素で慎ましやかで静謐であることが、しみじみと美しいと感じられるような場所なのだろうか。深い安堵感に包まれるような場所なのだろうか。小さな古ぼけた写真を見ながら、そんなことを想像しています。

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桜の季節に思ったこと

2010-04-06 20:47:53 | 日々

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 いつのまにか桜もすっかり満開を迎えましたね。これから段々と散っていく桜を見遣っていくのは少し寂しい思いもありますが、幻想的な雰囲気の桜吹雪は、いつまで見ていても見飽きません。そんななかでお花見をしていたら、さぞ楽しいことでしょう。

どのくらい昔のものか判りませんが、古いお花見道具が、昔の実家の物置から出てきたので、飾ってあります。ずいぶん痛んではいますが、重箱と徳利のセット。これを持ってお花見をしたことは、かつてあったのだろうか??

今では、和室の片隅で静かに佇んでいます。昼前に、高窓から入る柔らかい光に照らされると、黒漆のなかの金色の葉が輝き、徳利の灰緑色が深みを増します。桜吹雪のなかで見たら、どんな色に見えるのかな。そんなことを想像しつつ、結局、今年も使わぬまま。もう使うこともないのだろうけど、見ているだけで、道具のもつ独特の気品に癒されます。

遠い昔の置きみやげから、新しい日常使いの小物まで。生活をとりまくいろいろな器物が、家の中や外でゆったりと美しく見えること。そんな雰囲気が、僕はとても好きです。家の姿カタチというよりも、そんな器物が織りなす「空気感」が、家の居心地の良さや美しさを決めているようにも思います。そして、そんな「空気感」をつくり出すのは、物事の間合いや、窓から入ってくる自然光の具合だったりするようにも思います。肩の力の抜けた、家の設計。いい意味での脱力感が、気持ちの良い居場所をつくるのには必要なのかも知れないな、と、最近ちょっと思ったりもしています。

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