雨上がりの庭に

2010-06-28 13:06:29 | 自由が丘の家

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梅雨の合間の、雨上がりの庭の写真。自由が丘の家には中庭のような場所があって、そこには昔からある灌木と、古い庭道具や鉢植え、それから新しくつくった建物の、珪藻土の白い壁があります。住宅にしてはちょっと極端に大きな白い壁。

この光景には、この家を設計していた頃から、あるイメージを重ね合わせていました。メキシコにルイス・バラガンという建築家がいて、彼が設計したある修道院の中庭の光景に、僕はとても思いを寄せていました。古い木々と鉢植えや壺が置かれた、静かな中庭。背景に白い壁が立っていて、そこには十字架がレリーフとして刻まれていました。修道院の中庭には、親和的で、独特の穏やかな雰囲気が満ちているようでした。この家は修道院ではないから十字架を表すわけにはいかないけれど、親和的で、穏やかで、ちょっとだけ神秘的な雰囲気をもたらしたいと思っていたのです。

家ができてから8年。白い壁のコーナーにある高く伸びた木から、木漏れ日が白い壁をつたうようになりました。雨上がりのちょっとした晴れ間に、こんな光景を見ると、昔、バラガンの修道院に憧れた時の気持ちが蘇ってくるようです。姿カタチのデザインという意味では、どうということのないものですが、そんな気持ちになれる場所をつくれたのは幸せです。いえ、「つくった」というより、8年という時間が、少しずつそんな雰囲気にしてくれた、と言うべきなのでしょう。

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東山の家 1 ~秘めやかな、場所~

2010-06-21 11:52:59 | 東山の家

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現在進行している住宅の計画のことを書きたいと思います。

東山の家。
はじまりは、ある日届いた一通のメールでした。

施主のOさんは、たまたま目にしたこのブログを気に留めてくださり、ブログのなかで書き綴ってきたいろいろなことを通して、ご自宅の計画の夢をこの若い建築家に託そう、いっしょに楽しもうと思ってくださったそうです。それは僕にとって、これ以上ないほどありがたく嬉しい出会いでした。こうして、「東山の家」の計画は始まったのでした。

Oさんは、茶人でもあります。そう、この家は、茶室のある住宅なのです。そして、鉄筋コンクリート造3階建て。通常の茶室の造り方とは大きく異なりますし、むしろ、茶室の作法を大事にしながらも、新しいやり方で空間をつくっていかねばなりません。僕は茶室や数寄屋建築の専門家ではないけれども、興味をもってずっと見てきました。同時に、古今東西の建築や庭園も興味をもって接してきました。その中で感じてきたいろいろなことを、この住宅の中に静かに沈めること。それが、必要なことなのだと思います。

茶室だけでなく、住居部分にも、茶人の住まいとしてふさわしい雰囲気をつくりだしていきたいと思いました。

陰影の深い、秘めやかで、奥行きのある場所。

そんなことを思い描くとき、桂離宮が、修学院離宮が、吉村順三やルイス・バラガンの住宅が、胸中をよぎっていきます。それらを咀嚼しながら、そっとこの住宅のなかに沈めていくことが、僕にとって設計する上での目標にもなっています。

少しずつ、東山の家について、紹介していきたいと思います。

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ルーシー・リーの器

2010-06-10 12:20:55 | アート・デザイン・建築

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数年前に何かの本で知って、それ以来ずっと見たいと思い続けたきた、ルーシー・リーの器。20世紀に活躍した女性陶芸家の大回顧展が国立新美術館で開催され、念願かなって初めて本物を見ることができました。

もともと陶芸や器に詳しいわけでもないし、自分で所有しているわけでもないのですが、器のもつ何か無垢な感じには惹かれています。

おおらかで、デフォルメされた形。

地球のものではないような、独特の素材感。

それらを見ていると、まったく見たことがない雰囲気にもかかわらず、何かこう、初源的な雰囲気をたたえています。地球ではないどこか遠い星で、そっと掘り出された、ような。同じ一人の作家の器が並んでいるはずなのに、素朴で初源的な雰囲気と、洗練と可憐さの気配とが、同時に満ちています。こういうのを「雅」というのかな。そんな雰囲気は、たとえば僕が好きなリッキー・リー・ジョーンズの歌声や、有元利夫の絵画に、建築でいえば桂離宮の空間に、どこか共通するような気さえするのです。ジャンルを超えて、いろいろなものがひとつの価値観にそっと結び合わされていくことをイメージするのは、とても楽しいものです。

僕が最初に器に少し関心をもったのは、柳宗悦のことを知ってから。仏教書を読むつもりで手にした「南無阿弥陀仏」と題された本の著者が柳宗悦でした。念仏を唱えることと、黙々と雑器を作り続ける無名の人々を結び合わせ、「民芸」という言葉を生み出していったこと。その考え方がそのまま茶室空間や、その中に置かれる粗雑な器への眼差しに向かっていくこと。学校では教わらなかった物事の審美眼や見方に、ゆっくりと気付かされる思いでした。その時に知ったバーナード・リーチという陶芸家のこと。そのリーチがルーシー・リーにあらゆる影響を与えたことは、今回の展覧会で知りました。

柳宗悦やバーナード・リーチが推奨した「民芸」の考え方に、ルーシー・リーの器はむしろ反駁したとの見方が強いようです。でも、冒頭に書いた、どこか遠い星でそっと掘り起こされたような初源的な雰囲気のことを思い返すとき、ルーシー・リーの器は単に個性的な作風ということを超えて、作為の無い、生まれたばかりの名も無きもの、という、崇高な無名性にもつながっていくように思います。それって、どこか民芸のあり方にも近いんじゃないかな。

上の写真は、ルーシー・リー展のカタログ。いまだに、心に深く沈み留まったままです。

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新しい庭のはじまり

2010-06-03 22:39:23 | 自由が丘の家

自由が丘の家でつくりなおしていた庭が、ひととおり植え替えが終わりました。

祖父母の代から、半世紀以上もずっとかわらずあり続けた庭の在りようを変えるのは、僕としてはそれなりの覚悟と勇気が必要だったけれども、より積極的に「過ごすための庭」にするために、思いきって大がかりにやりかえました。

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中心にあるのは、枕木でできたテラス。そこでは、古くから植わっている梅の木と柿の木が、心地よい樹影をつくってくれます。まだ初夏のこの季節、日影にはいるととても心地よいもの。どんなテーブルとベンチを置くか、今から思案のしどころです。

そのまわりには、枕木で小道をつくり、草花に囲まれるようなコーナーをつくりました。地被植物や、背の高くなる草花を織り交ぜて植えてもらいました。今はまだ「植えてある」という感じですが、2~3年もすればだいぶ馴染んで、植物に囲まれた小道とテラスが実現できることと思います。

こうして見てみると、8年前に建ったこの家は、庭の木々や草花の背景としてできているように感じられてきます。建物自体がオブジェのように鎮座するのではなく、心地よい場所をつくりだすための縁取りのような存在になってくれていること。そういえば、旅行で印象に残る光景って、それ自体が主張するものというよりも、街中に調和し溶け込んでいる優しい印象の場所が多かったようにも思います。

新しい庭がはじまりました。そして住まいのあちらこちらで、新しい光景、新しい居場所が生まれてきました。室内にいると、窓から緑の気配を含んだ光がはいってくるようになりました。
住まいのなかに、ひとつひとつ奥行きを与えていくこと。8年目のこの住宅に、また楽しみが加わってきています。

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