焼き鳥屋台

2010-03-29 15:25:37 | 日々

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自宅の傍にある、焼き鳥屋台に、桜の季節がやってきました。
この焼き鳥屋台のことは、2009.2.19にブログでも書きました。

煙で真っ黒になった小屋を覆うように、淡い色の桜の花びらが可愛く彩っています。桜には苔が生え、屋台の濃茶と桜と薄緑が、美しい色の対比をなしています。

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先週のブログで、小さな茶室・待庵のことを書きましたが、この屋台はそれよりももっと小さな一畳にも満たない空間。もはや、小屋の中に空間があるのではなくて、この屋台を中心にして廻りに「屋台空間」なるものができあがっています。もちろん桜の樹も、その雰囲気づくりに一役かっています。
 近所のおじさんたちばかりでなく、高校生や主婦まで、常に赤提灯の前は人で賑わっています。テーブル席はないけれど、近くのコンビニで缶ビールを買って、屋台の傍を流れる疎水を眺めながらアツアツの焼き鳥を食べ、缶ビールをキュっと。そんなベテランの方もいらっしゃいます(笑)
 ここ最近は寒さが戻って、春まですこし足踏み状態。でももう間もなく、この桜も満開になるでしょう。夜桜を眺めながらの焼き鳥は、きっと格別ですよね。

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京都さんぽ11 ~待庵~

2010-03-22 17:26:19 | 京都さんぽ

待庵。その小さな茶室を訪れたときは、しとしとと春先の雨が降っていました。千利休がつくったとされる、現存する唯一の茶室。二畳台目のその小さな空間は、これ以上ない美しい緊張感をもつ極小空間として、洋の東西を問わず多くの書籍で紹介されてきました。

妙喜庵という寺の中を案内されて書院のなかを少し歩をすすめると、そこにはすぐに写真で見慣れた光景がありました。書院にはり付くようにして、小さな箱がポンと地面に置かれているような、そんな 印象でした。

雨に濡れる緑。

寡黙な土壁。

小さく開けられた下地窓。

すべての事物はあるがままに、でも、暗示的に。

それらを確かめるようにして一歩一歩すすむたびに、注意深く守られた「奥」に入っていくような、そんな印象がありました。

土門拳が、待庵を撮影したときのことをエッセイに書いています。大柄な土門が壁を傷つけないようにソロリ、ソローリと入っていくのはとても気をつかったけれど、入って床の間をずっと見ていると、無限な宇宙的な広がりを、確かに感じた、と。

ただの見学者である僕には入室は許されなかったけれど、にじり口から中をのぞくことはできました。壁で囲まれた、ほの暗い室内。所々に開けられた下地窓からの光は、人の所作と心の機微を映したように、吟味された位置に配されています。しとしとと降る雨の音が室内にもはいりこみ、内と外の境界を、意識のなかで溶解していきます。薄い土壁に囲まれた小さな世界は、決して外の世界を拒絶するのではなく、外の気配をやんわりと室内に滲ませながら、平穏な静けさを秘めていました。

簡素で、慎ましやかで、秘めやかな奥をつくること。僕が住宅設計の仕事の上でも大切にしたいと思っていることは、待庵での記憶が大きく影響しているような気がします。

中で撮影は許されないので、受付でモノクロの写真を購入しました。下はその一枚。写真がモノクロだからこそ、記憶のなかで、緑や光の色、そして雨の音が蘇ります。

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一年点検

2010-03-13 11:59:08 | 庭師と画家の家

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「庭師と画家の家」の一年点検に伺いました。

この家は、奥様である画家・山本睦さんの作品を中心に、これまでに集めてこられた絵やオブジェのためのギャラリーのような空間でもあります。生活が始まってから、それらの絵が少しずつ飾られ、行くたびに楽しみが増えていくような感じです。今回、この家の空間のために描かれた絵を、はじめて見ることができました。

薄暗い小屋裏で、あるいは修道院のなかで、宗教画や美術が生まれた瞬間のことを思い描きながら、この家の設計をしていました。素朴な、美術のための小屋。細長い敷地のなかに、細長いギャラリーが、上から降ってくる自然光に誘われるように奥へ奥へと続きます。部屋ごとに区切られているというよりは、歩き回れるようにできている家。そのなかに、絵やオブジェが見え隠れしながら散りばめられています。美術が、日常生活に寄り添ってくるような親密さを感じることができました。

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見えないものを観る

2010-03-06 13:14:35 | アート・デザイン・建築

見えないものを、観えるようにすること。

いきなり妙な言い回しですが、昨日ある二人の芸術家の作品を続けて観たとき、そんなことについて考えていました。

一人は、東京国立博物館で展覧会が開催されている長谷川等伯の絵画群。

もう一人は、渋谷で上映中の、ソ連の映画詩人アンドレイ・タルコフスキーの映画作品「ノスタルジア」。

時代も国も分野も違うこの二人の作家が、同じ壇上で語られること自体あり得ないことかもしれませんが、僕にとっては、冒頭のキーワードに表されることで、両者がゆっくりと結び合わされてくるように感じました。

長谷川等伯の絵画は、自身の作家人生のなかで作風を変遷させていきますし、どの断片をとってみても珠玉のものばかりなのですが、僕がとりわけ興味があるのは、「松林図」に凝縮されていく一連の水墨画です。水墨画というジャンルにもいろいろな画風がありますが、等伯の画風は徐々に図像としての明瞭さは影を潜め、予感と気配に満ちたものに集約されていきました。

今回の展覧会で、ひとつ気になる作品がありました。水墨画「老松図襖」と題された襖絵で、京都・南禅寺にある金地院の茶室「八窓席」に備えられていたものです。普段から茶空間に興味のある僕にとって興味深かったのは、たんに絵画の問題としてだけ鑑賞するというよりは、空間の問題として考えることができたことでした。小堀遠州のつくった小さな空間に宿る、 仄かな光。八窓席は茶室としては明るく開放的な空間ではありますが、そのなかで観るこの襖絵は、博物館の展示室の中で観るものとはまったく異なる印象で しょう。老松をいささか極端にクローズアップした構図のなかに、いくつかの事物の存在が、墨という簡素でシンプルな画材でほのめかすように描かれています。そう、何かの主題をはっきりと画面に示すというよりも、そこに描かれていないものを心のなかで連想させるような、そんなイメージの絵なのです。

茶室は本来、禅的な思想と共にあったようですが、世の中で注目もされないような単なる器や草花に目を向け、姿かたちを通してそれらの存在の背景に心を傾け、それらの不完全さを慈しむような場でもあったと思います。言わば、単なる日常に自由や喜びや美しさを見出していくような。でも、相応の「気分」が伴わなければ、そんな心境にもならないことでしょう。等伯の襖絵は、判然としない図像をイメージのなかで浮かび上がらせるような手法をとりながら、ゆっくりと、見えないものを心のなかで観るように、人を促していくような役割をもっていたのだろうと思います。

タルコフスキーの「ノスタルジア」。長谷川等伯画「松林図」のように湿潤な霧に包まれたモノクロームのシーンから、この作品はゆっくりと幕を開けます。狂人扱いされる男の求める真理と、主人公の記憶の断片が交錯しながら、物語は進んでいきます。暗示めいたシーンの数々は、これまで多くの論議をよんできました。タルコフスキーいわく、それらは奇跡を描いたのではなく、日常のなかの神秘に目を向けたまでだ、と。

光。雨。ガラスの瓶。鏡。ろうそく。そういった目に見える事物を扱いながら、日常の奥底に眠る神秘を観えるようにする。あるいはそういうことを予感させる、というような映画だと思います。でも最後まで、それらの解釈は、観る人に委ねられています。

墨だけで描かれた色気のない絵画。セリフの少ない難解で退屈な映画。

どちらもその気になって観ようとおもわなければ、まったく心に入ってこない作品だと思いますが、そこから学ぶことが、とても多いように思います。

写真は、アンドレイ・タルコフスキーが撮りためたポラロイド写真集「Instant Light」より。映画「ノスタルジア」に出てくる霧深い温泉でのワンシーンです。この写真だけで、充分に暗示的で神秘的。

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