見えないものを、観えるようにすること。
いきなり妙な言い回しですが、昨日ある二人の芸術家の作品を続けて観たとき、そんなことについて考えていました。
一人は、東京国立博物館で展覧会が開催されている長谷川等伯の絵画群。
もう一人は、渋谷で上映中の、ソ連の映画詩人アンドレイ・タルコフスキーの映画作品「ノスタルジア」。
時代も国も分野も違うこの二人の作家が、同じ壇上で語られること自体あり得ないことかもしれませんが、僕にとっては、冒頭のキーワードに表されることで、両者がゆっくりと結び合わされてくるように感じました。
長谷川等伯の絵画は、自身の作家人生のなかで作風を変遷させていきますし、どの断片をとってみても珠玉のものばかりなのですが、僕がとりわけ興味があるのは、「松林図」に凝縮されていく一連の水墨画です。水墨画というジャンルにもいろいろな画風がありますが、等伯の画風は徐々に図像としての明瞭さは影を潜め、予感と気配に満ちたものに集約されていきました。
今回の展覧会で、ひとつ気になる作品がありました。水墨画「老松図襖」と題された襖絵で、京都・南禅寺にある金地院の茶室「八窓席」に備えられていたものです。普段から茶空間に興味のある僕にとって興味深かったのは、たんに絵画の問題としてだけ鑑賞するというよりは、空間の問題として考えることができたことでした。小堀遠州のつくった小さな空間に宿る、
仄かな光。八窓席は茶室としては明るく開放的な空間ではありますが、そのなかで観るこの襖絵は、博物館の展示室の中で観るものとはまったく異なる印象で
しょう。老松をいささか極端にクローズアップした構図のなかに、いくつかの事物の存在が、墨という簡素でシンプルな画材でほのめかすように描かれています。そう、何かの主題をはっきりと画面に示すというよりも、そこに描かれていないものを心のなかで連想させるような、そんなイメージの絵なのです。
茶室は本来、禅的な思想と共にあったようですが、世の中で注目もされないような単なる器や草花に目を向け、姿かたちを通してそれらの存在の背景に心を傾け、それらの不完全さを慈しむような場でもあったと思います。言わば、単なる日常に自由や喜びや美しさを見出していくような。でも、相応の「気分」が伴わなければ、そんな心境にもならないことでしょう。等伯の襖絵は、判然としない図像をイメージのなかで浮かび上がらせるような手法をとりながら、ゆっくりと、見えないものを心のなかで観るように、人を促していくような役割をもっていたのだろうと思います。
タルコフスキーの「ノスタルジア」。長谷川等伯画「松林図」のように湿潤な霧に包まれたモノクロームのシーンから、この作品はゆっくりと幕を開けます。狂人扱いされる男の求める真理と、主人公の記憶の断片が交錯しながら、物語は進んでいきます。暗示めいたシーンの数々は、これまで多くの論議をよんできました。タルコフスキーいわく、それらは奇跡を描いたのではなく、日常のなかの神秘に目を向けたまでだ、と。
光。雨。ガラスの瓶。鏡。ろうそく。そういった目に見える事物を扱いながら、日常の奥底に眠る神秘を観えるようにする。あるいはそういうことを予感させる、というような映画だと思います。でも最後まで、それらの解釈は、観る人に委ねられています。
墨だけで描かれた色気のない絵画。セリフの少ない難解で退屈な映画。
どちらもその気になって観ようとおもわなければ、まったく心に入ってこない作品だと思いますが、そこから学ぶことが、とても多いように思います。
写真は、アンドレイ・タルコフスキーが撮りためたポラロイド写真集「Instant Light」より。映画「ノスタルジア」に出てくる霧深い温泉でのワンシーンです。この写真だけで、充分に暗示的で神秘的。