地鎮祭

2010-10-20 23:24:17 | 富士の二つの家

オノ・デザインで設計をしてきた「富士の二つの家」が、地鎮祭を迎えました。更地になった敷地に張られた地縄の位置を確認し、家の大きさや間合いをあらためて感じました。想像とズレはなかったけれど、いつもながら、設計の内容を反芻するちょっとした緊張感もあります。

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地鎮祭。

敷地に面する幹線道路の騒音。信号が変わるときにおとずれる一瞬の静寂。

風の音。

響く神主さんの声。

皆の視線が向かう方角は、富士。

山の神が降りてきて、守られるような、そんな心地になりました。無事に工事が進み、家が完成しますように。

富士の膝元にゆったりと広がる、野の家。二つの家は隣り合って並びながらも、中庭を囲むコートハウスのような佇まいになっています。中庭は雑木の庭になるようなイメージ。そこを縫うようにデッキで二つの家がつながれています。富士山につながっていく広がりのある光景とはいえ、幹線道路に面した敷地。そのなかに、親密な雰囲気の空間をつくりたいと思いました。

古くは地元新聞社の社屋があった由緒ある場所。そういった「時間の厚み」を受け継ぐよう、年月を経るごとに陰影を豊かにしていく光景を思い描いてきました。この敷地に面する交差点を行き交う人々の心に、「場所の記憶」としてしっかりのこっていくような。そんな住宅を、富士の地元の材料を使ってしっかりと造っていきたいと思います。

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奥行きについて

2010-10-09 14:47:38 | 旅行記

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子供のころ京都の街に住んでいたとき、道の両脇には高い塀が立ち並んでいました。土壁のように記憶していますが、その上から桜や梅や紅葉などの高木が顔を覗かせ、その壁の向こう側はどうなっているんだろう、という好奇心をかきたてられたものでした。その壁の切れ目から、すっと奥に伸びていく路地。その先に見える、屋根の下の陰り、闇。そんな秘めやかな、謎めいた雰囲気が、とても好きでした。

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以前、ポルトガルを旅行したときのこと。リスボンの古い街並みのなかには数多くの教会がありました。敬虔なカトリックの国。大きなカテドラルというよりは、どれもがこじんまりとして慎ましやかな雰囲気でした。住宅地のなかに、あるいはバス通りに面して、それらの教会は奥に引っ込むことなく、街の中に顔を覗かせています。街と隔てているのは、ドア一枚。そのドアをぎぃーっと開けると、すぐに祭壇のある身廊部になっているのでした。

最初は、そのあまりの奥行きのなさというか、あっけなさというものに、少し戸惑いました。街とドア一枚で接し、街の気配や騒音がそのまま堂内に入り込んでくる様が、少し残念なようにも思ったのです。祈るための、もっと内省的な場所として、しかるべき奥行きのあるアプローチと内向的な空間を望みたいような気持ちにもなりました。かつて京都で感じた魅惑を、別のかたちで再現されることを望みたかったのかもしれません。

ですが、しばらく教会のなかに身を置いていると、それは思い違いであるように思えてきました。スーパーの買い物袋を下げたまま、帰りのバスを待つ人、学校帰り、そんな折に教会に立ち寄っていく地元の人々の姿がちらほらと見受けられました。若い人も、老いた人も。

街との身近な距離。他人と会話する必要もない適度な大きさ。神と向き合うことが日常であること。それに適したあり方が、その場所にあるように感じられてきたのです。

リスボンの、とある教会。

堂内の窓辺には花が活けられ、心地よい居場所になっていました。まさしくそこは、生きた場所でした。街から奥行きを持たず、いつでも気軽に入れる開かれた場所。でもそこは神に向き合う、静かで内省的な場所でもある。そんなところに、心の内面にむけての「奥行き」があるように思います。

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