家の大きさ

2010-09-30 19:17:17 | 住宅の仕事

僕が講師をつとめさせていただいている早稲田大学芸術学校で、後期の授業が始まりました。ちょっと長めの夏休みの宿題は、洋の東西を問わず、ひとつ住宅作品を選び、1/100スケールで模型を造る、というもの。今年も、製図室の机の上にたくさんの模型が並びました。

近代の巨匠とよばれる建築家の住宅作品を選んでくる学生も多いのですが、あらためて驚くのは、これって1/100スケールだっけ?と思うような大きな模型が多いこと。その中に埋もれるようにして、日本の建築家の手による住宅作品の模型もあるのですが、その小さく感じられること!日本で住宅をつくるということは、「小さくあること」に立ち向かうことでもあるのだろうと思います。あるいは、「小さくあること」にこそ美徳がある、と考えるべきなのかもしれません。そう、茶室の空間が、世界にも類を見ないほどに得も言われぬ美しい場所であることを思い起こせば、それは大袈裟な話だとは思いません。

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住宅の設計をするとき、僕もよく1/100スケールの模型をつくります。特に初期段階でイメージ模型としてつくることが多いのですが、比較的大きな家、こぢんまりした家、背の低い家、高い家などいろいろなのですが、そのなかに込めようとしている場所のイメージは、どれもそれほど違わないように思います。おのずと、イメージするときに模型に塗る外壁の色も、最初はどれもいっしょ(笑)

メキシコの建築家ルイス・バラガンの住宅作品の写真や図面を、学生時代からよく眺めてきました。何か僕自身の根っこの部分に、深く関わるものを感じていたのだと思います。時を隔てて茶室の空間を見るようになって、いつの頃からか、両者はどこか深い部分でつながっているように感じるようになってきました。一方はとても大きな家で、一方はとても小さな小屋。でも、建物の大きさに関わらず、そのなかに宿されるものは同じである、という感覚。そんな感覚を、大事にしていきたいと思います。

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常設展のススメ。

2010-09-24 01:43:16 | アート・デザイン・建築

秋になり、美術やアートの展覧会も多く開催されるようになりますね。国内外の著名な作品を集めた企画展もいろいろ開催されることと思いますが、じっくり観るどころか、人の波に押されるようにして必死になって観る、なんていうことも少なくないと思います。

このブログでも、いくつかの企画展に行ったことを話題にしたりしていますが、場合によっては、それこそ必死に思いで疲れ果てながら(?)鑑賞した経験もあります。

人気の企画展の雑踏に疲れたから、というわけではないですが、いつの頃からか、僕は美術館や博物館の「常設展」に惹かれるようになってきました。いつ行っても、同じ絵画なり彫刻なりが置いてあって、それを鑑賞するということ。

東京であれば、上野はやはり珠玉の常設展示がある場所だと思います。

西洋美術館に行けば、最もル・コルビュジエらしさが残る空間とスロープに導かれながら、それこそ他人の気配をあまり気にする必要もなく、たっぷりと空間と展示物を独占できるのです。彫刻であればぐるぐると周りを回り、絵画であれば離れたり近寄ったりしながら、好きなだけ観ていられる。

国立博物館であれば、日本やアジアの古典を、ゆっくり観ることができます。しかも、企画展よりも格安の値段で。

もともと、常設展に展示されている作品は、芸術以前の土器など、古人の生活道具であったり、宗教芸術だったりすることが多いものです。それらは個人の作為などはるかに超えた「おおらかな」存在です。どうだすごいだろう参ったか、というようなところがなく、ただ必要に応じて粛々と生み出されたそれらの事物。それを現代では「芸術」と勝手によんでいるに過ぎないのだと思います。それらを、時間を隔てながら何回も対面すると、毎回異なった印象や発見があります。古典というのは、汲めども尽きぬ源泉なのですね。

変わらずに存在し続けてくれること。それが常設展のすばらしさです。変わるのは、自分の向き合う心だけ。成長したのか。捻じ曲がったのか。そんなことを問いかけながら。

上野の東京国立博物館の本館は、上野公園の噴水から望むと、正面に堂々と構えた佇まいです。帝冠様式と呼ばれたそのスタイルは、以降に続くモダニズムの精神からは、非難の対象となりました。でも、時が過ぎ去って今、その姿は、変わらないものを体現しているような雰囲気にも思えます。少なくとも学生の頃は、上記の知識の方が頭のなかに大きく居座って、そんな風に思わなかったけれど、いつの間にか、変わらずにあり続けてほしいと思う光景になりました。

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雨上がりの庭に

2010-09-17 18:08:23 | 自由が丘の家

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夏の終わりを告げるような雨が降った後は、秋の気配が色濃くなってきました。
2日間ほどまとまった雨がざっと降っただけで、庭の緑は一気に息をふきかえし、こんもりと大きくなったように思います。白い壁に映り込む草木の影が、少し涼しくなった風に吹かれて心地よさそうに揺れています。ヒメシャラも、今年の夏は大変だったでしょう。なんとか踏ん張ってくれました(笑)

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バードバスにしている信楽焼の鉢には、雨水がすりきりいっぱいまで溜まっていて、綺麗な水鏡になっていました。映り込む緑と空と、沈んだ石ころとが重ね合わされて。

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と、思わぬところに赤とんぼのお出まし。緑を背景にして、とんぼの赤が綺麗。色合いの調和というのは、自然にできあがるものなのですね。

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レスタウロのように

2010-09-07 00:39:15 | 住宅の仕事

日本でも、古い建物を改修して永く使うことが、一般的になってきました。それが住宅だと、改修という風に呼ぶとどうも堅苦しいのか、リフォームとか、リノベーションという言葉で表現されることが多いですね。でも、特にリフォームという言葉のもつニュアンスに、なにか馴染めないものも感じてしまいます。値段と扱いやすさから多用される新建材で置き換えられる家屋の表情が思い浮かんでくるのです。いろいろな意味で便利にはなるのだろうけれど、長い間に培われ堆積した、かけがえのない大切なものを、ある意味で一瞬で剥ぎ取ってしまうような・・・。リフォームという言葉に、そんな「間に合わせ」の改修のありようを感じてしまいます。

イタリアにはレスタウロという言葉があって、これも改修のことを指しています。保存、修復、歴史的な遺産への創造的な活用、など、文化的な側面を含んだ言葉として定着しているようです。何世紀も昔の建物とともに生活がある国の、独特の言葉なのでしょう。実際に、何世紀も前に造られた、誰によって造られたかもわからない無名の古い建物を前にして、それを改修して、新しい生活の場にしてみたい、という強い願望を抱くときがあります。現代的で斬新なデザインの建築を見るよりも、むしろ古いそれらの無名の建物に思いを馳せるほうが、僕にとって魅力的に思えるのも事実です。

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僕が建築を志そうと思ったキッカケになったもの。カタルニア・ロマネスクの写真集に載っていた、山間部の小さな古い礼拝堂。そしてそれとともに今も生きる人たち。素朴で、無名で、単純で、おおらかな、それらの建物。簡素古朴の美しさに思いを傾けながら、現代に必要なしつらえを、ひとつひとつそっと造りこんでいくこと。そうして、次の世代にまた手渡していくこと。そんなイメージが、僕にとってひとつの理想でもあります。誤解を恐れずにあえて言うならば、新築ではなく改修のようにして一軒の家をつくる。レスタウロのようにして家をつくる。そんなことを心のどこかで思いながら設計の仕事をしています。

そんなせいなのか、僕の設計する家は、一見すると窓が小さく、カタチも普通で、木々の影が壁に映りこむようにできていることが多いようです。(かといって暗いわけではないのですが。笑) 控えめで素朴な佇まいのなかに、時間を味方につけたような美しさが宿ることを目指しているのかもしれません。

建物の改修がより積極的に行われるためには、理屈ぬきにレスタウロしたくなる雰囲気の建物が、もっともっと増えていく必要があると思います。近現代の建築家がつくった建物は、作家性が大前提にありすぎるのか、レスタウロをしたくなる雰囲気の建物はあまりないように思います。そのような意味では、建物は、もっと普通で素朴なものであってよいのかもしれません。そんな風にイメージしたとき、僕にとって理想の佇まいの代表格といえばこれ。ジョルジョ・モランディの絵から。彼もまた、レスタウロの国イタリアの画家でした。

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