モランディの絵、そして村田さんの仕事

2009-11-25 11:53:10 | アート・デザイン・建築

 僕がはじめて画家ジョルジョ・モランディのことを知ったのは、10年ほど前。東京都庭園美術館での「モランディ~花と風景」と題された展覧会で見たのが始まりでした。何かの広告で展覧会の案内を目にしたとき、その簡素で静かな画風に一瞬にして惹きつけられたのでした。
 日々の暮らしのなかの、たんなる器。たんなる家屋。たんなる風景。モランディは、それらの特別でないものに目を向け、ほぼ同じ構図でくりかえし描き続けました。それらひとつひとつの絵が、展覧会のなかで、あるいは画集のなかで一堂に会するとき、画家の求道的な人生に気圧されます。

 同じ主題をくりかえす。そのような創作態度の芸術家に、僕は惹かれてきました。キリストをくりかえし描きつづけたイコン画家もそう。このブログでも折りに触れてきた画家・有元利夫もそうでした。そして僕の師匠である村田靖夫も、そのような建築家でした。生前の村田さんの30年以上にわたる住宅作品を通観していくと、中庭型の住宅をくりかえし造り続けることを通して、一見同じような空間構成が少しずつ洗練化されていくのがわかります。
 「小野、オマエわかるか、建築家に必要なのはガマンだ。」この言葉を幾度となく村田さんからは向けられました。時流に浮き立つことなく、自分が信ずるところをくりかえし追い続ける。それは非常に酷で難しいことであることを、今、痛感しています。

 モランディの絵をはじめて見たのは、村田さんに出会う前。だから、デザインが華やかな流行の建築作品を横目に、村田さんの事務所に居ながら、反復色の強い仕事内容に戸惑いを覚えたときには、よくモランディのことを思い返しました。そしてその反復された仕事の果てにこそ、洗練の極地のような作風が生まれるのだと、自分を奮い立たせたりもしたものでした。
 僕は今、そんな風な求道的な仕事に、理想を感じます。言い表し方は村田さんとは違うかたちで、自分としての求道の美学を築けるだろうか。そんなところに希望と不安の両方を感じます。
 モランディの作品にも、村田さんの作品にも共通して感じるもの、それは「清貧」という概念だと思っています。それはおのずと、簡素で普遍的なものに還元されていくことでしょう。そんなことをモランディの画集から、そして村田さんから身をもって教わってきたように思います。

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上の写真はRizzoli New York "Morandi"の表紙。
モランディの画集は、洋書でいくつか発刊されています。

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シンプルなカタチ

2009-11-16 12:16:45 | アート・デザイン・建築

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後輩U君が持ってきてくれた、シンプルなワイヤーロープ式の物干し。彼がデザインを手がけ、グッドデザイン賞を受賞した一品。

見た目にもシンプルで、ワイヤーの巻き取りスピードなども制御された安全で実用的なモノ。
デザインはシンプルなものであるべきだとする主張は、元来、強い意志とともに生まれたものだったように思います。その内のひとつが、「用即美」。実用的であることが前提になっていたものでした。

シンプルさをスタイルとして演出するのではなく、実用性をまっすぐに見つめ、余計なものを削ぎ落とし、ついでに余計なことにかかるコストも削ぎ落とし、かと言ってシンプルさを徹底することにかかるコストも削ぎ落とし、結果として自ずとできあがるシンプルさ。そんなものに健康的なデザインの在りようを感じます。特に住設機器のような、実用性が大事なものであればあるほど。

デザインという言葉は、何かを主張するような前向きな印象が強いですが、僕はむしろ、簡素・即物・必然といったようなことから、おのずともたらされるような、いわば自己主張と逆のものに、深遠なデザインの質を感じたいと思います。

そんな意味でも、U君のデザインしたこの物干しを、僕は気に入っています。


余談ですが、本体と、ワイヤーを引っ掛けるパーツを積木のようにいじっていると、このシンプルなカタチが、何か建物のようにも見えてきます。

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ロマネスクの素朴な教会のような。鐘楼の部分に鐘がついてそう。



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にじり口のような壁。くぐりたくなってしまいます。

日常の器物を描き続けた、モランディという画家がいます。モランディが描いた静物画も、どこかイタリアの街並みを思い起こさせます。上の写真を見ていると、なんとなくその画風にもイメージを重ね合わされて、勝手に楽しんでます(笑)

そういえばモランディの画風も、自己主張とは逆の、静かで深遠なものでした。そんな話を、また次回に。

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レヴィ・ストロース

2009-11-09 19:34:38 | アート・デザイン・建築

文化人類学者のレヴィ・ストロースが死去しました。レヴィ・ストロースの思想や仕事はあらゆるキーワードと共に評されますが、僕が影響を受けた概念は「ブリコラージュ」について。と言っても、彼の著作は僕にはとても難解なので、著作を通して得た、自分なりの考え方のヒント、といったところなのですが。

それは単純に言えば、どんなものごとにも等しく価値があるはずである、ということ。客観的な価値とは関係なく、個人的な思い入れなどの価値が、物事には生まれるはずだ、ということ。一見、何も価値が無いような物事のカケラや断片をつなぎあわて、新たなモノをつくる。そこにはおのずと、新しい価値が芽生えているかも知れません。

昔、スペインの建築家アントニ・ガウディは、地元で使い古された食器やワイン瓶を砕き、そのカケラで建物を覆い装飾しました。キリスト教の含意の込められた図像と文字をつくりあげているのは、なんてことのない、ただのガラクタでした。でも庶民の日常から生み出されたカケラには、おのずと大切は意味があるのです。ガウディはそれらを使って、楽しく美しく、神と生活と建物を結び合わせました。それはまさしく、レヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」だったのだと思います。

自分なりの解釈も加えながら、そんなことをベースに僕は学生時代に卒業設計作品をつくりました。作品名は「もちあわせによる構成」というものでした。「もちあわせ」という言葉は、レヴィ・ストロースの著作「野生の思考」のなかで、身の回りにあるガラクタを指して使われていた言葉です。その言葉を引用し、レヴィ・ストロースへのオマージュとして住宅の案をつくりあげたのでした。他人の目から見れば価値のない単なる物事を、その置き方や組み合わせを工夫することで、かけがえのない意味をもったモノのように感じられるような空間を、案として作りたいと思ったのです。とても観念的な内容の案でしたが、それがベースになって、実作「自由が丘の家」につながっていきました。

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観念的な内容を、肩肘はらずに素直な言葉でなんとか表現できないだろうか。そう考えてつくった文章と写真が、この秋に発売された雑誌「住む。」に掲載していただいたコラムです。よろしければ、ぜひご一読いただけますと幸いです。

それにしても、レヴィ・ストロースは満100歳の大往生。最期まで健康で頭脳も明敏だったとか。好きなことをのめり込んでやるのが、一番の健康ということでしょうか。アフリカの民族文化の研究のため、多くの時間を現地で過ごしたとのこと。そのエネルギーに敬服します。

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日経ポケット・ギャラリー

2009-11-01 18:24:14 | 

Photo

 普段から文庫本を持ち歩く人も多いと思いますが、それと同じ感覚で、僕はよく小さな画集を持ち歩きます。「日経ポケット・ギャラリー」という小さな本で、古今東西の画家ごとに1冊の画集にまとめられています。文庫本よりも少しだけ大きなサイズなのですが、薄くて軽いのでコートのポケットにもすっぽり入り、電車の中などでぱらぱらめくるのに丁度よいサイズです。

 絵画の鑑賞は本来、ホンモノをじっくり向き合って見るべきものだと思いますし、それが叶わなければ、なるべく写真画質の良い大判の画集を観るのが、正しいと言えるでしょう。でも、それと同時に、常に手元に置いておいて、なんとなく取り出しては眺められるような、身近な存在でもあってほしいと思うのです。そんなときにこのシリーズはうってつけなのです。

 見開きにひとつの作品、その隣に、画家が残した言葉が添えられています。それは直接その絵に関係していることもあれば、エッセイであったり、言葉の断片であったりします。普通ならば絵の解説が載っていそうなところに、作家のナマの声、というか「つぶやき」のようなものが載っているところも、気に入っているところです。本気で絵を鑑賞するというよりは、ちいさな画面と、その言葉をなんとなく目で追いかけながら、その作家人生に思いを馳せたり。それを自分の人生に少し重ね合わせてみたり。

 最初にこの画集を買ったのは、会社に勤め始めた頃。有元利夫の画集でした。それからしばらくして、上村松篁のもの。どちらもくりかえし眺めながらも、今でもずっと見続けています。同じ画面を観ながら、あの頃はこんなことを考えていたっけ、なんて思い出したりもします。
 有元利夫いわく。目標は魯山人の言葉にある、雅、放胆、枯淡、稚拙、鈍、省略、不整備、無名色、無造作と言うような要素を自分の作品の中に持つ事。はっきりとはわからないけど、僕もそんなようなことに惹かれ、有元利夫の画集にたどり着いたのでしょう。上村松篁も然り。そしてそんなようなことを、分野を超え、家や庭の設計にもたらしたいと、心のどこかで僕は思っているのかもしれません。でもそんなようなことを学校で教わったこともないし、「説明」できるものでもないと思います。自分が生み出したものから、おのずと滲み出てくるものになるまで、ひとつひとつの仕事を磨くこと。それ以外に道はないのでしょう、きっと。

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