ガウディの記憶

2013-01-29 11:52:51 | 自由が丘の家

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オノ・デザインのアトリエと住宅の工事が、終盤をむかえています。外壁の左官塗の工事も終わり、器具などが取り付けが終われば、もう間もなく足場とシートが外されることになります。

10年の歳月を経た既存家屋の黒い壁や柱の向こうに、新しい白い壁が屈曲しながらつながっていきます。僕の設計する家はいつも、壁が多めな印象です。それは、窓の位置を吟味して、必要以上には大きく窓を開けないようにしていること、そして、壁がもたらす「余白」の趣を大事にしたいということなどが、その理由です。

結果的にできあがった壁は、さまざまな表情をもちます。左官職人さんの塗った手の跡もありますが、同時にそこにはいろいろなものの影が映り込みます。それらの影はどこか抽象的でもあり、暗示的でもあります。そんな効果が、たんなる壁に独特の趣をもたらすのだと、僕は思っています。

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大学時代に僕は卒業論文で、ガウディを専攻しました。今も建築中のサグラダ・ファミリア贖罪聖堂の柱一本を題材に、そこに込められた図像やイメージについて考える機会になりました。その柱一本は、いろいろなことを暗喩として示す不思議な存在感をもっていました。床・壁・天井で囲まれた部分を指して「空間」というのではなく、その柱一本のまわりに自ずと「空間」ができあがる、というような、そんな雰囲気をもっていました。どこか、心の寄る辺になるような雰囲気があるのだと思います。柱一本に、壁一枚に、そんな趣がもたらされることを、設計しながらよく願っています。

つい先日、大学時代の恩師・入江正之先生を囲む会が開かれ、楽しい時間を過ごしました。入江先生はガウディ研究の第一人者としても有名で、先生の思想の根本の部分には、ガウディからの学びが色濃く反映されているのだと思います。ガウディについては、イメージ先行のせいか、しばしば極端な解釈がなされますが、先生のもとで冷静にガウディに向き合おうとすると、そこには汲めども尽きぬ源泉のような奥深さがあることに気付かされます。20世紀のはじめ、建築の思潮があるブームとともにひとつの方向に舵をきっていきました。現在の建築の潮流も、いわばその延長にあるもの、とも言えそうです。ガウディという人間の在りようは、そのメインの流れからは外れたものになりました。だからこそ、そこには古くて同時に新しい何かが、ギッシリ詰まっているように思えます。

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セラヴィ

2013-01-22 16:46:55 | 日々

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家の近くに「モンサンクレール」というケーキ屋さんがあります。普段はあまりケーキを買うことはないのだけれど、お店はいつも賑わっていて、メディアでもよく紹介される有名なお店だそうです。

モンサンクレールのケーキは、高いわけではないのだけれど、大きさは小さめ。だから、たくさん食べたいという向きにはちょっと物足りないかもしれないのですが、シンプルで洗練された造形と色彩がとても印象的です。そして、実際にいただくと、そのシンプルな外見からは想像できない色鮮やかな切り口と、意外性のある食感をともない、とても美味しい!のです。これは人気がでるはずです。子供といっしょにバクバク食べるというよりも、大人のためのケーキ、といった感じでしょうか。

そんなモンサンクレールに、久々にケーキを買いに行きました。息子の2か月の誕生日のお祝いに。2か月って、中途ハンパな・・・という印象ではあるのですが(笑)。息子はダウン症の子として生まれてきました。生まれてくるときはなかなか大変だったけど、今は目をキョロキョロさせながら人生を楽しみはじめている、かのようです。ただ、特有の合併症により、間もなく大きな手術を受けなければいけません。こんな小さなうちから可哀そうに、とも思いますが、その後の人生を元気よく楽しんで生きていくためには、必要なことのようです。そこでそこで、ケーキで生誕2か月のお祝いということに。まあ、本人は食べられないのですが、お誕生会を口実にちゃっかり美味しいケーキをいただいてしまったわけです。お店の方に言ったら、お祝いのチョコプレートを付けてくれました。お店のお姉さん、ありがとう!ローソクもつけておきますね、と渡されたローソクはなぜか5本。でも、5本ぐらいないとカッコつかないよなあ、と妙に納得しつつ、でもせっかくのケーキにローソクを立てるのも勿体なくて、使わずじまい。

金色の紙プレートにのせられた、小さめのシンプルな丸ケーキ。無垢の木のテーブルの上に載せると、なんだか神々しく光っているようにも見えました。なんだか、ジョットの絵の人物にある金冠みたいだな、なんてひとりでマニアックな楽しみ方もしながら美味しくいただきました。ケーキの名は、C'est la vie.(セラヴィ) お店の看板メニューのひとつのようです。大学時代に語学でフランス語を学んだ時の記憶だけで翻訳すると、「これぞ人生」、みたいな意味なのでしょうか。(違っていたらごめんなさい!)がんばれー、しょうや。

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アクイレイアの色

2013-01-15 20:23:09 | アート・デザイン・建築

雑誌をパラパラとめくっていて、ある記事に目が留まりました。それは、アクイレイアの聖堂の改修についてのものでした。

アクイレイアの聖堂は、イタリア北部の街にある遺構で、聖堂内の床一面に、それはそれは美しいモザイク画が描かれていることで有名です。モチーフは海の静物であったり動物であったり。かしこまった画風ではなく、愛くるしく笑顔のお魚ちゃんたちが泳ぎ回り、動物たちが遊んでいます。石を細かく砕き、モチーフにあわせて色を使い分けながら丁寧に敷き並べられています。

最初にこの聖堂のことを知ったのは、須賀敦子さんのエッセイを読んだときでした。須賀さんもこの地を訪れ、そのモザイク画の素晴らしさに魅せられたことが書かれていました。須賀さんのエッセイは、感銘を受けた美術や絵画について、とても美しい文章でつづられています。言葉について美しいと感じるのは、それが単に視覚的な悦楽のみを指して語られるのではなく、その奥にあるもの、その背景にあるものを、深い海の底から静かに浮かび上がらせるようにしながら語られているから、というふうに僕は思います。アクイレイアのモザイク画についても、そんな風にして書かれていました。須賀さんの言葉を思い起こしながら、静かにこの遺構を観たいな、と素直に思います。

このアクイレイアの聖堂の改修記事によると、傷んだモザイク画の修復や展示方法の変更、そして新たな展示スペースの増設、前庭の計画などが長期間にわたり行われたそうです。全体が調和することを尊び、個性を敢えて沈め、遥か昔から存在してきたものに敬意を表するような手腕でおこなわれた改修は、誰の目にも納得のいくものだろうと思います。

聖堂は何世紀にもわたり増改築を繰り返されてきたようで、このモザイク画の部分は初期ロマネスクの時代のものでしょうか。平面的で簡素な図像やモチーフと、素朴でありながら味わい深い色合いをもつモザイク画の写真は、見ていて飽きませんでした。そして何より羨ましいなあ~と思ったのが、ちょうどモザイク画を修復している光景の写真でした。何人かの修復士がモザイク画の上で作業しています。傍らには美しいカラーパレットの色!各々、自分の内面で過去のモザイク画と対話をしながら、作業としては手堅く慎重にすすめていくのでしょう。そんな仕事の在りように、憧れのようなものを感じます。

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シャルダンの絵

2013-01-07 15:43:46 | アート・デザイン・建築

あけましておめでとうございます。今年も、ブログにお付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたします。

さて、年末のブログで「駆け込みで行きたい展覧会」と書いたのは、丸の内の三菱一号館美術館で開催されていた「シャルダン展」だったのですが、まさに駆け込み!で観ることができました。さして特別でない日常の器物を描き続けた静物画家として、18世紀フランスの画家シャルダンは有名です。

シャルダンの静物画は、写実的のようでありながら、そうではありません。実際に見えるままに描くのではなく、そこにあってほしい光と影と色彩が、丁寧に描かれています。何か物語性を伝えようとするのでもなく、作家の個性をひけらかすのでもない、穏やかな、静かな画面。

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展覧会で、僕は2枚の絵ハガキを買いました。晩年に描かれた、一見似たような2枚の絵。果物や器だけの簡素な絵は、やはり画家の円熟の極致を示すものだと思います。日常のなかのたんなる事物から、独自の存在感と美しさが滲み出るかのようです。

あたりまえの日常のなかにこそ、美しさがある、と言った芸術家や作家は、多くいます。美しいものは、新たに生み出されるのではなく、見いだされるべきものなのかもしれません。

僕は住宅の設計をするとき、「ありふれたものこそ美しい」とする先人たちの言葉を信じたいという気持ちがあります。ですから、つくる家の姿かたちにしても、そのまわりにあるあたりまえの事物を引き立たせるようなことに、目を向けたいと思っています。つまり、生活のなかのたんなるものが、趣きをもって感じられるような場所をつくりたいと思うのです。そういうところに、住宅の懐の深さというのは自ずとあらわれるような気がしています。

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