リスボンの街なかに、古い屋外エレベータがあります。高低差のあるふたつの地区を結ぶためだけにあるものです。それに乗っている時間はたかだか30秒ほどでしょうか。それが動くのを待つのに十数分。いつ作られたのか、古い籠のなかでじっと時を待ちます。自分がどの時代にいるのか、ちょっとわからなくなるような感じ。
日本では、古いものを残していくのはとても難しいことです。また、個性がない民族だといわれながらも、何をやるにしても個性的であることが尊重されがちです。しかしリスボンのなかを彷徨っていると、そんな価値観のウラ返しのような感覚に出会います。
ランチに古いカフェにはいりました。他の店と同様に古びた店内に、質素なテーブルと椅子が置かれ、ぱりっと糊がきいた清潔なテーブルクロスが敷かれています。見ると店内は大理石と漆喰を基調とした仕上げで、もう随分と時を重ねています。窓枠は何度も深緑色のペンキが塗り重ねられています。昔からあるものが当たり前のようにあり続け、その中に気取ることなく普通に暮らす。それが美しいと思える。そんな生活が、この街にはあるようです。
道すがらのパン屋。石で堅牢に築かれた建物のショーウィンドウのなかには、ころころとした飾り気のないパンがいっぱい。売り物であることを誇示しないその姿は、街の風景のなかに不思議な調和をもたらします。そう思って街を見渡すと、この街をかたちづくるひとつひとつの些細なものが、かけがえのない愛おしいものに思えてくるのです。建物の表面を覆うタイル、漆喰、石。そこから突き出すカンテラ。バルコニー、ゆらめく洗濯物。窓、鉄の扉、路面電車。歩く猫。そして足元の舗道に敷き詰めらた石ころ。どれもが無名のものたちばかりですが、自分の役割をわきまえているかのように、過度に主張することなく街並みの風景の中の一要素となっているかのようでした。そしてこのとき、僕もそのひとかけらになっていたのかもしれません。この世に生まれてきた時代はちがっても、それぞれが無理なく自分の居場所をもっているかのよう。
今、僕の手元には一片の石ころがあります。そう、あの舗道のひとかけら。日本とは違い石材が豊富に採れる国ですから、日本の割り箸のように、建材で利用できなくなった端材の有効利用として、石を細かく砕いて舗道をうめているのでしょう。そんな無名の石ころが役割を与えられ、街の風景をかたちづくる。パリの街からはじまった今回の旅は、西の果ての街のこの小さな石ころのなかに静かにすいこまれていきます。
もうもうと立ちこめる焼き栗の煙、くじ売りの怒号のようなかけ声。路面電車や車が、町角の陰からぬうっとあらわれては、地響きをたてながら脇をかすめ、また町角の陰に隠れていく。これが、メトロの駅から地上にあがって僕がはじめて見たリスボンの姿でした。薄暮時に佇みながら、あらゆるものが現れては消えていく。そんな寄る辺なさのようなものに、僕は支配されたのでした。
司馬遼太郎は「南蛮のみち」のなかで、旅とは初対面の印象を得るためにするものだ、といいました。その後どんな素晴らしいものをみても、最初の印象のういういしさにはかなわない、と。スペイン~ポルトガル国境ちかくの小さな鉄道駅に施された質素なアズレージョ~ポルトガルの絵付タイル~に滑稽なほど固執したときのことが書かれています。僕にとっての初対面のリスボンは、とても動的で衝撃的なものでした。でも、何を見たのかと問われれば、よくわからない。そこにある空気そのものだったのでしょう。目には見えない何かが、詰まっている。
リスボンは坂の多い街です。現在の街並みは、数百年前の大震災や数十年前の大火災のあと復興してできたものだそうです。複雑怪奇な入り組んだ街並み、直交軸で構成された硬質な街並み、 起伏にあわせて道がうねる街並み、そんないろいろな街並みが隣り合っている不思議な雰囲気をもっています。ですから中心というものがないのです。すべてが、脇をすりぬけていくような感じ。そしてその行く先は、海。そんな路の果てるところをかたちづくる街並みは、タイルや漆喰が施され、カラフルなようでいて、少しずつ、土にかえっていくような感じ。
そんな古びた街の中をElectrico de Lisboaとよばれる路面電車が、悲鳴のようなブレーキ音をたてながらひた走ります。古びた車体には幾重にもペンキが塗り重ねられ、記憶の彼方からあらわれ、そばをかすめていくのです。
リスボンでも有数の古い歴史をもつアルファマ地区。その麓にカテドラルがあります。パリのノートルダムと同じように二本の塔をもち、西に顔を向ける教会。パリのノートルダムは、ものごとの中心として生まれ、広場に面して人々に正面から向き合います。ところがリスボンのカテドラルは、町角からすこし恥ずかしそうに顔をのぞかせています。その隙間から時折Electrico が悲鳴をあげながら走り去っていきます。そしてまた訪れる静けさ。
何かが立ち現れ、そして過ぎ去っていく。カテドラルの中に身を置き目をつむっていると、そんな予感に満ちあふれます。そしてそれらが、必ずしも目に見えるもだけではないということも。ノスタルジー、メランコリー。この街を表現する言葉のなかに、静かに沈んでいきます。
パリのモンマルトルといえば、何を連想するでしょうか。僕の場合は、すこし前の映画で「アメリ」を思い浮かべました。それからはもっとさかのぼって、絵のなかの風景を思い浮かべます。ユトリロや、日本人であれば荻須高徳らの質感あふれる絵。
聞くところによるともともとパリは、永年の汚れが蓄積して「真っ黒」だったといいます。30年ほどまえに、「大洗濯」をされたのこと。高圧洗浄で、すっかり白くなっちまった、という話を以前聞きました。少なくとも僕にとってはそんな真っ黒い、絵のなかの質感あふれるモンマルトルが憧れの的なのでした。僕が10年ほど前に初めて訪れたとき、パリそしてモンマルトル界隈の「きれいさ」に驚きました。あのおどろおどろしいほどの絵のなかの質感はいったいどこに!?今回は、さらに「きれいさ」に磨きがかかったようでした。はてして喜ばしいことなのか・・・。そんな印象を抱く人は僕だけではないと思います。
しかし、モンマルトルにサクレクール寺院が建ったのは19世紀。それまでは風車のまわる寒村だったといいいます。寺院ができたときは、それこそ景観破壊として大問題となったそうですが、いつの世も、変化することには慎重なものですね。すっかり白く塗られて行儀よくなったモンマルトルの風景もまたどんどん変わり、今の風景がまたノスタルジックに美しく語られるときがくるのかもしれません。そう、映画「アメリ」では、もはや薄汚れたモンマルトルではなく、白く気高いサクレクール寺院を中心に展開したのです。
モンマルトルの丘から市中にずんずん降りていくと、パリのことはじめ、シテ島にたどり着きます。その中心に鎮座するのはノートルダム寺院。パリの都市計画は「方角」にはあまり関心がなかったようですが、ノートルダムは意識されてかどうか、西に顔をむけています。夕方5時半、西日をいっぱいに受けたノートルダムの鐘が鳴り響きます。この光景だけは数世紀このかた変わることはなかったのでしょう。簡素で美しい外観。宗教的含意が装飾としてその表面を覆っています。中ではミサが行われ、聖歌隊の歌声が堂内に響き渡ります。その空間のなかに居合わせるとき、この教会があらゆる教会の中心にあるものとして生まれてきたことが、体でわかるような気がしました。建築というのは、姿かたちのデザインそのものが目的なのではなくて、そこに内包される含意とは何か、それが見えるときに、生きられたものになるのではないか、そんな思いにかられました。
パリ。華の都とよばれる街の代名詞・シャンゼリゼ通りは、ルーブル宮にむかってまっすぐにのびます。その終点、ルーブル宮の中庭に無機質なガラスのピラミッドが登場したことは当然賛否両論の対象となりました。
シャンゼリゼ側ではなく、パレ・ロワイヤル側からルーブル宮の中央門を通して中庭を望むとき、そこには息をのむような瞬間が待ち受けます。暗いアーチのトンネルの向こうにはきらめくガラスのピラミッドが真正面に潜みます。そしてそのトンネルを抜けた瞬間に包まれる高揚感!古き思想のもとにつくられたものと、新しき思想のもとにつくられたものとがその場所でぶつかり合います。懐古主義に陥ることなく、先達の業に敬意を表して新しいものを切り開いていく力強さのなかにこそ、パリが第一線の街であり続ける理由があるのかもしれません。
もともとパリは、数世紀もの長きにわたって少しずつ都市形成がなされていったのでした。日本のように「方位」が重視されることはあまりなく、セーヌ川のもつ基軸をもとに幾何学的に「線」が構想され、それが道となり、その終点や結節点には「オブジェ」としての建物や彫像が据えられたのでした。
都市の空白のような静けさが漂うアンバリッドの中庭も、車が轟音をたてて走り去るマドレーヌ寺院やオペラ座に至る軸線も、すべて時代を隔てて、その時代ごとの政治的思想を反映させながらかたちづくられ、現代にまで都市風景として受け継がれてきました。そしてその焦点となる「オブジェ」は美学的なことだけでなく、富や権力の象徴として扱われてさえいるのです。今回の旅では、そんな街が全体として持つ光と影を、歩きながら体感してみたいと思っていました。夜、それらの「オブジェ」がライトアップされ、彫刻的な表情が薔薇のように華やかに、そして陰影ふかくもえるとき、この街を生み出してきた何ものかが、言葉にならないまま感ぜられるような気がしたのです。