ヴェネツィアは観光の街ですから、明るく賑やかな雰囲気が似合います。
でも、そんな明るく賑やかなヴェネツィアの姿とは別に、多くの文学やコラムや映画や写真では、ヴェネツィアの孤独で虚無に満ちた気分を浮かび上がらせ、それをヴェネツィアが本来もっている神髄とする志向があるように思います。
早世した作家・須賀敦子がエッセイで紡ぎだしたヴェネツィアの姿も、寄る辺のない寂しさに包まれています。
ですが、島のひとつトルチェッロにある古い教会のなかで、素朴で美しい聖母子のモザイク壁画に出会います。
美しいとしてきたものがすっと消えていって「これだけでいい」。そんなふうに思い、眠たくなるほどの安心感と満たされた気持ちに包まれたことが綴られます。
建築書では「大建築家の面目躍如たる作品」として称えられるアンドレア・パッラーディオの白亜の教会についても、須賀敦子は独自の解釈を向けます。
治癒の見込みのない患者が集められた病院の窓の前に鎮座する教会が、建てられた当時に真っ暗な夜の中で、月明かりを受けて、守り神のように立ち姿を見せていたであろうことを。
物事の内奥に迫ろうとすれば、目の前の光景であったり評価であったりに惑わされず、イメージのなかで観照する力が必要なのでしょう。
コロナ禍のヴェネツィアで一時期、街から人の姿が完全にいなくなったことが報道されていました。
その街の様子は、ともすればヴェネツィアの内奥がもつ気分を眼前に浮かび上がらせていたかもしれません。
写真はエリオ・チオル写真集「ヴェネツィア」(岩波書店)より。氏の写真には人物が登場しません。ヴェネツイアを撮った写真、でさえも。
そこには、ふだん我々が目にすることのないヴェネツィアの気分が広がります。
そして氏がライフワークとして撮り続けた写真集「アッシジ」(岩波書店)は、須賀敦子が、「俗を排して聖を浮かび上がらせた」として絶賛したものでした。