ミケランジェロ

2013-11-21 16:51:31 | アート・デザイン・建築

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初めてミケランジェロの作品に対面したのは、ヴァチカンの「ピエタ」でした。周りにぎっしり人が取り囲むなかでは、ピエタのもつ静謐さを十分に感じ取ることは難しかったけれど、思ったよりも小ぶりなその彫刻は、いつまでも見飽きないであろう不思議な雰囲気をもっていました。その表情には感情表現は込められていません。ですから、観る時によって、きっと感じ方が変わるのだろうと思います。

上野の西洋美術館で先日まで開催されていたミケランジェロ展に行ったとき、ピエタを観た時の感情を思い起こしました。今回の展覧会は素描が中心で、展示としては地味(?)なためか、思いのほか展示室は空いていて、じっくりと観ることができました。

ミケランジェロの絵画や彫刻作品を支える、技術的な研究の痕跡。特に感情表現が込められるわけではなく、淡々と手際よくデッサンが描かれています。リラックスして描いた1本の線にも芸がある。そのようなものを目の当たりにすると、天才というのは本当にいるんだなと、溜め息が出る思いでした(笑)

デッサンでは陰影の表現がとても印象的で、それが画面に独特の趣きを与えているのですが、ぼくがもっとも気になったのは、浮彫(レリーフ)でした。

それは「階段の聖母」という邦題のつけられた、15歳の若きミケランジェロが製作した、大理石のレリーフです。

大理石の板でありながら、両手で持って気軽に移動できそうなサイズのレリーフ。それが日常的な室内に置いてある光景を、想像してみました。

ある手狭で簡素な室内の窓辺に、それが立て掛けられているような光景。午前中から夕方にかけて、ゆっくりと窓からの光の雰囲気が変わり、色も変わり、そのなかで、いかにそのレリーフが趣きを変えるだろうか、ということを。画面左方向に無表情な眼差しを向けるマリア像は、さながらフェルメールのような光を受けて、どのような表情に感じられるのだろうか。

時間帯によって、光によって、喜びの表情にも見えたり、悲しみの表情にも見えたりするのだろうか、まるでジョルジョ・モランディの静物画のように。

絵画やデッサンは、あらかじめ光や陰影が表現されています。ですがこのレリーフは、石の凹凸そのものです。光があてられることで、おのずと陰影も浮かび上がります。大きな室内で、彫刻の廻りをぐるぐると360度から鑑賞するのではなく、簡素な室内に置かれている、慎ましやかな聖母子像のレリーフ。そんな在り方に、静かな感動を覚えました。ぼくにとっては、ヴァチカンのピエタよりも「効いて」くる体験でした。

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阪急電車を観ながらヴァルター・ベンヤミンを想う

2013-11-13 23:38:11 | 日々

映画「阪急電車」を観る機会がありました。阪急今津線を舞台に、幾人かの登場人物の日々の断片をとらえながら物語は進行します。今と、遠い昔の思い出と。それらがふとした瞬間に出会ったりすれ違ったり・・・。言葉にしてしまえば取るに足らない個々人の日常をモチーフにした物語は、きわめて淡々と、穏やかに進行していきます。起承転結の無い、断片的な物語。そう言ってしまうと、とてもつまらない映画に思えてしまうけれど、観ながらなんとも言えないほっこりとした安堵の気持ちと、懐かしさに満たされました。

それはきっと、ぼく自身が京都で生まれ育ち、高校で故郷を離れて寮生活を始めるまでの間、阪急電車は「都会」に行くための「とっておき」の交通だった、ことにもよるのかもしれません。

茶色いボディーの、どれだけぶつけても壊れさなそうな無骨な金属の内装材。烏丸から乗って大阪へ。ぼくにとっての大阪や神戸は、なぜだか阪急を抜きには語れない、という感じがあります。

個人的な記憶が、街を、歴史を、語るうえで、客観的な事実よりもむしろ雄弁であり得ること。普遍的な言葉でものごとをとらえてしまうのではなく、個人的な記憶の一断片から覚醒してくるイメージを、大切にすること。ヴァルター・ベンヤミンの著作を少しずつ読むようになってから、そんなものごとのとらえ方に、興味がわくようになってきました。

ちくま学芸文庫「ベンヤミン・コレクション3」の解説に記された、翻訳者 浅井健二郎氏の言葉の引用。

「いまだ批評ではない、しかしすでにその萌芽をはらんでいる、なんらかのイメージ、すなわち心象、あるいは思考像 ― ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、ある手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の断片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることのなかった希望、など。」

阪急電車について述べようとするとき、その車体や路線図について説明することは間違いではないのだけれど、映画「阪急電車」に示されたような個々人の日常の断片を語ることで、はじめて開かれる「阪急電車」像もあるのかもしれません。もちろんあれは架空の物語ではあるけれど、ぼくが暮らしているこの近辺の沿線にはない情趣が込められていて、ぼくのなかの記憶とあわさって、阪急電車が何たるものか、浮かび上がっているように思いました。

まあ、阪急とベンヤミンを並べて話すなんて、とんでもない話ではあるのだけれど、ベンヤミンの難解な散文も、ハンキュウと並べることで初めて、地べた感のある親しみやすいものになるのかなあ、と(笑)

ぼくが住宅を設計するとき、斬新でカッコいいものをデザインしようという願望よりもむしろ、古くからそこにあったものであるとか、記憶のなかの引っ掛かりのようなものをよりどころにしようとしてしまうのは、一種のクセのようなものかもしれないのですが、その根本の理由を探っていくとまさに、上で書いたようなものごとの把握の仕方に、心惹かれるからなのかもしれません。

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