ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 73 ( 菅原道真の手紙 - 2 )

2023-04-19 10:23:37 | 徒然の記

 本日は、道真の手紙の内容の二つ目です。ここで道真が語ったのは、橘広相自身の功績についてでした。

 〈 2.  藤原氏のため書かれた内容 〉

  ・広相は、陽成・光孝・宇多三代の天皇の侍講 ( 君主に学問を講義した人 ) である。

  ・特に学問好きの宇多天皇にとっては、親王時代からの師である。

  ・しかも娘は宇多天皇の女御 ( にょうご )で、すでに二人の子供がある。

  ・功績においても縁戚においても、基経に勝っている。

  ・藤原氏は古来功績の多い氏族であるが、近頃は優れた人物が少ない。

  ・基経は太政大臣として先祖に相応しいが、広相のような功績・能力も高く、縁故の深い者を陥れては、将来に禍根を残すのではないか。

 時の権力者に対し、よくもここまで遠慮なく言ったと思いますが、渡部氏は驚いていません。

 「道真のこうした論議には、基経の心を動かすところがあったと考えて良いであろう。宇多天皇にとって、最大の屈辱であった〈 阿衡の紛議 〉に関し、学問的にも正当に、また道理のかなったことを述べた道真については、直接・間接にお耳に入ったに違いない。」

 氏は道真の意見が、基経の心を動かしたという穏やかな表現をしていますが、事実はそんなものではないはずです。基経の横車だった〈 阿衡の紛議 〉が天皇に屈辱を与えた事績だったのと同様、道真の手紙の内容は、基経に致命的な屈辱を与えたのではなかったでしょうか。ぐうの音も出なくなった彼が、「言葉いじり」を止めたと考える方が自然でしょう。

   紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す

   衣冠済済拝跪 ( はいき ) せむと欲す

   惜しむ可し精神無し

   何れの時か可否を献ぜむ

   龍を画 ( えが ) き龍を求めて真龍出づ

 ここで氏が、頼山陽の詩の五行目までの解説をしているので紹介します。

 「宇多天皇は名臣を求めて〈賢聖の障子〉を作らせたが、求めよさらば与えられんというべきか、真の名臣である道真が出たというのが詩の五行までであろう。意訳すれば次のようになる。

   紫宸殿に賢聖障子を画かせ 22人の古代シナの名臣を並べた

   これらの画像は冠を被り服装を整え、威儀をただして並び、いかにもうやうやしく皇帝にお仕えする姿を示している

   残念なことには生きた人間でないから、魂が入っていない

   皇帝に対して、( 可否 ) の意見を言上することができない

   龍に例えて功臣を描かせたのは、龍の如き功臣を求めたからであるが、果たして本物の龍のごとき人物、菅原道真が出てきた

 頼山陽は「真龍」の真の文字を、道真の真の字とかけているとの説明ですが、これで一件落着となりました。しかし人間の怨念は落着せず、次の醍醐天皇の時代となった時、基経の後を継いだ藤原時平の仕返しが始まり、道真に不幸が訪れます。

 庶民である私たちも、高位の貴族も同じ人間であり、人である点において喜怒哀楽の情に変わりがありません。恨みや妬みも、同じです。残る三行に道真の不幸が語られますので、できることならここで止めたくなりますが、それでは、道真の出世と左遷の史実が息子たちに正しく伝わりません。

 庶民に比べ、高貴な人々は富と権力に開きがあり、きらびやかな姿が目立ちますが、人間の喜怒哀楽に大きな開きはないようです。「奢る平家は久しからず、ただ春の世の夢のごとし」という平家物語の無常観は、善人・悪人の別なく当てはまることも教えてくれます。

 「今の日本と、今の日本人だけが、過酷な時を生きているのではありません。いつも時代でも、人がいる限り、同じ歴史を繰り返します。何を嘆くことがありましょう。」

 息子たちに伝えるためというより、自分に言い聞かせるため、次回も山陽の詩を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 72 ( 菅原道真の手紙 )

2023-04-18 21:47:09 | 徒然の記

  紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す

 今回も一行目の続きです。〈 阿衡の紛議 〉の背景に何があったかについて、渡部氏の解説を紹介します。

 ・関白辞退をした基経に対し、重ねて宇多天皇より辞退しないようにという勅答が下った。

 ・勅答を作ったのは、橘広相 ( たちばなのひろみ ) であり、このなかに「阿衡」の言葉が使ってあった。

 ・橘広相が文章博士としてときめいていたため、藤原佐助 ( すけよ ) はこれに文句をつけ、学会で有利な地位を占めたいという下心があったらしい。

 ・また橘広相の娘が宇多天皇の女御であるところから、彼が外戚として藤原氏に対抗する勢力を持つことを、基経が警戒したものと思われる。( 女御・・天皇の寝所に侍した身分の高い女官  )

 この推定がたんなる勘ぐりでないことを、氏は基経が広相の処罰を強く求めたところに見ています。光孝天皇がなされたように、宇多天皇も「阿衡」の言葉について、他の博士や学者たちに検討させられました。しかし結論は、光孝天皇の時と同じで「阿衡には職務権限がない」でした。光孝天皇の時は解釈変更で対処しましたが、事態がここまでこじれますと解釈変更をすることができません。

 ・それで宇多天皇は仕方なく、「橘広相が阿衡の言葉を使ったのは、自分の本意に叛いたものである」という訂正の詔書を出された。

 ・しかし基経が広相の処罰を求めて止まず、政務はますます停滞するばかりとなった。

 ・ついには広相の処罰について、明法博士に諮問するところまで事態が悪化した。

 ・ところが事態が急に軟化し、広相も処罰を受けずにこの事件は落ち着いた。

 事態解決の理由として、次の二つがあると言われているそうですが、渡部氏は二番目の理由の方を大きく捉えています。

  1.  基経の娘が、宇多天皇の女御として入台 ( にゅうだい ) したこと

  2. 菅原道真が、基経に手紙を出したこと  

 この辺りの話は頼山陽の漢詩には書かれておらず、全て渡部氏による背景説明です。道真の高い識見と人格についての説明がなければ、 十二闋の8行詩の理解が正しくできないのは事実でしょう。「菅原道真の出世と左遷 」という副題がついていることを考えますと、いっそう不可欠に感じられます。

 「道真の手紙の内容は二つあり、一つは学問の立場から、一つは藤原氏のために書かれている。」

 氏が二つの内容の説明をしていますので、そのまま息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介いたします。

 〈 1.  学問の立場からの内容 〉

  ・広相の使った言葉 ( 阿衡 ) が、太政大臣の職にも当てはまるという用法は『詩経』や『書経』では合わない。

  ・しかし『漢書』以降の用法には合っていて、ここでは「阿衡」は名誉職という意味ではない。

  ・広相も職掌のない職位という意味で、「阿衡」を使ったのではない。

  ・語義の変遷を認めない立場から広相を罰するのなら、後世に言葉を使った者は皆罰せられることになる。

 道真の意見に対し、渡部氏が次のように解説しています。

 「漢の正史にも新しい意味で使われているのに、最古の意味で使わなかったからと罰するのはおかしい。」

 「状況的に見て、宇多天皇も橘広相も、基経を名誉職に棚上げする気はなく、関白にしようとしていたことは確かだからである。」

 だから氏は、基経の所業を評して「言葉いじりをして、ごねている」と言っています。先の国会で、立憲民主党の小西議員が「総務省の公文書」を振りかざし、「言葉いじり」をして国政を停滞させた事件と、どこか共通するものを感じるのは私だけでしょうか。憲法学者でもないのに憲法学者と自称する慢心も、基経に似ていると言えば言えます。

 人間がいる限り、歴史は同じことを繰り返す・・と、ここでもまた同じ思いをします。スペースが無くなりましたので、手紙の二番目の内容の紹介は次回といたします。

 〈 2.  藤原氏のため書かれた内容 〉

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『日本史の真髄』 - 71 ( 「言葉いじり」のごね )

2023-04-18 15:27:16 | 徒然の記

  紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す

 もしかすると今回も、この一行の解説で終わるのかもしれません。渡部氏は先ず紫宸殿の説明をし、今度は基経の死後の話になります。回り道をしてでも、読者に頼山陽の詩を正しく理解してもらおうとする、氏の真剣さがうかがえます。

 「基経が死んだ時、その子の藤原時平はまだ年が若かったので、宇多天皇の親政となった。その政治は後世に〈寛平の治〉と呼ばれるほどよく行われ、文運も隆昌であった。」

 「その政治の成功は、宇多天皇が良い臣下を用いようとする意欲が強かったからだと言われ、天皇が抜擢した名臣の第一が菅原道真である。」

 ここで初めて、道真の名前が出てきます。

 「帝が即位された時、道真はまだ讃岐守 ( さぬきのかみ  ) として四国の任地にいた。任期を終え都へ戻ってくると、道真は抜擢に次ぐ抜擢を受けた。実権者基経が亡くなる以前からの、道真の急速な出世は宇多天皇の直接の意向であったと考えて良い。」

 前にウィキペディアで平安時代の博士家(はかせけ)について、古代から中世にかけて、家伝の学術などで朝廷に仕えた家系を指すと紹介しました。

  ・大宝律令の規定により、大学寮・陰陽寮・典薬寮などで学生を指導・教授し試験をする教官 (官吏 )のことである。

  ・博士は一人でなく、複数名が任命される。

  ・大学寮には、明経博士、音博士、算博士、書博士、紀伝博士、明法博士が設置された。

 と述べましたが、菅原道真は大学寮に設置されたその紀伝博士の名家の出身でした。紀伝博士は別に文章 ( もんじょう ) 博士とも呼ばれ、道真の頃は大学寮の筆頭官職になっていたそうです。ではなぜ宇多天皇は、道真をそのように重用されたのか。その理由を氏が解き明かします。

 「もちろん道真は学問の家に生まれ、若くして英才の誉があり、29才で五位、32才で式部少輔 ( しょうゆう ) となり、文章博士になったのであるから、ただ者でないことは広く知られていたであろう。」

 「しかし宇多天皇の道真に対する特別な信頼を見る時、やはり〈 阿衡 ( あこう ) の紛議 〉がその底にあったのではないかと思うのである。」

 注目しましたのは、次の説明でした。

 「この問題は今日では専門家以外の関心をひかない、アカデミックな問題であるが、藤原氏の権力を示した典型的な例であるとともに、シナ古典に関する教養の問題であった。」

 以前のブログと重複しますが、宇多天皇と基経の間に生じた〈 阿衡 ( あこう ) の紛議 〉について、文章をやめ、時系列で整理してみます。 

 ・光孝天皇の時には解釈変更で、基経は太政大臣でありながら、関白と同じ権力を持つことができるようになった

 ・宇多天皇即位の時、天皇が基経を正式に関白とする詔勅を出された

 ・当時の習慣で有難いお沙汰には、二度形式的に辞退し、三度目にお受けすることとなっていた。

 ・基経が一度辞退し、二度目の詔勅を受けた時に問題が生じた。

 ・二度目には「 阿衡の任をもって、卿の任となすべし」という言葉が使われていた。

 ・基経に式部少輔藤原佐助 ( すけよ ) という補佐官がいて、阿衡とは職務権限のない地位だから、政治に関与するなという意味であると伝えた。

 ・それで基経は、その後一切政治を見なくなり、政務が停滞した。

 この段階ではまだ菅原道真は登場せず、渡部氏が基経を批判しています。

 「何だか言葉いじりでごねている感じであるが、真実、言葉いじりそのものなのであった。」

 今日でも「日本学術会議」に属している一部の学者が、自分たちの利権を守るため歴代の総理にごねていますが、似た話が平安時代にもあったと知りました。人間がいる限り、歴史は同じことを繰り返すのでしょうが、〈 阿衡の紛議 〉の背景に何があったかについて、次回も渡部氏の解説を紹介します。

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『日本史の真髄』 - 70 ( 宇多天皇のご意思 )

2023-04-17 17:01:46 | 徒然の記

 本日は、渡部氏の行ごとの解説を紹介します。まず、一行目です。

   紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す

  徳岡氏の大意では、「紫宸殿の障子には 賢聖の姿がずらり」ですが、渡部氏は紫宸殿の説明から入ります。一般の家でも、和室には必ず庭に面した障子がありますが、紫宸殿の障子は規模の大きさからして違います。

 「紫宸殿は平安時代の内裏 ( だいり ) のほぼ中央にあって、即位式を始め、宮中の重要な儀式が行われる建物である。正殿 ( せいでん )とか寝殿、あるいは南殿 ( なんでん )とも呼ばれた。」

 古い書を読めば紫宸殿という言葉が出てきますので、何となく知っていましたが、それでは頼山陽の詩が正しく理解できません。息子たちが根気よく読んでくれるかどうか、心配ですが、氏の説明をそのまま紹介します。紫宸殿の真ん中で、ほとんど建物全体を占める母屋 ( おもや ) があり、そこにこの障子があります。

 「天皇が儀式のためここの御椅子に着座される時は、南面される。天皇の背後である北側には、儀式の間九間に及ぶ障子を立てる。」

 私は面倒なのでしませんが、一間は約1.8メートルですから、数字の得意な人は計算すれば障子の大きさが分かります。

 「九枚の障子の中央の一枚には、獅子・狛犬 ( こまいぬ ) の図と負文亀 ( ふみおえるかめ )  の図が画か書かれている。」

 「その左右4枚の障子つまり、東と西の障子には16人ずつ、合計32人の殷周以来の古代シナの聖賢や、名臣の全身像が画いてある。」

 賢臣や聖人の画像が画れていることから、この障子が「賢聖障子  ( けんじょうのしょうじ  ) 」と呼ばれるのだそうです。漢の武帝が功績のあった者の像を画かせ、麒麟閣に掲げた故事にならい、宇多天皇が絵師に画かせられたと言います。

 「ここに画かれた賢聖たちが、ことごとく古代シナ人というのも、時代をよく示すものと言えよう。なにしろ日本の九世紀は漢文学の興隆期で、漢詩の勅撰集が何度も出されていたのである。」

 「勅撰の和歌集 (『古今集』) は、十世紀初頭になって初めて出ているのだから、この時代の漢文熱が分かろうというものである。」

 尖閣の領海を犯し沖縄を狙っている習近平氏の中国と違い、平安時代の中国は大らかな日本の先生でしたから、日本も国をあげて中国の文化を取り入れていました。多くの困難を冒してでも、国家事業として遣唐使を送っていた時代です。

 「賢聖の障子を作らせた宇多天皇が、いかに良い補佐の臣を求めておられたかを示す具体的な行為として、頼山陽がこれを持ち出した。その博識を詩材として用いる点において、山陽のアイディアはいつもながら秀抜である。」

 己の偏狭な意思を通し、詔勅を書き換えさせた基経に信を失われた天皇が、忠臣を熱望されている様子を、山陽の詩を借りて渡部氏が説明しているという気がします。詩の紹介というより、渡部氏自身の気持ちを述べているのではないでしょうか。

 「宇多天皇はその母が藤原氏の出でなかったが、基経が死の床にあった光孝天皇の意を汲み皇位につけるよう取りはからった。それを徳とした宇多天皇は、基経を日本最初の関白に任じた。」

 「そこまでは、君臣の間がまことにうるわしかったのであるが、基経は次第に専横となり、「阿衡 ( あこう ) の紛議」が起こり、藤原氏の権勢で詔勅を変更しうることを示した。」

 宇多天皇が漢の武帝にならわれ、紫宸殿の障子に賢聖の像を画かせたられたのは、忠臣を熱望された現れであると氏は解釈しています。そして天皇のご意志が明確になるのは、寛平三年 ( 891 ) 年に基経が死去した後になります。

 皇位をうかがわない藤原氏の慎みも、永く権力の座にいると緩みが生じ、「権力は腐敗する」という言葉の重みを教えられます。今回はここでスペースが無くなりましたので、基経の専横ぶりについては次回で紹介します。 

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『日本史の真髄』 - 69 ( 菅原道真の出世と左遷 )

2023-04-16 23:21:04 | 徒然の記

〈 十二闋 賢聖障子  ( けんじょうのしょうじ  ) 菅原道真の出世と左遷      8行詩 〉

 前回の最後に、渡部氏への意見を下記の通り述べました。

 「貴方は頼山陽の礼賛に重点を置かれていますが、十一闋のまとめの言葉としてそれで良いのでしょうか。

 しかし〈 十二闋 〉読みますと、疑問が全て解けました。遠慮して副題を「基経の奢り ? 」とつけましたが、疑問符をつけるまでもなく「阿衡 ( あこう ) の紛議」は、基経の横車でした。

 本を読み終えて書評を書いているのでなく、〈 一闋 〉ずつ熟読・検討しながらの作業です。一気に読んで、読後に書評が書ける本でないため、以後もこんなことになる気がします。当たって欲しく無い推測でしたが、やはり宇多天皇は宮廷を混乱させた基経に、ご不快の念を持たれていたことが、〈 十二闋 〉で説明されていました。

 今回は渡部氏の行ごとの解説を後に回し、以前のように頼山陽の「書き下し文」と徳岡氏の「大意」を先に紹介します。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 八行詩

   紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す

   衣冠済済拝跪 ( はいき ) せむと欲す

   惜しむ可し精神無し

   何れの時か可否を献ぜむ

   龍を画 ( えが ) き龍を求めて真龍出づ

   雲を呼び雨を醸 ( かも ) して雨未だ起こらず

   龍を逐 ( お ) いて湫 ( しゅう ) に入れ 龍窮死す

   画龍 ( がりょう ) 舊 ( きゅう ) に依りて天子に侍す

 〈 「大 意」( 徳岡氏 )  〉

   紫宸殿の障子には 賢聖の姿がずらり

   衣冠おごそかに 見ればひざまづきたくなるありがたさ

   惜しいことに魂なき絵姿

   事の善悪を天子に奏上するすべはない

   絵といえば 龍を画き龍出でよと真実望めば 本物の龍が出現するとか

   ( 賢臣を望めばこそ 菅公のごとき賢者が朝に仕えたのだ )

   ところがなんと 龍出て雲を呼び雨気をかもして 肝心の雨がまだ降らぬうちに

   朝廷はこの龍を追放して池におしこめ 龍は苦悩のうちに死んだ

   そして絵に描いた龍だけが もとどおり恬 ( てん  ) として君側に侍していた、という次第よ

 「書き下し文」も「大意」も、文字を追うだけでは平安時代の大事件を読み取れません。詳しくは次回から、渡部氏の解説が明らかにしてくれますが、有意義な書でした。菅原道真の名前は学問の神様として知っていますが、宮廷の高官がなぜ九州の太宰府へ左遷されたのか、道真の怨霊を鎮めるためなぜわざわざ神社が造られたのか知りませんでした。

 知ることは学徒の喜びと言いますが、ときに学徒の苦しみになると息子たちに伝えたくなりました。左翼系の学者が、記紀は天皇家を賛美する国家主義者の宣伝の書だという意見が間違っていることを教えてくれます。渡部氏のいう通り、記紀は天皇家の歴史、日本の歴史を飾らずに伝えている貴重な書籍だと思います。

 楽しい読書にはなりませんが、ご先祖の飾らない姿を知ることは、絶望しないための良薬ではないでしょうか。

 「今の日本、今の世界情勢だけが過酷なのでは無い。人間の歴史は、人間がいる限り変わらない。」

 こういう、逆説の励ましを得ることができます。

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『日本史の真髄』 - 68 ( 基経の奢り ? )

2023-04-16 14:54:07 | 徒然の記

   当時誰か解せむ明主 ( めいしゅ ) の問い

   太政大臣職 有りや否やと

 上記二行を理解するためには、話を光孝天皇が即位された時に戻す必要があり、ここから渡部氏の解説を紹介します。

 「基経は新帝は幼くないというので、摂政を辞退した。光孝天皇は基経に政治全般を見てもらうつもりだったが、摂政をやめた基経は太政大臣の資格だけである。」

 「名君であった光孝天皇は、太政大臣という位が唐の制度では何に当たるのか、また、その位では摂政の役目ができるのかということを、博士たちに諮問された。」

 渡部氏は知っているのでしょうが、「平安時代の博士とはどんな人々なのか ?」と私はここでつまずきます。ウィキペディアで調べますと、次のように書かれていました。

  ・博士家(はかせけ)とは、日本の古代から中世にかけて、家伝の学術などで世襲的に朝廷に仕えた家系を指す。

  ・大宝律令の規定により、大学寮・陰陽寮・典薬寮などで学生を指導・教授し成績試験をする教官(官吏)のことである。

  ・大学寮には、明経博士、音博士、算博士、書博士、紀伝博士、明法博士が設置

  ・陰陽寮には、陰陽博士、天文博士、暦博士、漏刻博士が設置

  ・典薬寮には、医博士、針博士、呪禁博士が設置

  ・平安時代に彼らの中から高位高官に昇る者が現れ、官職に世襲の傾向が出るようになった。

 今で言えば、文部科学省、厚生労働省、法務省、財務省に専門の官僚がいる様子と似ています。「太政大臣に摂政の役目ができるのか」という諮問を受け、博士たちが検討して得たのは次の結論でした。

  ・わが国の太政大臣にあたる役職は、唐の制度では三師・三公である。

  ・三師・三公は、国政の中枢である六部を統括する尚書 ( しょうしょ ) 省との関係がない。

 つまり太政大臣は摂政と異なり、政治の実務を統括できない名誉的な役職ということでした。尚書省は実務機関としての六部を有し、それぞれの職掌は次のようになっています。

  1. 吏部・・官僚の人事を司る。

  2. 戸部・・財政と地方行政を司る

  3. 礼部・・礼制(教育・倫理)と外交を司る

  4. 兵部・・軍事を司る

  5. 刑部・・司法と警察を司る。

  6. 工部・・公共工事を司る。

 官僚の人事から、国と地方の財政、軍事、司法、警察、公共工事を握るというのですから、とてつもない力を持つ省です。太政大臣の地位は高くても、尚書省との繋がりを持たないのでは光孝天皇のご意志に沿いません。そこで博士たちは何をしたか。

 安倍内閣の時、集団的自衛権の行使は憲法違反にならないと、政府がした時のように、博士たちも「解釈変更」をしました。安倍元総理の奢り、総理の独裁と、野党政治家と学者たちが叩き、マスコミが激しい批判報道をしましたが、平安の昔から政治は同じことをしていました。

 「博士たちは協議の結果、日本の太政大臣は、太政官を従えて政治を総括することができる。つまり、唐の詔書令の機能を持つという解釈をした。」

 この解釈変更で基経は太政大臣でありながら、関白と同じ権力を持つことができるようになったと言います。関白の職位は当時定められていませんでしたが、実質的に関白同様の職位を持ち、基経が尚書省を統括したという説明です。

 問題が起こったのは、次の宇多天皇の時でした。渡部氏の説明をそのまま紹介します。

 「天皇は前に述べたように、太政大臣基経を関白にするという詔勅を出した。ところが詔勅の中に、基経に〈 阿衡 ( あこう ) の任〉を与えるという文言があった。」

 「阿衡は、古代シナの賢人に与えられた人民最高の地位である。だから問題がないようであるが、この阿衡には政治的職務権限が無いと言われていた。 」

 それで基経は宮廷へ出ることをやめてしまったというので、大変なことになりました。全宮廷、全学者を巻き込む大論争が起こり、ついに詔勅の文言を改めることになったと言います。

 「そもそも詔勅は、一度出したら改めないものである。従ってこれは、藤原氏が天皇を屈せしめた象徴的な論争であった。」

 「こんな争いが起こるとは、光孝天皇が太政大臣の職務について質問されたときには、誰も予測しなかったことであろう、ということを、頼山陽は次の二行でこう言っている。」

   当時誰か解せむ明主 ( めいしゅ ) の問い

   太政大臣職 有りや否やと

 「文徳天皇から宇多天皇に至る五代にわたる藤原氏台頭の歴史を、たった六行の詩でまとめた頼山陽には、毎度のことながら頭が下がる。」

 これが渡部氏の締めくくりの説明ですが、今回は意見を言いたいと思います。

 「貴方は頼山陽の礼賛に重点を置かれていますが、十一闋のまとめの言葉としてそれで良いのでしょうか。

 「基経に感謝しておられた宇多天皇のお気持ちを斟酌せず、官位の言葉にこだわった基経が奢っていたのでしょうか。それとも、無意味な官職を与えられた天皇に過誤があったのか。それを言わなくて良いのでしょうか。」

 渡部氏は故人となられており確かめる方法がありませんので、諦めて先へ進むことにします。次回は十二闋です。

  十二闋 賢聖障子    ( けんじょうのしょうじ  ) 菅原道真の出世と左遷         8行詩

  十三闋 脱御衣      ( ぎょいをだっす  )  醍醐天皇のご親政                       10行詩

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『日本史の真髄』 - 67 ( 「阿衡 ( あこう ) の紛議」 )

2023-04-15 19:21:35 | 徒然の記

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 六行詩

   髫齓 ( ちょうしん ) の天皇は 古 ( いにしえ ) には未だ有らず

   扆 ( い ) を負うて立つは 是れ元舅 ( げんきゅう  ) 

   父は王鳳 ( おうほう ) の如く 子は霍光 ( かくこう ) 

   十指 ( じゅっし ) 三たび結ぶ神璽 ( しんじ ) の綬 ( じゅ )      

   当時誰か解せむ明主 ( めいしゅ ) の問い

   太政大臣職 有りや否やと

 3行の説明が終わりましたので、本日は残りの3行の説明を紹介します。4行目は藤原良房の跡を継いだ藤原基経を詠っています。渡部氏の解説を読みますと、不比等だけでなく、良房、基経も皇位をうかがわない忠臣として慎みをもって仕えていることが分かります。基経は、陽成、光孝、宇多の三代の天皇の即位に直接関わり、実現させた人物だとのことです。

 その経緯を、氏の説明に沿って紹介します。

 ・清和天皇はまだ若いうちに皇位を皇太子に譲り、仏門に入られた。

 ・この皇太子が第57代陽成天皇で、即位時はわずか10才だった。基経は幼帝をたすけ、右大臣、摂政を勤めさらに太政大臣になった。

 ・ところが陽成帝は脳の病気をお持ちであり、皇位についていることに耐えられなくなった。

 ・基経は他の廷臣たちと相談し、陽成帝の曽祖父である第54代仁明天皇の皇子を皇位につけた。

 ・この方が第58代光孝天皇である。天皇は即位なさった時55才で、当時としては高齢であった。

 ・補佐してもらう必要もなかったであろうが、基経が自分のためにやったことを徳として、万事基経を経由して奏上せしめた。

 ・これが、「関白」という職の実質的始まりと言われている。

 ・光孝天皇のご病気が重くなった時、基経は天皇の意を察し、第七皇子を親王に戻し皇太子として立てた。

 ・皇太子の母は藤原氏の出身でないにもかかわらず、光孝天皇のご希望を優先させた。あっぱれ忠臣というべきであろう。

 ・これが宇多天皇で、基経の忠義と皇位に報いるため、「関白」という地位を正式なものとして決められた。

 今も昔もそうですが、新帝が皇位を引き継がれるときは、三種の神器の引き継ぎがなされます。次の叙述は歴史的な文章かと思いますので、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に紹介いたします。

 「本年 ( 平成元年 ) 1月7日に、午前10時1分から皇居宮殿の「松の間」において、〈剣璽等 ( けんじとう ) 承継の儀〉が行われたと報道されている。璽とは三種の神器の一つ、〈八坂の曲玉 ( やさかのまがたま  ) 〉のことである。」

 「この〈神璽 ( しんじ ) を結ぶ〉ということが、皇位継承の儀をつかさどったという表現になる。それで頼山陽は、三人の天皇の即位実現に関与した基経の事績を、次の一行で言い切った。」

   十指 ( じゅっし ) 三たび結ぶ神璽 ( しんじ ) の綬 ( じゅ )  

 「基経が、自分の両手( 十指 ) で皇位継承を取り仕切ったことが目に見えるような、見事な表現である。」

 渡部氏は頼山陽を称賛しますが、私は説明を読み、なるほどそうかと理解するので精一杯です。さてそこで難題は、残る二行の紹介です。

 二行に書かれているのは、任和3年 ( 887 ) 年の11月から約1年続いた「阿衡 ( あこう ) の紛議」と言われる、皇室と藤原氏の間に生じた論争です。簡単に言いますと、基経の役職に関し宇多天皇が出された「詔勅」の官名について、基経が異を唱えたという事件です。

 ・これが宇多天皇で、基経の忠義と皇位に報いるため、「関白」という地位を正式なものとして決められた。

 渡部氏は宇多天皇と基経についてこのように説明していますが、「阿衡 ( あこう ) の紛議」を読みますと、二人の仲はうまくいっていなかったという解釈もできます。あるいは、基経に感謝されている宇多天皇が不用意に使われた官職名に、実務に精緻した基経がこだわったのか、それだけの話なのか。詳しい事情は書かれていません。

 現在の問題として考えますと、政府が何か新しいことをする時、既存の法律との齟齬がないかと役人たちに検討させます。特に憲法に関連することになりますと、内閣法制局に諮問し、閣議で何度も慎重な議論をします。時代が違うとはいえ、「阿衡 の紛議」も内容は似ています。古代でも現代でも、政治 ( まつりごと ) を進めるには、言葉の定義がいかに大事かという事例でもあります。

 たった二行なので十一闋を今回で終わるつもりでしたが、予定が狂いました。甘く考えていた自分を反省しながら、次回の準備をいたします。

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『日本史の真髄』 - 66 (藤原一族の繁栄 )

2023-04-14 20:28:37 | 徒然の記

   十一闋 髫齓天皇    ( ちょうしんのてんのう ) 藤原一族の繁栄      6行詩

 このようにして不比等の娘宮子 ( みやこ ) は聖武天皇の母となり、もう一人の娘光明子 ( こうみょうし ) は、聖武天皇の后となり孝謙天皇の母となりました。従って不比等の立場は、次のようになります。

 ・第42代文武天皇の外舅( がいきゅう)

 ・第45代聖武天皇の外舅・外祖父

 ・第46代孝謙天皇の外祖父 

 不比等が亡くなった後も、藤原氏との権力関係から、年上の異母兄がおられても年下の御子が皇太子になりました。こういう点を差して、氏は次のように断定します。

 「こんな奇妙な婚姻、外戚関係の成り立つ国があるだろうか。これ一つを見ても、日本には儒教制度の影響などまるでなかったことが分かる。」

 氏も私に似て、時々テーマを外れ横道へ入りこのような説明をしますので、本論へ戻ります。

 「文徳天皇は病弱であり、32才の時に急死に近い死をとげられた。文徳帝の死後惟仁親王が即位し、清和天皇になられたわけであるがこの時のお年はわずか9才である。」

 この状況を読んだ頼山陽の詩の「書き下し文」が、次の六行です。

 〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 六行詩

   髫齓 ( ちょうしん ) の天皇は 古 ( いにしえ ) には未だ有らず

   扆 ( い ) を負うて立つは 是れ元舅 ( げんきゅう  ) 

   父は王鳳 ( おうほう ) の如く 子は霍光 ( かくこう ) 

   十指 ( じゅっし ) 三たび結ぶ神璽 ( しんじ ) の綬 ( じゅ )      

   当時誰か解せむ明主 ( めいしゅ ) の問い

   太政大臣職有りや否やと

 徳岡氏の「大意」も紹介されていますが、渡部氏が逐条解説をしていますので、今回は「大意」を省略します。

 「最初の二行の意味は、幼児の髪型をして、ようやく乳歯から永久歯に生え変わる年頃の幼帝は、古代には無かった。玉座の背後にあるついたてを背にし、廷臣に望んでいる実力者は、この幼帝清和の母方の祖父藤原良房であるということ。」

 「三行目はシナの故事である。王鳳は前漢の元帝の王皇后の弟である。元帝は多病であり、その子成帝の世には、帝の母方の叔父の王一族、特に王鳳は大司馬、大将軍となって権力を得、王氏の一族が朝廷に満ちていたという。」

 多病な元帝を文徳天皇に例え、王皇后を藤原順子に当ててみると、王鳳は藤原良房になるという説明です。良房は事実上の摂政になりますが、皇太子でない者が摂政になったのは良房が初めてだったそうです。良房以前にいた三人の摂政とは、氏の説明では次の緑色で表示した人物です。

  1. 夫である仲哀天皇の死後政治を摂った、神功皇后

  2. 推古天皇 ( 女帝 ) の時の聖徳太子 

  3. 斉明天皇 ( 女帝 ) の時の中大兄皇子 ( 後の天智天皇 )

  4.   天武天皇の時の草壁皇子 ( くさかべのおうじ )

 「霍光については、次のように説明しています。

 「雀光は前漢の昭帝に仕えた名臣である。武帝が亡くなった時幼帝だった昭帝を、雀光がよく補佐して国内を平穏に保った。昭帝は在位13年子供を作らずして死んだので、武帝の曾孫を迎え宣帝とした。」

 「当時は、〈 昭・宣の中興〉と言われるほど良い時代だった。この雀光になぞらえられたのが、良房の養子である基経である。良房は、甥をもらって跡継ぎにしたことになる。」

 初めの3行が終わりましたりで、次回は残りを紹介します。

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『日本史の真髄』 - 65 ( 藤原不比等の慎み )

2023-04-14 14:43:42 | 徒然の記

  十一闋 髫齓天皇    ( ちょうしんのてんのう ) 藤原一族の繁栄      6行詩

 十一闋(けつ)の副題は「藤原一族の繁栄」です。驕る平家は久しからずと『平家物語』で語られましたが、平家の時代は平安末期のわずか25年間でした。藤原一族は奈良時代以降、1200年間廷臣として勢力の中心にいたと言われます。大東亜戦争時の近衛文麿首相も藤原一族でしたから、誇張した話ではありません。この事実について、渡部氏が興味深い説明をしてくれます。

 「藤原氏はどんなに勢力が強大になっても、決して皇位につこうとしなかった世界でも例の少ない豪族である。」

 諸外国の歴史を読めば、勢力が強大となった貴族や豪族は国の頂点を目指し、皇帝の座や王位を武力で簒奪します。しかし藤原氏はそれをせず、皇位をうかがわない慎みを持っていたと氏が言います。

 「この慎みがどこから来るかと言えば、〈 系図 〉からきていたと想像したい。」

 私見と断った上で、以下の理由を述べています。分かりやすくするため、文章体でなく項目に分けて列挙します。

 ・藤原氏は元来中臣氏であり、中臣氏の神代 ( かみよ ) における先祖は「天児屋根尊 ( あめのこやねのみこと ) 」である。

 ・この神様は、天照大御神が天岩宿 ( あまのいわやど ) の中にお籠りになった時、 祝詞 ( のりと ) を唱え、大御神が再び出て来られるように祈った。

 ・つまり、高天原 ( たかまがはら ) の神様を代表して神事を行い、それに成功した神様である。

 ・さらに言えば、皇孫が日本に降臨する折にも随行した、五部神の第一等の地位にあった。

 興味深い説明は、次の叙述です。

 「今ではこういう話は〈 神話 〉に過ぎないと片づけるが、上代の貴族は自分たちが貴族であることの根拠を、記紀の神話に置いていたことを忘れてはならない。」

 「不比等はいかに権力があっても、このことを忘れていなかった。」

 つまり先祖は神代の時代から、天照大神に仕える神であり、天孫降臨の際も皇孫である瓊瓊杵尊 ( ににぎのみこと ) に仕えて日本へ降ってきた神でした。この先祖のことを、中臣氏から藤原氏になっても忘れていなかったと氏は説明します。

 「藤原氏は皇位に仕える氏族であって、決して皇位をうかがってはいけないと言う節度が、常に働いていたようである。その節度、あるいは慎みの故に、藤原氏の子孫は公卿 (くげ ) として昭和まで残ったのである。」

 どんなに勢力を誇る豪族や貴族が現れても、日本の頂点に位置する皇位を奪わないと言うのは、他国に見られない日本の伝統です。のちに現れる武家にしても、富・権力・武力の面で天皇を越えましたが、皇位を奪いませんでした。頼朝、信長、秀吉、家康という天下人でさえ、天皇には一段下がりました。どうしてそうなるのか、長年の疑問でしたが、謎が解けた気が致します。

 「だが強大な藤原氏には、皇位に登ることなくして皇位に近づく方法があった。それは娘を皇妃とすることである。そこに子供が生まれて皇位に就けば、藤原氏当主は天皇の外舅 ( がいきゅう・前天皇の妻の父  ) になることができる。」

 「藤原氏の慎みは、この一線を越えなかったことにあった。そしてこの伝統を打ち立てたのが、不比等なのである。」

 つまり皇位を簒奪しないという〈慎み〉の原点は、記紀の神話にあり、「名を捨て実を取る」という俗世の利権をについては、外舅という仕組みを不比等が作り上げたと言います。藤原一族の繁栄が、ここから始まったというのが渡部氏の解説です。

 次回は、髫齓天皇 ( ちょうしんのてんのう ) の頼山陽の漢詩を紹介いたします。

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『日本史の真髄』 - 64 ( 三人の女性天皇 )

2023-04-13 15:33:51 | 徒然の記

 2月21日に中断して以来、52日ぶりに渡部氏の書評へ戻ってきました。本日は150ページ、「十一闋 ( けつ ) 髫齓天皇   ( ちょうしんのてんのう  )」です。本の紹介を始めたのが昨年11月の6日でしたから、まるまる5ヶ月が経過していますが、書評の中断が何度もあり、まだ半分のところです。珍しい経験なので、中断の理由となったブログ名を4件書き止めました。ところがまた、3件のブログ中断が生じましたので、記念のため追加名を書き留めます。息子たちや「ねこ庭」を訪問される方々には、物好きと笑われそうですが、昨年末から今年にかけて、大きな出来ごとが世界に生じている証明になります。

 一冊の本さえ、じっくりと落ち着いて読めなくする出来ごとが、まるで大波のように学びの庭である「ねこ庭」を翻弄したということです。

  1.  神島二郎教授による「知の遊び」の検討  6回シリーズ

  2.  村上誠一郎議員の間違った「保守本流」意識の検討 12回シリーズ

  3.  マスコミによる「統一教会」攻撃記事の偏向部分の検討 18回シリーズ

  4.  NHKのドキュメント『緑なき島』の捏造の検討        31回シリーズ

  5.  中国人女性の動画『私が島を買った』の検討        19回シリーズ

  6.  国会質疑『小西文書から見える自由民主党の姿』の検討     7回シリーズ

  7.  小西文書関連『学びの庭での生きた勉強』の検討       13回シリーズ

 陸続きの大陸国と違い、周囲を海に囲まれた日本は外敵の侵入が困難なため、比較的平和な国として存続してきましたが、それでも大陸の中国や朝鮮と無縁でなかったことが、『日本史の真髄』に語られています。このことを噛みしめながら、以下の順番で紹介いたします。青字で表示した項目が本日からのテーマです。

  十一闋 髫齓天皇    ( ちょうしんのてんのう  ) 藤原一族の繁栄            6行詩

  十二闋 賢聖障子    ( けんじょうのしょうじ  ) 菅原道真の出世と左遷         8行詩

  十三闋 脱御衣      ( ぎょいをだっす  )  醍醐天皇のご親政                       10行詩

 難しい言葉が出てきますが、「髫齓( ちょうしん) 」とは簡単に言いますと、「幼児」の意味です。頼山陽の「漢詩」と徳岡久生氏の「大意」紹介の前に、藤原一族に関する渡部氏の説明を先行します。

 「第五十代桓武天皇をもって始まる平安時代は、藤原氏の時代である。いうまでもなく藤原氏は、天智天皇を助けて大化の改新を行なった中臣鎌足以来、政治の中心に位置してきた。」

 「特に鎌足の子不比等 ( ふひと  ) は第四十代天武天皇 ( 大海人皇子・おおあまのおうじ  ) から第四十四代元正天皇に至るまで、五人の天皇に仕えた。」

 「このうち三人の帝、持統、元明、元正は女帝でいらっしゃったから、不比等の勢力が大きかったことは容易に想像できる。特に注目すべきことは、不比等と朝廷の縁組関係である。

 長い中断の後ですから、今までのおさらいとして、三人の女帝について頭の整理をします。 

  ・持統天皇・・・天武天皇の皇后

  ・元明天皇・・・文武天皇の母

  ・元正天皇・・・文武天皇の皇后

 話が横道へそれますが、三人の天皇は「女性天皇」ですが、今話題になっている「女系天皇」ではありません。御三方とも、亡くなられた天皇の母と皇后であり、お子様をお産みになる立場におられません。氏の著書のテーマではありませんが、父系を維持するため知恵を絞っている事実を知ることも大切です。「愛子様を天皇に」などと簡単に言う人は、ご先祖さまの苦労を知らない愚かな人間と知る必要があります。

 次回は権力者藤原氏に関する、氏の説明を紹介いたします。

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