朱雀天皇に関する、氏の説明を紹介します。
「朱雀天皇は、醍醐天皇の第十一子で、母は皇后になった藤原基経の娘穏子 ( おだいこ ) であった。29才で亡くなられ、在位期間は16年である。母后に溺愛され、病弱な方だったようである。失神するような病気があって、即位後の大事な大嘗祭が中止になったと言う記録がある。」
水戸藩編纂の『大日本史』には、朱雀天皇の治世について数十ページに及ぶ詳細な記録が書かれていますが、天変地異や事件などが中心で、天皇ご自身の人柄や政治についてはほとんど触れられていないそうです。
「ただ最後の数行のところに、天皇の逸話が一つだけあげてあり、それは次のようにものだった。」
文章でなく、項目で紹介します。
・朱雀天皇の政治は、ひたすら寛仁であることを尚(とおと) ばれた
・天皇のやり方は、寛仁すぎるのではないかという意見が出ていた
・太政大臣・摂政・関白である藤原忠平が、それとなく申し上げると、天皇が答えられた
・私は先帝から、政治は琴の糸を張るようなものだというお話を聞いた
・太い弦を張りすぎると、細い弦は切れてしまう
・もし上にいる私が厳しすぎるのなら、下々の者は我慢できないほどつらいことになるであろう
この話を紹介したのち、氏が頼山陽の詩を解説します。
「頼山陽の最初の二行は、ほとんどこの『古事記談』そのままである。」
大弦急 ( だいげんきふ ) なれば 小弦絶つ
「琴の弦を張ると同じように、君主が人民を統治するにも、自ずからやり方があるものである。すなわち、」
君王下 ( しも ) を馭 ( ぎょ ) するに自ずから訣 ( けつ ) ありと
「ところが政治は琴の糸を張るように、強くしたり緩くしたり自由にならないものだ。下手に緩めると、大弦も小弦もみんな節度を失い調子が狂ってしまう。これが次の二行である。」
誰か知らむ張緩 ( ちょうし ) 自由ならざるを
小弦大弦皆節を失ひ
「そうすると琴の調子がおかしくなるだけでなく、琴の本体すら、その一角が破れて裂けそうになってしまうのである。それが最後の一行である。
裂けむと欲す
前に紹介した氏の解説が、この部分でつながります。
「ここで頼山陽が述べていることは、醍醐天皇の後、再び藤原氏が摂政関白・太政大臣になったことである。基経の子忠平がそれで、忠平の妹の穏子 ( おだいこ ) が朱雀帝の母である。」
「宮中は醍醐帝の時代から一転して、藤原基経の時代のような、藤原氏の時代になってしまった。」
大弦は藤原忠平であり、小弦はそれ以外の者と頼山陽は考え、強すぎる大弦のため、小弦も大弦も節を失した状況にあると言っているのだそうです。
「琴自体、つまり国自体を危うくするような事件が、地方に起こった。関東に平将門が兵を起こし、瀬戸内海で藤原純友が海賊となった。ともに、京都の政府を倒そうと言うものである。」
「これが承平・天慶の乱であり、まさに、琴の一角が破れて裂けんとする状況ではないか。このような状況になったのも、藤原一族が、政権を一手に握ったからである。というのが頼山陽の考え方で、彼は『神皇正統記』や『源平盛衰記』の伝説的話を用いて、第十四、十五闕 ( けつ ) を作ったのである。」
頼山陽は、仁慈の明君である天皇が中心におられる政治を「天皇の御親政」と呼んで、これを、日本での最高の政治体制と考え、彼の理想とする仁慈の明君が仁徳天皇、醍醐天皇です。皇位をうかがわないとしても天皇を飾り物にする、藤原氏のような貴族が権力を握り、ほしいままの政治をするのは間違っているという意見の持ち主です。
「日本の正しいあるべき政治体制は、御親政である。」と言うのが揺るがない信念で、彼の著書『日本外史』、『日本政記』、『日本楽府』はこれに基づいて書かれていることが分かりました。頼山陽の思想は、吉田松陰の「松下村塾」を通じて勤皇の志士と言われた武士たちに伝わり、「王政復古」の掛け声と共に「明治維新」の達成につながります。
頼山陽の漢詩を通じ、渡部氏が読者である私たちに伝えたいのは、そんな彼の思想ではないかと思えてきました。最後まで読めば分かるはずですから、結論を急がず、次回は〈 十五闕 ( けつ ) 検非違 〉の解説を紹介します。