せっかく真龍が出て、雨雲を起こして雨を降らせようとした時、つまり道真という大才が政治の革新をしようとした時、その龍は池に追いやられて、再びでくの坊みたいな者たちだけの宮廷になってしまったと、渡部氏が語ります。
「そのことを頼山陽は、最後の三行で次のようにまとめている。」
雲を呼び雨を醸 ( かも ) して雨未だ起こらず
龍を逐 ( お ) いて湫 ( しゅう ) に入れ 龍窮死す
画龍 ( がりょう ) 舊 ( きゅう ) に依りて天子に侍す
氏の意訳を紹介します。
龍が雲を呼び雨を醸して、沛然 ( はいぜん ) たる雨が降るような大革新が起こるかと思われたのに、雨はついに降らないでしまった
道真の如き大才を僻地の小官吏に落としたのは、龍を池に追い込んだようなもので、龍は窮死してしまった
道真なき後の宮廷は、絵に描いた龍のような精神のない平凡な連中が、天子の側に仕えているだけである ( 藤原氏の天下になった )
しかし道真の死後次々と異変が起こったため、池で死んだ龍が祟りはじめたと、当時の人は思ったそうです。
・まもなく、時平が若くして死んだ
・その前年には、道真の左遷に力を発揮した参議・藤原菅根 ( すがね ) が死んだ
・三年続きの疫病と旱魃が起こった
・皇太子保明 ( やすあき ) 親王が亡くなった
醍醐天皇も道真の怨霊の怒りだと思い、道真を右大臣の位に戻し正二位に昇進させ、年号を改元して「延長」とされました。
・しかし引き続いて新しい皇太子・慶頼 ( よしより ) 親王が亡くなった
・雨乞いの相談中に清涼殿の上に突如黒雲が現れ、落雷で大納言・藤原清貫 ( きよつら ) が即死し、右中弁・平希世 ( たいらのまれよ ) が顔にやけどを負った
・天皇が発病され、退位なさったが、まもなく亡くなられた
「当時の人たちはこれを道真の宿忿 ( つもった怒り ) として怖れ、道真にはさらに正一位、左大臣の位が贈られた。」
「かくして天満宮信仰が起こり、今日に至っている。誠に道真は、真龍と称すべき人ではあるまいか。」
結びの解説で氏が述べていますが、識見人格の高い道真が、私憤のまま多くの人を苦しめたことを是とする意見に違和感を覚えます。立派な人物が恨みのままに異変を起こすのは、誉めた話になりません。むしろここでは、当時の人々が信じていた御霊 ( ごりょう ) 信仰の説明をする方が良かった気がします。ネットで調べますと、次のような説明がありました。
〈 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは 〉
人々を脅かすような天災や疫病の発生を、怨みを持って死んだり非業の死を遂げた人間の「怨霊」のしわざと見なして畏怖し、これを鎮めて「御霊 ( かみ ) 」として祀ることにより祟りを免れ、平穏と繁栄を実現しようとする日本の信仰のことである。
田中英道教授の説明では、御霊信仰は神道の一部だったと聞いています。八百万の神を信じる神道には
・自然信仰 ・・太陽を中心とする自然への信仰
・祖霊信仰 ・・ご先祖さまへの感謝の念からくる信仰
・御霊信仰 ・・偉人、義人、非業の死を遂げた人などを神として念ずる信仰
私の記憶が正しいとすれば、この三つだったと思います。御霊信仰の中で偉人として神社に祀られている例を挙げますと、明治天皇 ( 明治神宮 ) 、加藤清正 ( 清正公神社 )、乃木希典 ( 乃木神社 ) などがあり、義人の例は佐倉宗五郎の宗吾神社があります。
非業の死を遂げられた崇徳天皇、菅原道真、平将門は「日本三大怨霊」と呼ばれ神社や慰霊碑が建てられています。
崇徳天皇・・安井金刀比羅宮 ( 京都市東山 )、白峰寺の白峰塚 ( 香川県 )
菅原道真・・北野天満宮 ( 京都市上京区 )、太宰府天満宮 (福岡県太宰府市 )
平将門 ・・神田明神 ( 千代田区外神田 )、将門塚 (首塚) ( 千代田区大手町 )
これらの人々は最初は恐れられていましたが、時が経るにつれ庶民が土地の守り神として信仰するようになります。特に道真は学問の神様として崇められ、天神さまと敬われ、全国に神社が建てられています。
邪悪な怨霊をいつまでも恐れるのでなく、いつの間にか信仰の対象とし拝んでしまうのが、日本の神道であり、日本人の長所でないかと私は思います。悲運の道真に同情するあまり、怨霊になっても褒めるのでなく、むしろ氏はこういう点を解説すれば良かったのでないかと思います。やはり日本は八百万の神々の住む国であり、「和をもって尊しとなす」国ではないのでしょうか。
これで、心を平にして次回の十三闋に進めます。
十三闋 脱御衣 ( ぎょいをだっす ) 醍醐天皇のご親政 10行詩