本日は、渡部氏の行ごとの解説を紹介します。まず、一行目です。
紫宸 ( ししん ) の障子 賢聖を列す
徳岡氏の大意では、「紫宸殿の障子には 賢聖の姿がずらり」ですが、渡部氏は紫宸殿の説明から入ります。一般の家でも、和室には必ず庭に面した障子がありますが、紫宸殿の障子は規模の大きさからして違います。
「紫宸殿は平安時代の内裏 ( だいり ) のほぼ中央にあって、即位式を始め、宮中の重要な儀式が行われる建物である。正殿 ( せいでん )とか寝殿、あるいは南殿 ( なんでん )とも呼ばれた。」
古い書を読めば紫宸殿という言葉が出てきますので、何となく知っていましたが、それでは頼山陽の詩が正しく理解できません。息子たちが根気よく読んでくれるかどうか、心配ですが、氏の説明をそのまま紹介します。紫宸殿の真ん中で、ほとんど建物全体を占める母屋 ( おもや ) があり、そこにこの障子があります。
「天皇が儀式のためここの御椅子に着座される時は、南面される。天皇の背後である北側には、儀式の間九間に及ぶ障子を立てる。」
私は面倒なのでしませんが、一間は約1.8メートルですから、数字の得意な人は計算すれば障子の大きさが分かります。
「九枚の障子の中央の一枚には、獅子・狛犬 ( こまいぬ ) の図と負文亀 ( ふみおえるかめ ) の図が画か書かれている。」
「その左右4枚の障子つまり、東と西の障子には16人ずつ、合計32人の殷周以来の古代シナの聖賢や、名臣の全身像が画いてある。」
賢臣や聖人の画像が画れていることから、この障子が「賢聖障子 ( けんじょうのしょうじ ) 」と呼ばれるのだそうです。漢の武帝が功績のあった者の像を画かせ、麒麟閣に掲げた故事にならい、宇多天皇が絵師に画かせられたと言います。
「ここに画かれた賢聖たちが、ことごとく古代シナ人というのも、時代をよく示すものと言えよう。なにしろ日本の九世紀は漢文学の興隆期で、漢詩の勅撰集が何度も出されていたのである。」
「勅撰の和歌集 (『古今集』) は、十世紀初頭になって初めて出ているのだから、この時代の漢文熱が分かろうというものである。」
尖閣の領海を犯し沖縄を狙っている習近平氏の中国と違い、平安時代の中国は大らかな日本の先生でしたから、日本も国をあげて中国の文化を取り入れていました。多くの困難を冒してでも、国家事業として遣唐使を送っていた時代です。
「賢聖の障子を作らせた宇多天皇が、いかに良い補佐の臣を求めておられたかを示す具体的な行為として、頼山陽がこれを持ち出した。その博識を詩材として用いる点において、山陽のアイディアはいつもながら秀抜である。」
己の偏狭な意思を通し、詔勅を書き換えさせた基経に信を失われた天皇が、忠臣を熱望されている様子を、山陽の詩を借りて渡部氏が説明しているという気がします。詩の紹介というより、渡部氏自身の気持ちを述べているのではないでしょうか。
「宇多天皇はその母が藤原氏の出でなかったが、基経が死の床にあった光孝天皇の意を汲み皇位につけるよう取りはからった。それを徳とした宇多天皇は、基経を日本最初の関白に任じた。」
「そこまでは、君臣の間がまことにうるわしかったのであるが、基経は次第に専横となり、「阿衡 ( あこう ) の紛議」が起こり、藤原氏の権勢で詔勅を変更しうることを示した。」
宇多天皇が漢の武帝にならわれ、紫宸殿の障子に賢聖の像を画かせたられたのは、忠臣を熱望された現れであると氏は解釈しています。そして天皇のご意志が明確になるのは、寛平三年 ( 891 ) 年に基経が死去した後になります。
皇位をうかがわない藤原氏の慎みも、永く権力の座にいると緩みが生じ、「権力は腐敗する」という言葉の重みを教えられます。今回はここでスペースが無くなりましたので、基経の専横ぶりについては次回で紹介します。