平成7年の「村山談話」が、いかに国内で議論を呼ぶものであったかは、解説する情報が多数あるところから推察できます。下記に紹介するのはその中の一つですが、うっかり情報源を書き忘れ、後で探しましたが見つかりませんでした。ということで、そのまま紹介します。
「慰安婦問題が日韓間の外交問題となってからは、政府の歴史問題談話は困難なものになっていった。戦後一貫して表明してきた反省と謝罪は、変わらず表明し続けなければならないものの、それ以上のこと、つまりいったん決着がついた事項の蒸し返しや、存在しなかった事柄を公式に認めることは、政府としては不可能だったからである。」
情報のほとんどが「村山談話」を好意的に書いていますが、この説明は意外と冷静に見ています。
「国際環境は、逆に厳しくなっていった。一つは、ヨーロッパにおいて再合同を果たしたドイツが、積み残しになっていた旧ソ連圏との案件の清算を進め、西側連合国とも最終的な戦後和解に入っていたからである。」
「日本を取り巻く環境は、とてもそのようなものではなかったが、地域事情を関知しない国際社会からは、出遅れとみなされた。また、冷戦の終了により、同盟漂流と指摘されるほど、これまで国際社会での保護者だったアメリカとの関係が疎遠になっていた。」
この辺りの説明が具体的に何を指しているのか、私には分かりません。「国際社会が言う、日本の出遅れ」とは何なのか、「疎遠になったアメリカとの関係」とは何を指すのか、思い当たりません。
「さらに中国の動向である。89 ( 平成元年 ) 年の天安門事件以来、統治力に不安を抱えていた中国共産党は、政権への求心力を高めるねらいで、94( 平成6年 ) 年から反日教育を始めていた。このような環境の中で、95 ( 平成7 ) 年、戦後50周年を迎えることになったのである。」
「熱烈歓迎」の鄧小平氏から、「歴史認識」の江沢民氏時代になりますと、たしかに中国は手のひらを返した反日になりました。
「自民、社会、さきがけ連合政権は、95 ( 平成7 ) 年6月、『歴史を教訓に平和への意識を新たにする決議』を衆議院に提出、賛成多数で採択されるが、自民党議員に欠席者が出るなど、戦争責任問題への言及は、まだ保守派の中にわだかまりがある状態だった。」
このあたりまでくると、説明が反日左翼調になってきます。戦争責任問題について、保守派が認めなくて当然ですし、一部の議員しかいなかったと言う書き方が気に入りません。
「そこで、村山首相は、改めて8月15日に閣議決定に基づいた声明を発表した。」
ということは「村山談話」のきっかけは、『歴史を教訓に平和への意識を新たにする決議』だったと言うことになります。村山内閣は俗に「自社さ連合政府」と呼ばれていましたが、水と油の自民党と社会党の連合政権でしたから、「大野合政権」とも揶揄されていました。
また話がそれますが、日本の政界を分裂させ、政党の劣化を招く原因を作ったのが小沢一郎氏でした。村山内閣の直前は細川・羽田内閣でしたが、両内閣で意思決定をしていたのが有名な「一・一ライン」でした。公明党の市川雄一氏と小沢一郎氏が、根回しなしのトップダウンんで強引に決めていくため、多くの議員が反発し、離党し、新党をあちこちで作ったからです。
「政党壊し屋」の小沢氏を排除するには、自民党と社会党が連立する以外の選択肢が無かったと聞きます。「辣腕小沢」と呼ばれ、若くして自民党幹事長になった氏は、可愛がってくれた田中角栄氏を裏切り金丸信氏を見捨て、評判が良くありません。現在もおかしな名前の党を作ったり、壊したり、国民のために役立つことは何もしていません。こんな氏の側近と言われた玉城デニー氏を、なぜ沖縄県民は知事にするのかと、疑問を持つ理由がここにあります。
大部話がそれましたので、本題へ戻り情報の紹介を続けます。
「『談話』の要点は、日本の国策の誤りによって戦争になった責任と、植民地支配と侵略によってアジア諸国に損害と苦痛を与えたことをそれぞれ認め、反省し謝罪する、ということに尽きる。」
「特に植民地支配、侵略については、歴史教科書問題以降、日本の姿勢が問われていたが、これについて初めて政府が、公式に認め謝罪した例となった。政治家でも一部には過去の戦争に対する肯定論が根強かったが、政府がその立場に立たないことを、明確にしたのである。」
説明はまだありますが、息子たちにも「ねこ庭」を訪問される方々にも、わざわざ紹介する必要を感じない内容なのでここで止め、「村山談話」の全文を紹介します。
〈 1995 ( 平成7 ) 年8月15日 「村山談話」 〉
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。
ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。
政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
(出所・外務省ホームページ)
次回は、「村山談話」を受けて以降の総理が、どのような答弁をしたかに関する情報を紹介します。