ねこ庭の独り言

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『解放朝鮮の歴史・上巻』- 3 ( 「カイロ宣言」 について)

2018-02-10 18:00:16 | 徒然の記

 コンデ氏の説明によれば、本書の目的の一つは、共産主義への脅威を感じ始めたアメリカが「カイロ宣言」に反し、連合国軍内でのソ連の影響を阻止しようと、李承晩政権を作り上げた暴挙を糾弾することにあります。

 本論に入る前に、「カイロ宣言」について調べてみました。

  ・ 1943( 昭和18 ) 年11月22日に、エジプトのカイロで行われた会談。

 ・  ルーズベルト、チャーチル、蒋介石三人の首脳会談の結果を公表したもの。

 ・  宣言には日時や署名がなく公文書も存在せず、宣言として扱うことが適切かについて議論もある。

 ・ 議題は、「日本の降伏」、「満洲・台湾・膨湖諸島の・中国への返還」、「朝鮮の自由と独立」など。

 ・ その後連合国の基本方針となり、「ポツダム宣言」に継承されたと言われる。

 この時のルーズベルトの狙いは、抗日戦を断念し、連合国の戦線から脱落する恐れがあった中国を、米英ソの三巨頭に加え国連常任理事国入りをさせ、士気を高めさせることにあったと言われています。

  『チャーチル回顧録』には、中国戦線の実態を把握していなかったルーズベルトと異なり、実情を知悉していた彼は、蒋介石の参加に反対だったと書いてあるそうです。

 カイロ宣言の翌年、日本は蒋介石軍の対日戦線をほぼ全滅させています。敗戦国となる蒋介石を連合国に加えたくなかったチャーチルですが、なぜかルーズベルトにはこの事実を伝えませんでした。一方ルーズベルトは、厭戦気分になりつつある蒋介石が、単独で日本と停戦し、講和をを結ぶことを危惧していました。

 結局蒋介石の晴れ舞台は「カイロ会談」で終わりとなり、その後、連合国の重要会議である「テヘラン会談」「ヤルタ会談」「ポツダム会談」には、招かれていません。

  チャーチルが事実をルーズベルトに語り、ルーズべルトが蒋介石を参加させていなかったら、歴史は大きく変わっていました。敗北寸前だった蒋介石は、実際に単独で日本との講和を模索していました。歴史にイフはありませんが、蒋介石との講和が実現していたら、毛沢東の「中華人民共和国」は、誕生していなかった可能性があります。

 歴史にもしもはありません ので、本来のテーマへ戻ります。コンデ氏が、「カイロ宣言」に反し、アメリカがしゃにむに李承晩政権を作ったと憤っているのには、少し説明が要ります。

 「朝鮮の自由と独立」が議題にされたカイロ会談には、スターリンが参加していませんでした。日本が無条件降伏した後のことは、ソ連を含む連合国で処理するというのが建前でしたから、ルーズべルトはテヘラン会談時に、「カイロ宣言」をスターリンに説明し、同意を取りつけました。

 これ以後、「朝鮮を独立させ、自由な国にする。」という政策が、米ソの同意した基本方針となりました。しかし問題はこれからでした。「朝鮮を独立させ、自由な国にする。」までは、ソ連を含む連合国の共同作業となり、ソ連の同意なしに事態が動きません。

 ソ連軍が朝鮮北部に進駐したのは、米軍が南部朝鮮に軍を進めるより一ヶ月前でした。ソ連は金日成を使い、社会主義政権の樹立を進めていましたので、静観していると朝鮮は社会主義国家になってしまいます。

 アメリカはマッカーサー元帥に指示し、元帥は現地のホッジ将軍に司令をだし、保守政治家の李承晩を担ぎ上げ、統一国家の首班とすべく動き出しました。

 コンデ氏は、アメリカだけを攻撃しますが、ソ連も「カイロ宣言」を無視し金日成の政権基盤を北部で固めていたのですから、どちらにも同じです。コンデ氏のように、敵対する相手側だけに難癖をつけるのが、左翼主義者の常套手段です。氏の意見だけを読んでいますと、事実を知らない読者は騙されます。

 ここまで結論づけると、本の紹介が終わったことになりますが、まだ具体的な事実を述べていません。このままでは息子たちも、訪問された方々も納得がいかないと思いますので、次回は具体的事実を述べます。

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