ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

総理と新聞

2011-04-15 22:06:13 | 徒然の記

 この頃はどの新聞を見ても、菅総理の批判記事で賑やかだ。

 新聞やテレビしか情報源が無いので、酷評ばかり読まされていると、そういう気持ちになってくるが、実際はどうなのだろう。振り返えれば鳩山さんの時も、麻生総理の時も、新聞はさんざんこき下ろしていた。無能と言うだけでなく、人間的にも最低のように報道されたのは、菅総理の他に鳩山、麻生、森氏というところだったと記憶している。

 しかし、こうした煽動記事を繰り返す方にだって、問題があるのではなかろうか。

 新聞が狡いのは、自分の意見として述べるのでなく、厳しい批判をする学者や評論家のの意見を、大きく、頻繁に掲載すると言う、どちらかと言えば、卑怯な方法でやっているところだ。私が新聞を素直に信じないのは、こうした報道姿勢にある。新聞各社の社長が示し合わせ、反政府の大合唱記事を、三ヶ月も続けさせれば、いつの間にか、政府にソッポを向く世論が醸し出され、たいていの内閣がもたなくなる。

 実際に、こうした露骨な申し合わせはやれないのだろうが、あうんの呼吸で記事が作られると言うことは、あるような気がする。

 だからマスコミは、内閣の命運を握っていると自惚れ、傲慢になり、政治家に敬遠されたり、重宝がられたりする。小泉首相のように、マスコミを操れる政治家は少なく、奇人などと言われながら、長期政権を維持した彼は、不思議な宰相だったとしか言いようが無い。

 どうやら菅・鳩山・森といった正直一本気の、いわば単細胞の総理は、徹底的に攻撃の的になるようだ。だが新聞も劣らず単細胞のようで、記者を粗略にする総理には、徹底して意趣返しをしている。

 と、ここまで分かっていながら、やはり新聞の記事に左右される、情けない自分がいる。大宰相の一人と言える佐藤総理も、最後の記者会見では露骨に新聞を嫌悪し、テレビは会見場にいて良いが、新聞記者は退場しろと、不機嫌を隠さなかった。今ではテレビも似たようなものだが、当時は、新聞ほど露骨な総理批判をせず、客観報道というスタイルを保っていたからだろう。

 考えられる理由は二つである。

 新聞が酷すぎるから、テレビが目立たないというのがその一つ。今ひとつは活字と映像の違いだ。たとえ記事に署名があっても、活字では記者の顔が見えないから、記者は大胆になれるが、顔が晒されるテレビでは、誰かに顔を覚えられ、ぶん殴られでもしたらと心配するから、露骨な物言いを控えたくなるのではなかろうか。

 勿論こんなことは、私の勝手な想像に過ぎないので、事実は分からない。もしかすると新聞人は、世間で言われるとおり、背広を着たヤクザなのかもしれず、テレビ人の方は、紳士なのかも知れない。しかも、こうしたマスコミが社会には必要で、大事なの存在であるということも、事実だ。

 こき下ろしつつ誉めているようで、いい加減に聞こえるかもしれないが、受け手である自分たちが、報道を取捨選択するしかないのだ。民主主義を標榜するからには、気ままな意見を掲げる新聞の存在を、許容しなければならない。

 だが、新聞のこうした姿勢が続けば、この先どのような総理が出現しても、誉められる気配は無く、いったい日本には、チャンとした総理大臣はいないのかと、思わされ続けることになるのもかもしれない。

 願わくば新聞諸紙が、戦前のように権力に迎合すること無く、屈すること無く、中立の批判勢力であり続けてもらいたいものだ。今でこそ、軍国主義や戦争を否定しているが、国民を戦争へと駆り立たせた張本人は、新聞だったのであり、私の不信感はここから出発している。

 時代がどう動いても、新聞が凛とした姿勢を持ち続けていれば、敬意を表することになるのだが、どうやら私が生きている間に、そういう機会は来ない気がする。今の新聞は、凛としているのでなく、騒げば新聞が売れるので、金儲けのため、政治家を叩いているだけだ。

 総理さえ恐れない新聞には、私が不信を語ろうと、批判しようと、痛くも痒くもないと分かっているが、ブログの名前が『気まぐれ手帳』なので、最後まで気まぐれを言って、終わることとしよう。

コメント
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