ねこ庭の独り言

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いじめと不登校 - 4 ( 門脇厚司・清水賢二氏 )

2021-03-29 09:21:29 | 徒然の記

 門脇氏は先般名前だけあげて、意見を紹介していませんでしたので、今回取り上げます。理由は氏の主張が、典型的な反日左翼学者のスタイルだからです。現状を批判攻撃しますが、対案は持っていない、持っていたとしても空疎な観念論でしかなく、具体性がない・・・と、こういうものです。

  3. 門脇厚司氏 昭和15年生 筑波大教授  85ページ

 「ありていにいえば、近代学校は、教育を受ける者の人生を豊かにするため、」「教育を行う場所でなく、教育を強制する側の利益や都合のため、」「教育を行う場所として作られている。」

 「さらに言えば、国家の力の大元になる産業の発展に役立つ人材を、」「探し選抜するために教育の機会を与え、」「競争試験をする場所と言っても良い。」「そうであるにならば、学校が整備され、」「教育の仕方が洗練されればされるほど、」「子供たちの違和感が募るのは、当然と言える。」

 筑波大学は、明治5年に日本で最初に設立された師範学校で、かっては東京師範学校と呼ばれていました。師範学校とは、教員を養成する学校を意味しますから、筑波大学は元々は教員を育てる大学でした。今でこそ卒業生の進路は、教員より一般企業へ進む者が多数を占めていますが、私の記憶ではいまだに「先生のための大学」です。

 文部省の指定するスーパー・グローバル大学の一つで、世間の評価では一流大学ですから、その大学の教授である門脇氏が、学校そのものを否定する意見を堂々と述べているところに、違和感を感じます。氏の教えを受けた学生たちが教師になり、学者になり、公務員になれば、日本の教育がますます崩壊します。

 氏の主張そのものは何という特徴もありませんが、、こういう主張が大学で教えられているところに、危機感を抱きます。「獅子身中の虫」である氏に育てられた学生は、日本各地へ拡散し、行った先で「獅子身中の虫」となります。一流大学の卒業生ですから、エリートとしての扱いを受けます。

  浜の真砂は尽きるとも、世に反日( 左翼 )の種は尽きまじ

 まさに私が、石川五右衛門から盗作して完成した辞世の歌、そのままの現実です。

 「父親たちが、会社人間から地域人間に転身する決意を固める必要がある。」「日本の男性がこのような決意をした時、会社大国日本の体質に変化が生じ、」「それにつれ学校もまた、子供たちを人間として育める方向へと、」「大きくそのあり方を変えていくことになるであろう。」

 「とりあえずの改善提案」と題された、氏の結論です。批判と破壊の大きさに比較すれば、この提案の曖昧さと具体性の軟弱さに首を傾げます。こんな氏が馘首もされず、大学に居座っている事実の中に、日本教育の崩壊を見る気がいたします。

  4. 清水賢治氏 昭和18年生 日本女子大教授  101ページ

 「責められるべきは子供でなく、本来そうした可能性を持っている子供を、」「無造作にイジメに走らせてしまった、家庭や学校、」「そして地域社会等の、子供とのつながりの脆弱さであり、」「子供たちに、十分な自己抑制力を身に付けさせることのできなかった、」「教育環境の貧困さである。」

 一読しますと、正論のように思えますが、氏の意見もまた学校教育の否定という「既定のスタイル」です。目新しいところを言えば、教育問題の原因として、学校を一番目に上げず、家庭を持ってきているところと、地域社会を加えているところです。

 「子供を非寛容的に統制するのでなく、イジメ行為そのものを問題視し、」「それに対応しなければならない。」「ここまでは許せるといういじめと、絶対に許されないいじめとの、厳しい仕分け、」「すなわち的確な、いじめ診断作業を進めることが大切だろう。」

 それができないから、多くの関係者たちが苦労しています。同じ反日左翼教授の中には、氏の薦める医学的診断作業を、有害な方法だと否定する人物もいます。要するに彼らは、てんでに自分の思いを述べているに過ぎません。私が最も驚いたのは、113ページの結論です。

 「子供達の間での、現代いじめの根源的回復対策。」「それは子供達に何かを求めるより先に、私たちの間にもう一度、」「人と人とが共生する上で必要な、確かなモノサシの再確認、」「あるいはこれまでの、和を強いる日本的規範を超えた、」「新たなモノサシを形成するしかない、という結論に向かっていく。」

 つまり氏が否定しているのは、私たちが大切にしている「和を持って尊しとなす」という、聖徳太子の教えです。反日左翼教授たちは、岩波書店の出版物を媒介として、「日本文化と伝統」の破壊を頑張っているのだと分かります。

 馬鹿にできないのは、彼らの使う「共生」とか「寛容」などという日本文化否定の用語が、23年後の今日、マスコミで盛んに使われるようになったという事実です。この書はまさに、「日本をダメにする害虫」の集積物 ( 巣 ) です。

 自分としては、腐臭の漂う悪書でしかないので、「武漢コロナ」の汚染物のように、ゴム手袋をしゴミ袋に入れたい気持ちです。愛する息子や可愛い孫たちのためには、もうしばらく我慢し、彼らの意見の恐ろしさを説明すべきかと、ここで迷います。一旦休んで、考えます。

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