〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊 11行詩 〉
・神功皇后の「三韓征伐」
タイトルをそのままにした、氏の解説の続きです。
「なぜ戦後の日本史家が、応神天皇以前の天皇の名前を挙げたがらないのか。私の推測であるが、それは神功皇后の記事があるからではないかと思う。」
「戦前〈三韓征伐〉として教えられたことである。しかし戦後は、朝鮮半島のことについてはタブーが生じてしまった。〈さわらぬ神に祟りなし〉である。」
学生時代の氏が、日本史で三韓征伐に触れた時、坂本太郎先生から褒められたと言う話を披露しています。最近の学者は朝鮮に遠慮しているからいけない、と言われたそうです。だから氏は、次のように解説します。
「昔の日本民族に関する、最も信頼すべき記録にはこう書いてある、というところから日本史は始まらなければならない。頼山陽は、敗戦後の日本史学界を支配したタブーなどは知らないから、当時の日本人が知っていた日本史にもとづいて詩作している。」
こうなりますと、私にも息子たちに聞かせたい思い出話があります。小学校の四年生から、中学校、高校と、私は北九州で暮らしました。東京の大学へ進学して以来、ずっと(主に)関東で生活していますが、北九州は私の何番目かのふるさとです。
一番高い山が帆柱山で、生徒たちは皆、この山の姿を仰ぎ見ながら通学していました。山の名前の由来は、昔神功皇后が朝鮮へ渡られる時この山の木を切り、船の帆柱にされたという言い伝えです。私たちは戦後の歴史教育世代でしたから、それ以上のことは教えられませんでしたが、氏の解説を読みそういうことだったのかと納得しました。
左系の学者と日教組の先生たちが、郷土の歴史まで封印していたと言うことです。高校の校歌の一節に次のような歌詞があります。
磨くは叡智 修むる徳義
〇〇、〇〇 栄ある母校
帆柱の峰に 日ぞ照り渡る
大正時代に創立された高校ですから、歌詞にも古めかしい言葉が使われています。「帆柱の峰に」と、神功皇后の歴史がちゃんと歌われています。私たち生徒は何も考えないまま斉唱していましたが、背景にはこうした戦後の歴史があったのです。
さすがの日教組も校歌にまでは遠慮したのか、見過ごしたのか、異を唱える人もなく今も歌い継がれています。いわば校歌は、封印された戦後の日本を語る記念歌でもあり、大切にしたくなります。氏が解説する日本の歴史を知っていれば、「男女平等の時代だから、女系天皇でもいいのではないか。」と、つまらない意見を言う自民党の議員もいなくなります。
まして似非キリスト教とも言われる統一教会へ安易に近づき、選挙協力をしてもらうなどありえない話になります。八百万の神様が治められている日本の知識があれば、ここまで無惨に野党に責められる愚もしなかったことでしょう。
この意味においては、亡くなられた安倍総理も同じです。統一教会問題の始末をつけなかったことは、氏のカードの裏側の「負」の事跡です。渡部氏の著作は、現在の問題点まで照らしますから、学徒にはめったにない良書となります。
天武天皇は686年代の方であると書いてあるので、日本武尊はいつ頃の方なのかとウィキペディアで調べますと、次のように書かれていました。
「日本武尊は、景行天皇12年 - 景行天皇41年、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)」
氏の説明通り、戦後の歴史学界では生存年代が不詳とされ、中華思想に言う夷狄を意味する王族という言葉が使われています。
「第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。」
氏が指摘する通り、これではなんのことなのか国民には日本の歴史が伝わりません。正しい日本史が整理確立されるのは、まだこれからだということも分かりました。頑迷固陋な保守学者たちがいなくなり、反日左翼の教条的学者が減り、中庸の学者の時代が来るまで期待できません。
早める方法があるとするなら、それは「国民のめざめ」だろうと思います。氏の願いに応え、「正しい日本の歴史を取り戻そう」と国民の多数が心を決めた時です。選挙の一票でまずは共産党の議席を減らす、国民の意思、つまり民意を示すことです。そうなれば、自民党の中にいる愚かな議員たちも、これではいけないと目を覚まします。護る会の議員が増え、日本の過去を取り戻す流れが大きくなります。
今のところ、私たちにできるのはこのくらいのことです。しかし、「たかがこのくらい、されどこのくらい」・・これが民意で、日本を変える力です。
牛窓から、水島灘→備後灘→安芸灘→伊予灘、周防灘を通り、関門海峡を抜けると、朝鮮を望む響灘に出ます。
地図で見たばかりですが、これが神功皇后の航跡かと思います。牛窓と帆柱山が、こんなところで繋がっていたのですね。
記紀、頼山陽の漢詩、渡辺氏の著作と合わせ考えますと、感慨深いものがあります。貴重なコメントに感謝いたします。
私の故郷は岡山県の瀬戸内海に面した小さな漁村で、そこで20数年間を過ごしました。
故郷の近くにある「牛窓町」の地名は、神功皇后西国御遠征に由来したものと伝えられています。
(https://blog.goo.ne.jp/tibinekosan/e/09bc4aa2f7ddad1e065ffd198b5ee183)
過行く時の流れにも負けず、胡乱な左の風にも負けず、今も大切に保存されています。