〈 二闋 三韓来 ( さんかんきたる) ・古代の大英雄、日本武尊 11行詩 〉
・神功皇后の「三韓征伐」
「書き下し文」(頼山陽)→「大意」( 徳岡氏)→「解説」( 渡部氏) の順に紹介します。渡辺氏にとり〈二闋〉はとりわけ意味が深いらしく、ここだけ二つに分けられ、タイトルが変則です。( 11行の漢詩は共通です。)
長くなりますが、頼山陽の漢詩の「書き下し文」をそのまま紹介します。
〈「書き下し文」(頼山陽) 〉
東征冥勃を渉り
わが妻我に先立ちて没す
西伐嶢酤こつに入り
わが児妻我に先立ちて没す
何ぞ知らむ娘し軍を摂して巣窟をつくを
両つながら社稷に死して其の後を昌にす
患難家を持するに健婦あり
胎中天皇腕肉凸し
乃父祖に肖たり母に肖たりに非ず
龍眼涙垂れて侍臣哀しむ
先皇目せず三韓の来たるを
〈 「大 意」(徳岡氏) 〉
東征して海を渡った
その折、我が妻は私に先んじて死んだ
西を伐ちに行って深山に分け行った
その折には、我が子が其の妻に先立って死んだ
どうして知ることができただろう私に、若い夫人が軍を指揮して敵の根本をつこうなどとは
妻弟橘媛も子仲哀天皇も、二人とも国のために死んで、子孫を繁栄させたのだ
困難な時は家を保持するために健気な婦人が出現するものである
神功皇后の産んだ応神天皇は、腕の肉が盛り上がっていた
それは母神功皇后が男装して鞆を付けている姿に似たと言われるが、そうではない。そなたは父や祖父に似たのだ
三韓が来貢した時、応神天皇は涙を流し、侍臣たちも共に泣いた
そう先皇仲哀は、遂にこの三韓の来朝を目にしないまま逝かれたのだった・・
今回は頼山陽の漢詩の「書き下し文」と徳岡氏の「大意」の紹介でスペースがなくなりました。続きを次回としますが、退屈に耐えられない方はスルーしてください。
愛する夫君のために、自らを犠牲にされた健気さ、潔さに感銘いたします。
妊娠の身でありながら、武装して三観征伐にゆかれた神功皇后の凛々しさも素晴らしいです。
こういうかたがたによって日本の歴史は織りなされたんですね。
浪漫は、つきません。、
前コメントでの
『三観征伐』は、
『三韓征伐』の誤字でした。
修正いたします。、失礼しました。
コメント欄をお借りしてのご挨拶 失礼します
あやか様
千葉県茂原市に「弟橘媛」を御祭神とする橘樹神社が有り、2019年の3月に参拝しました。
千葉県には日本武尊と弟橘媛にちなむ地名が幾つか残されており、感慨深く旅をしたことを思い出します。
袖ケ浦、木更津 富津・・こうして地名として残されている事に、日本人の心のようなものを感じます。
「君去らず 袖しが浦に 立つ波の その面影を みるぞ悲しき」
古代史を楽しまれているお二人と異なり、私は混迷の読書世界に入っています。
「天皇系図」は宮内庁の系図も、ウィキペディアも今上陛下まで同じく126代を図示していますが、戦後はいろいろな学説が出ています。
1. 神武天皇以降を実在とする説
2. 10代(素神)天皇以降を実在とする説
3. 15代(応神)天皇以降を実在とする説
4. 26代(継体)天皇以降を実在とする説
2以降の説が出てきたのは戦後の話で、科学的視点でみるという学者によるものです。
123代の天皇が正式に定められたのは、大正時代だということで、それ以前にはいろいろな考え方があり、天皇の数が定まっていなかったことを知りました。
左翼系学者だけが疑問視していたわけでなく、保守系学者の中でも諸説があったと知りますと、古代のロマンを楽しむどころでなくなってきます。
初代の神武天皇以来15代の応神天皇までの年齢を並べてみますと、4人の天皇以外はすべて100を越えて崩御されています。
「古代の天皇が、こんなに長生きされるはずがない」というのが、科学的学問を標榜する左翼系学者の異論と聞きます。
現在の常識で考えましても、そういう疑問が湧いてきます。しかし調べてみますと、明治以前には神功皇后を天皇とする意見のあることが分りました。
さらに調べますと、「追尊天皇」「追号天皇」「非公式歴代外天皇」という考え方もあり、こうした方々が「天皇」として参入されていないことも分かりました。
参入されていない天皇がおられると、正式に確定された天皇の年令は、当然長くなってしまいます。
ようするに、科学的検討をしていたのは、左翼系学者だけでなく、保守系学者もしていたということになります。
むしろ私はこの方に、興味とロマンを感じる次第です。
歴女お二人に、これからもよろしくお願いし、コメントに感謝いたします。