47ページ「序章」の最後、「5. ゆるがない信仰」です。このような大仰なタイトルをつけなければ、恥をかくのも半分で済むのに、氏はいかめしい言葉しか使えない人のようです。
一番心配だった〇〇○さんと〇〇〇〇さんが、「ねこ庭」に足跡を残しておられるのを見て、気が沈みました。( 今回限りなので、目を瞑ってください。)
「もともと宗教というものは、理性を超越した教えに関わるものですから、どこか普通の人に誤解をされたり、毛嫌いされたりする要素は避けられないものです。」
「もしこのまま宗教が滅べば、国家も人間も滅ぶことになるでしょう。本当の意味での信仰のリバイバル、ルネッサンスは今こそ必要です。」
世間を騒がせている統一教会が喜びそうな意見ですが、次に続く言葉が、時折私がする「ねこ庭」での呟きに似ているので、げんなりしました。
「地道に本気で考えながら生きている人は、いまこそ、静かでもいいから、どこかで声をあげて欲しいものです。」
宗教についてはあまり話ませんが、日本の世相については、そっくりそのままです。日本を愛する保守の方たちに、静かな声をあげて欲しいといつも願いました。穴があったら、入りたくなります。
「宗教的に熱心だからと言って、人前でマイクでがなり立てるとか、お祈りをさせてくださいと安易に迫るのが、信仰者の生き方だとは思いません。例えば伝導とか忠告の仕方が、いかにもわざとらしくなるやり方を、内村鑑三は好みませんでした。あえて自分の宗教に勧誘することはしない、とさえ彼は言っています。」
氏は時に常識的なことを言いますので、なるほどと思わされます。けれどもそれは束の間の話で、次には大きく飛躍します。
「世界のあちこちに残された、いろいろな遺跡を見ていると、人間は昔からすばらしかったのだと、驚嘆させられることがあります。中国にも、エジプトにも、マヤ、インカ、アステカにも、わが日本にも、たとえば縄文時代の素晴らしい遺跡があります。」
「われわれ日本人には、あの戦争をした4年間の前の時期に、何もしなかったのでは決してありません。これまでの歴史には、いろいろ幸せな時期もあったのです。」
言われるまでもなく当たり前の話なので、何を言っているのだろうと、逆に驚きます。どうやら氏も、先の大戦については連合国の「東京裁判」の結論を信じているようです。先程まで、扉の向こうにあたらしい世界が開けると感動していたのに、今度は一気に暗くなります。
「国連が行き詰まり、アメリカもロシアも、軒並みダメになりつつある今、人類の歴史は、ふたたび戦争史や不幸史に移行するかのような、暗い印象を与えつつあることは否めません。もしかしたら20世紀は、暗さの中で沈んでしまうのでしょうか。」
『世紀末の幸福論』らしい暗さになりますが、私は「世紀末」という言葉そのものに違和感を覚えています。キリスト教が使う「世紀末」は、仏教の言う「末世」です。つまり「この世の終わり」。仏教の計算はどうなっているのか知りませんが、キリスト教の時代区切りは1世紀を100年で区切っていますから、100年ごとに「世紀末」が訪れます。
氏がつい先程述べていた縄文時代は、紀元前1万4千年から3千年前の時代と言われています。この間に「世紀末」は何回訪れているのか、それ以降現在まで「世紀末」が何回あったと言えば良いのか。本を読んでいる現在は2022年で、21世紀が始まったばかりです。氏のあげた問題が何も解決されていませんから、今も「世紀末」なのでしょうか。私は『世紀末の幸福論』という書名からして、無意味に感じています。
「もしこのまま宗教が滅べば、国家も人間も滅ぶことになるでしょう。」
氏がこう言う時、宗教の中心にはキリスト教があるはずです。キリスト教の無かった紀元前1万4千年から3千年前の縄文時代には、国家も人間も滅んでいたことになります。屁理屈と言われる人がいるのかもしれませんが、常識の話をしています。
「しかしわれわれ日本人は少なくとも、戦後50年の間、平和であり安全であることを楽しむことができた、幸せな国民であったのです。」
そっくり同じ意見を言うのが共産党の政治家と学者、弁護士です。なぜそうなるのかといえば、彼らは「東京裁判史観」と「日本国憲法」を信仰しているからです。敬意をもって読みたいと考えていましたが、息子や孫たちのために賛成できなくなります。
「われわれ日本人には不幸史ばかりでなく、幸福史もあったことを、感謝を持って覚えておきたいと思います。ただその幸せが、はたして本当の幸せであったかどうかを、もう一度考え直す必要はあるのです。」
残念ながら、ここまでくると「幸福論」の範囲を外れ、「寝言」か「たわ言」の範疇になります。
「誰かに何かをしてもらわなくても、そういうことが他ならぬ自分のこととして、大切に認められ尊重される社会を、形成していこうとする傾向が、少しばかり予見できるだけでも、われわれが幸せな社会に少しずつ近づいていることの証拠です。」
氏の問題意識には、国を愛する多くの国民が一番願っていることが含まれていません。
「自主憲法の制定」と「皇室護持」の二つです。
ケジメをつけるため、最後の文章を転記します。
「そう考え勇気を出して生きていけば、新しい道が少しずつ開かれていく、と考えるのは、ある種の希望であり信仰であるかもしれません。」
この説明を「5. ゆるがない信仰」と、読者は読むのでしょうか。私は、予定通り最後まで読みますが、これ以上氏の言葉を紹介しても、息子たちの役に立ちませんので今回でシリーズを終わります。
小原信さんの「世紀末の幸福論」ですが、
私は、原著を読んでおりませんが、猫様の引用で、内容の大意や傾向は、わかりました。
たしかに、このかたの思想内容には、あまり独創性かあるとは思えませんね。
猫様も、おっしゃいますように、日本の課題が語られていないようですね。
むしろ、往年の内村鑑三師のほうが、日本および日本人に対する救国の使命感を持っておられたと思います。
◆ところで昨今の統一教会騒動で、
何か国民のあいだに、「宗教というものは、胡散臭いものだ」という先入観が出来つつありますが、
もちろん、そんなことはありません。
こういう状況であるからこそ、将来の日本の指針を定め、国民を善導する時ですし、
そのためには、健全な宗教家を始め、
憂国の志士が結集すべきだと思います。✨✨✨
ブログはやめましたが、再読は続けています。今121ページですが、少し紹介します。
「もともと日本のように、国全体が海に囲まれている国は、世界中でも少ないのです。国全体がシングル・ルーム化していて、そのなかでみんなが細かいことにまで気を使って生きています。しかし外に向かっては、なかなか積極的に目を向けようとしないのです。」
ものの溢れた社会にいながら、日本人の視野が狭く、物欲ばかりが強く、自分のことしか考えられないから、幸福になれないと、こうした話を延々と述べています。
氏が語っている日本人とは、どういう人々なのでしょう。若い人や自分の教えている学生を引き合いに出していますが、自分の狭い経験と思い込みで、日本人全体を語ろうとするこの人物に不快感を覚えます。
品性の無い人間は、何を見ても日本人批判になるようです。思想の独創性というレベルでなく、本人の人格の低さだと思います。
久しぶりに新聞を見ますと、やはり統一教会と国葬の記事や評論が目立ちます。国民が「宗教を胡散臭い」と思うようなっているのでなく、反日勢力とマスコミが煽動しているだけで、国民はそうでないと思っています。
10月17日の共同通信社の全国配信記事・「識者評論」では、小原氏に似た一橋大学院教授の中北氏が、統一教会問題に関し、「保守派の時代の終わりか」という意見を述べています。
氏は反日左翼政党・民主党の支持者として、自民党を攻撃しています。自民党の中の議員が全て統一教会と関係しているのでありませんから、保守派の時代が終わるはずがありません。
ロシア、中国、北朝鮮の核に狙われながら、核シェルターの建設計画もさせず、反撃攻撃も言わず、「専守防衛」の寝言を言う野党に、国民は票を入れません。
憂国の国民は保守議員を支持していますから、しばらくはこの不毛な騒動を観察するしかないと思っております。
コメントに感謝いたします。