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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

歴史的な選挙、目的の再確認 - 20 ( 東久邇内閣の辞職 )

2024-11-09 19:48:03 | 徒然の記

 日本の終戦時の内閣は、鈴木貫太郎内閣でした。氏は陛下の玉音放送が終わるとすぐに総辞職し、後継首班に選ばれたのが、皇族の東久邇宮稔彦 ( なるひこ ) 王でした。

 敗戦が決定しても、未だに本土決戦を唱える軍人があちこちにいたため、天皇の威光が必要でした。皇族内閣を作るしかないと考えたのは、内大臣木戸幸一だったと言われています。

 東久邇内閣は憲政史上唯一の皇族内閣で、 連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施しました。

 ウィキペディアは史上最短「54日内閣」と言われる東久邇内閣について、次のように説明しています。

  ・自由化政策を巡るGHQと内務省の対立や、GHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。

 これが日本での通説で、「ねこ庭」も信じており、塩田氏もこれに従って著作を書いています。

 ここから再度「ねこ庭」の過去記事を転記します。

  ・これから先も、私の知らなかった事実です。

  ・東久邇内閣は、天皇のマッカーサー訪問について一応秘密にした。

  ・天皇が敵将であるマッカーサーを自ら訪問したという、前代未聞の事実を国民にどうやって知らせたら良いのか、説明に苦慮した。

  ・その結果会見の事実だけを簡単に発表し、お茶を濁した。

  ・ところが総司令部は大々的に発表し、日本が戦争に負けたことを、日本国民に思い知らせようと考えていた。そのためわざわざ、天皇とマッカーサーが並んで立つ姿を撮影させたのだ。

 総司令部は写真を新聞各社へ送りましたが、当時の日本にはまだ、日本独自の報道に関する事前検閲制度が残っていました。

 しかし総司令部から送られてきた写真であるため、新聞各社は一面のトップ記事で報道しました。その時の様子を、氏が次のように書いています。

  ・刷り上がった翌日の新聞を見た、内務省の検閲官は目を丸くした。

  ・内務省は協議の結果、朝日、毎日、読売の各社に対し発売禁止処分を通告した。開襟シャツ姿のマッカーサーと、モーニング姿の天皇が並んで立つ写真を発表することは、畏れ多いという判断である。

  ・翌朝そのニュースが総司令部に伝わり、マッカーサーが激怒します。総司令部はマッカーサーの名前で、指令を発しました。

    「新聞と通信の自由に関する政府の制限は、すべて撤廃せよ。」

  ・総司令部の民間情報検閲課長のフーバー大佐が、新聞各社の代表を呼びつけました。

    「発禁処分を受けた新聞も、自由に発行して差し支えない。」

  ・ところが検閲の大元締めである内相の山崎巌は、総司令部の考えについていけませんでした。司令が出された直後に新聞記者を集め、自分の見解を述べました。

   「言論、出版、結社については、今まで通り許可制をとるが制限は飛躍的に緩和されている。」「しかし、治安警察法の精神はこれからも生かしていくつもりだ。」

   「国体を破壊するような言動は、依然として取り締まりの対象になる。政治犯の釈放は、当面考えていない。」

 息詰まるような文章を読みながら、フーバー大佐に即座に反論した山崎内相の行為を「ねこ庭」は理解しましたが、著者の塩田氏は切り捨てました。

   「時代錯誤の内相談話は、すぐさま総司令部に伝わった。」

 戦争が終わったばかりの時ですから、時代錯誤と決めつけずに別の表現は思いつかなかったのでしょうか。内相の言動を問題視し、総司令部の側に立つ氏の叙述に疑問を覚えました。

 氏の文章が続きます。

  ・内相の発言は占領政策批判ではないかと、総司令部が構える。

  ・噂を聞きつけた内閣秘書官長の緒方竹虎が、首相に会って耳打ちした。

    「総司令部の中から、内相を首にすべきだという声が出ているそうです。」

  ・東久邇首相は即座にマッカーサー元帥を訪ね、皇族である自分の内閣がいけないというのなら、いつでも辞めると申し入れます。

  ・元帥は、皇族であっても首相の思想と言動は民主主義的であると言い、辞任を求めませんでした。

  ・その6日後に、総司令部が次の要求を入れた覚書を政府に示してきました。

    ・政治的、公民的、及び宗教的自由に対する制限の除去

    ・内相を含む全国の警察幹部と、特高警察全員の免職

    ・政治犯の釈放

 これを見た首相の言葉を、氏の著書からそのまま紹介します。

  ・マッカーサー元帥は、この前の会見の際、大臣を変える必要はないと言っていた。

  ・にもかかわらず1週間も立たないうちに、この指令を出してきた。これは元帥が、私の内閣を信用していないということだろう。

 東久邇首相は、全閣僚の辞表を取りまとめ天皇へ提出したということです。当時も今も、こうしたGHQ統治下の出来事はほとんど公表されません。

 新聞やラジオが事実をそのまま伝えていたら、果たしてGHQの統治は成功し得たのかと、そんな疑問も湧いてきます。総司令部は、日本政府の言論統制は撤廃させましたが、自分たちの統制は容赦無く守らせました。

 過去記事をわざわざ紹介した理由が、2つあります。

  1.  塩田氏が著書の中で「プレスコード」について説明をしていたら、東久邇内閣退陣の原因が読者にもっとハッキリ伝わっていた。

  2.  平成4年の出版であるにもかかわらず、塩田氏は「プレスコード」について触れることを避けていた。

 つまり「プレスコード」発令から47年経った時でも、「出版統制」をマスコミが守り続けていたことになるのではないでしょうか。陛下の元帥訪問を時系列で示すと、次のようになります。

 「プレス・コード」発令                昭和20年 9月22日

  陛下のマッカーサー訪問       昭和20年 9月27日  

 塩田氏は「時代錯誤」などと説明をせず、次のように書けば「ねこ庭」の疑問が生じなかったのです。

 ・天皇陛下より日本政府より上位に位置していた元帥が、「プレスコード」を発令していたから、東久邇首相は逆らえなかった。まして山﨑内相が逆らえるはずがない。

 こう書いていれば、GHQ統治の過酷さと敗戦国の惨めさが国民に伝わっていただろうにと、「ねこ庭」は考えます。息子たちと訪問された方々は、今回のブログをどのように受け止められるのでしょうか。

 次回はプレスコード」がどんなものだったか、その仕組みについて紹介いたします。

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歴史的な選挙、目的の再確認 - 19 ( GHQ プレスコードの事例 )

2024-11-09 16:37:54 | 徒然の記

 「プレスコード」を検討している時頭に浮かんだのが、ある本でした。

 それは塩田潮氏の著作『最後のご奉公』( 平成4年出版 講談社 ) で、幣原喜重郎氏の伝記です。戦後の事情が分かりやすく語られているので懸命になって読み、「ねこ庭」のブログで取り上げました。平成3年8月のことです。

 塩田氏の略歴も調べました。

  ・塩田潮は昭和21年7月生まれ 、評論家、ノンフィクション作家、本名満彦
 
  ・高知県に生まれ、慶應大学法学部卒業後、「月刊マネジメント」編集部勤務
 
  ・国会議員秘書、「文藝春秋」記者などを経験
 
 回りくどい説明をするより、3年前の「過去記事」を紹介する方が早道のような気がしますので、転記いたします。

  ・「知っているつもりなのに、知らなかった事実」・・氏の著書が教えてくれるのは、そんなものばかりです。

  ・私たちがよく知っている、「陛下とマッカーサーの写真」もその一つです。

  ・モーニング姿で立たれた昭和天皇の脇に、開襟シャツ姿のマッカーサー元帥が立っている、あの有名な「写真」です。

  ・敗戦の現実がどういうものだったのか、息子たちのためにも氏の叙述を紹介しようと思います。

 転記しながら読み返すと、3年前の驚きと興奮が蘇ってきます。敗戦後の日本については、何度読んでもその度に胸の痛みが生じます。

  ・昭和20年9月15日総司令部は横浜から東京に移り、日比谷のお堀端に立つ第一生命相互ビルに、陣取った。

  ・マッカーサーの公邸は、そこから20キロ先の米国大使館内に設けられた。天皇は総司令部でなく、大使館の方へ出向くように言われた。

 これが陛下とマッカーサー元帥の歴史的な会見の叙述で、他の本では陛下のお気持ちや随行者など詳しく書いていましたが、氏は簡単に説明しています。

  ・天皇が案内されて入ると、マッカーサーがノーネクタイの開襟シャツ姿で迎えた。

  ・挨拶が終わると天皇は、お付きの者を一人一人紹介した。マッカーサーは、天皇と通訳の奥村二人だけで、隣の応接間に入るように言った。

  ・部屋に入ると、いきなりマッカーサー元帥が「ここへお立ちください」と言い、陛下は部屋の中央に立たれた。

  ・何をさせられるのかと思われていると、マッカーサーが大股で近づいてきて、横向きに並んで立った。

  ・それを合図に、陸軍写真班の腕章を巻いたアメリカ兵が現れた。

 彼はガエタノ・フェレーズという名前の、元帥専属のカメラマンで、共に各地を転戦してきた人物でした。彼は天皇と元帥の姿を何枚か撮り、終わると部屋を出て行き、あっという間の出来事だったそうです。

 「陛下とマッカーサーの写真」の写真がこのようにして撮られていたことを知り、私は驚きました。

 陛下と元帥はこの後対話をされ、これもまた有名な話ですが、陛下が戦争の責任について連合国に身を委ねるために来たと言われ、マッカーサー元帥が感動します。

 「陛下は日本最高の紳士である。」と称賛し、この時から元帥の態度が大きく変わったと語られています。

 それなのに元帥は、「陛下とマッカーサーの写真」の写真を日本の新聞社へ配布します。陛下に説明もせず写真を撮り、断りもなく新聞社へ送付したのですから、今にして思えば「元帥は最低の紳士」でしたが、この時は気がつきませんでした。

 塩田氏の著書が教えてくれる事実に驚くのに忙しくて、元帥の非礼さを忘れていました。

 写真が引き起こした騒動について、氏が詳しく語っていますので、それを読むと「ねこ庭」が驚くのに忙しかった理由が分かります。

 次回は「陛下とマッカーサーの写真」によって生じた、政府とGHQの対立について氏の著書から紹介します。

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