日本の終戦時の内閣は、鈴木貫太郎内閣でした。氏は陛下の玉音放送が終わるとすぐに総辞職し、後継首班に選ばれたのが、皇族の東久邇宮稔彦 ( なるひこ ) 王でした。
敗戦が決定しても、未だに本土決戦を唱える軍人があちこちにいたため、天皇の威光が必要でした。皇族内閣を作るしかないと考えたのは、内大臣木戸幸一だったと言われています。
東久邇内閣は憲政史上唯一の皇族内閣で、 連合国に対する降伏文書の調印、軍の解体と復員、行政機構の平時化、占領軍受け入れなどを実施しました。
ウィキペディアは史上最短「54日内閣」と言われる東久邇内閣について、次のように説明しています。
・自由化政策を巡るGHQと内務省の対立や、GHQによる内政干渉に対し、抵抗の意志を示すため総辞職した。
これが日本での通説で、「ねこ庭」も信じており、塩田氏もこれに従って著作を書いています。
ここから再度「ねこ庭」の過去記事を転記します。
・これから先も、私の知らなかった事実です。
・東久邇内閣は、天皇のマッカーサー訪問について一応秘密にした。
・天皇が敵将であるマッカーサーを自ら訪問したという、前代未聞の事実を国民にどうやって知らせたら良いのか、説明に苦慮した。
・その結果会見の事実だけを簡単に発表し、お茶を濁した。
・ところが総司令部は大々的に発表し、日本が戦争に負けたことを、日本国民に思い知らせようと考えていた。そのためわざわざ、天皇とマッカーサーが並んで立つ姿を撮影させたのだ。
総司令部は写真を新聞各社へ送りましたが、当時の日本にはまだ、日本独自の報道に関する事前検閲制度が残っていました。
しかし総司令部から送られてきた写真であるため、新聞各社は一面のトップ記事で報道しました。その時の様子を、氏が次のように書いています。
・刷り上がった翌日の新聞を見た、内務省の検閲官は目を丸くした。
・内務省は協議の結果、朝日、毎日、読売の各社に対し発売禁止処分を通告した。開襟シャツ姿のマッカーサーと、モーニング姿の天皇が並んで立つ写真を発表することは、畏れ多いという判断である。
・翌朝そのニュースが総司令部に伝わり、マッカーサーが激怒します。総司令部はマッカーサーの名前で、指令を発しました。
「新聞と通信の自由に関する政府の制限は、すべて撤廃せよ。」
・総司令部の民間情報検閲課長のフーバー大佐が、新聞各社の代表を呼びつけました。
「発禁処分を受けた新聞も、自由に発行して差し支えない。」
・ところが検閲の大元締めである内相の山崎巌は、総司令部の考えについていけませんでした。司令が出された直後に新聞記者を集め、自分の見解を述べました。
「言論、出版、結社については、今まで通り許可制をとるが制限は飛躍的に緩和されている。」「しかし、治安警察法の精神はこれからも生かしていくつもりだ。」
「国体を破壊するような言動は、依然として取り締まりの対象になる。政治犯の釈放は、当面考えていない。」
息詰まるような文章を読みながら、フーバー大佐に即座に反論した山崎内相の行為を「ねこ庭」は理解しましたが、著者の塩田氏は切り捨てました。
「時代錯誤の内相談話は、すぐさま総司令部に伝わった。」
戦争が終わったばかりの時ですから、時代錯誤と決めつけずに別の表現は思いつかなかったのでしょうか。内相の言動を問題視し、総司令部の側に立つ氏の叙述に疑問を覚えました。
氏の文章が続きます。
・内相の発言は占領政策批判ではないかと、総司令部が構える。
・噂を聞きつけた内閣秘書官長の緒方竹虎が、首相に会って耳打ちした。
「総司令部の中から、内相を首にすべきだという声が出ているそうです。」
・東久邇首相は即座にマッカーサー元帥を訪ね、皇族である自分の内閣がいけないというのなら、いつでも辞めると申し入れます。
・元帥は、皇族であっても首相の思想と言動は民主主義的であると言い、辞任を求めませんでした。
・その6日後に、総司令部が次の要求を入れた覚書を政府に示してきました。
・政治的、公民的、及び宗教的自由に対する制限の除去
・内相を含む全国の警察幹部と、特高警察全員の免職
・政治犯の釈放
これを見た首相の言葉を、氏の著書からそのまま紹介します。
・マッカーサー元帥は、この前の会見の際、大臣を変える必要はないと言っていた。
・にもかかわらず1週間も立たないうちに、この指令を出してきた。これは元帥が、私の内閣を信用していないということだろう。
東久邇首相は、全閣僚の辞表を取りまとめ天皇へ提出したということです。当時も今も、こうしたGHQ統治下の出来事はほとんど公表されません。
新聞やラジオが事実をそのまま伝えていたら、果たしてGHQの統治は成功し得たのかと、そんな疑問も湧いてきます。総司令部は、日本政府の言論統制は撤廃させましたが、自分たちの統制は容赦無く守らせました。
過去記事をわざわざ紹介した理由が、2つあります。
1. 塩田氏が著書の中で「プレスコード」について説明をしていたら、東久邇内閣退陣の原因が読者にもっとハッキリ伝わっていた。
2. 平成4年の出版であるにもかかわらず、塩田氏は「プレスコード」について触れることを避けていた。
つまり「プレスコード」発令から47年経った時でも、「出版統制」をマスコミが守り続けていたことになるのではないでしょうか。陛下の元帥訪問を時系列で示すと、次のようになります。
「プレス・コード」発令 昭和20年 9月22日
陛下のマッカーサー訪問 昭和20年 9月27日
塩田氏は「時代錯誤」などと説明をせず、次のように書けば「ねこ庭」の疑問が生じなかったのです。
・天皇陛下より日本政府より上位に位置していた元帥が、「プレスコード」を発令していたから、東久邇首相は逆らえなかった。まして山﨑内相が逆らえるはずがない。
こう書いていれば、GHQ統治の過酷さと敗戦国の惨めさが国民に伝わっていただろうにと、「ねこ庭」は考えます。息子たちと訪問された方々は、今回のブログをどのように受け止められるのでしょうか。
次回は「プレスコード」がどんなものだったか、その仕組みについて紹介いたします。