第二段階を検討するには、中国の文化大革命について知っておく必要があります。ウィキペディアが、次のように説明しています。
・文化大革命とは、毛沢東が劉少奇からの奪権、及び復権をするための大規模な権力闘争。毛沢東自らの権力を固めるために仕掛けた大衆運動
・毛沢東の死去により終結。多数の人命が失われ、中国国内の主要な伝統文化の破壊と経済活動および学術活動の長期停滞をもたらした。
・昭和41 ( 1966 ) 年5月から始まり、昭和51 ( 1976 ) 年10月集結・・( 10年間 )
・指導者は、毛沢東、林彪、四人組
中国は、毛沢東が行った文化大革命で経済が破綻し、外国資本を入れて国を再建しなければ共産党政権の存立が危うくなっていました。
政権を手にした鄧小平が、苦肉の策として「社会主義的資本主義制度」という考えを打ち出し、「改革開放政策」を実行したのは周知の事実となっています。
鄧小平は世界第 2位の経済大国だった日本を訪れ、積極的な支援を求めました。稲山嘉寛氏や松下幸之助氏などがこれに応え、中国に製鉄所や家電の製造工場を建設しました、
中国が日本を「熱烈歓迎」したこの時期が、日中両国の一番良好な時代であったと記憶している方も、沢山おられるのではないでしょうか。
日中蜜月時代の出来事は中国側に詳しいデータがありますので、平成21年9月17日付『人民網 日本語版』の記事を紹介します。
・1978 ( 昭和53 ) 年10月、鄧小平訪日、君津製鉄所、松下電器工場、新幹線乗車など日本各地の最先端工場と技術を視察
・1979 ( 昭和54 ) 年、大平・鄧会談。鈴木総務会長に対し、鄧小平が「円借款申し入れ」と「日中兵器工場建設提案」
・1980 ( 昭和55 ) 年5月27日、華国鋒総理が中国総理として初めて訪日し、中日閣僚会議の年内開催が決定
同年7月8日、 華国鋒総理が大平首相の葬礼に出席するため訪日
同年12月3日、 初の中日閣僚会議が北京で開催。会議は1987 ( 昭和62 )年6月まで計5回行われた
・1982 ( 昭和57 ) 年5月31日、 趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示す。
この記事を読み、アメリカがどのような気持でいたのかを「ねこ庭」は想像しました。
世界の覇権国となったアメリカが、世界一の軍事力と経済力を誇っていたことはすでに説明しました。アメリカも「ねこ庭」に似てある意味で単純ですから、次のように機嫌を損ねたのではないでしょうか。
・アメリカの地位を脅かしそうな日本を、決して許さない。
すでに日本製品がアメリカ市場に溢れ、アメリカの貿易赤字を膨らませていました。このまま中国と友好関係を強め経済的な協力を深めいてくと、間違いなく自国を凌ぐ経済大国が2つ生まれます。
アメリカが、面白い訳がありません。
「プレスコード」の優等生であるマスコミが事実を伝えませんでしたから、国民は会議の意味を知りませんでした。しかし欧米各国の間で日本がどれほど孤立しているのかを、ウィキペディアが教えてくれます。
・会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・べイカー、英国蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルグ、フランス済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下蔵相である。
・以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。