goo blog サービス終了のお知らせ 

ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

歴史的な選挙、目的の再確認 - 33 ( 「プラザ合意」の背景 )

2024-11-16 18:54:31 | 徒然の記
 〈 第二段階・・プラザ合意による「日本弱体化政策」の実行 〉

 第二段階を検討するには、中国の文化大革命について知っておく必要があります。ウィキペディアが、次のように説明しています。

  ・文化大革命とは、毛沢東が劉少奇からの奪権、及び復権をするための大規模な権力闘争。毛沢東自らの権力を固めるために仕掛けた大衆運動

  ・毛沢東の死去により終結。多数の人命が失われ、中国国内の主要な伝統文化の破壊と経済活動および学術活動の長期停滞をもたらした。

  ・昭和41 ( 1966 ) 年5月から始まり、昭和51 ( 1976 ) 年10月集結・・( 10年間 )

  ・指導者は、毛沢東、林彪、四人組

 中国は、毛沢東が行った文化大革命で経済が破綻し、外国資本を入れて国を再建しなければ共産党政権の存立が危うくなっていました。

 政権を手にした鄧小平が、苦肉の策として「社会主義的資本主義制度」という考えを打ち出し、「改革開放政策」を実行したのは周知の事実となっています。

 鄧小平は世界第 2位の経済大国だった日本を訪れ、積極的な支援を求めました。稲山嘉寛氏や松下幸之助氏などがこれに応え、中国に製鉄所や家電の製造工場を建設しました、

 中国が日本を「熱烈歓迎」したこの時期が、日中両国の一番良好な時代であったと記憶している方も、沢山おられるのではないでしょうか。

 日中蜜月時代の出来事は中国側に詳しいデータがありますので、平成21年9月17日付『人民網 日本語版』の記事を紹介します。

   ・1978 ( 昭和53 ) 年10月、鄧小平訪日、君津製鉄所、松下電器工場、新幹線乗車など日本各地の最先端工場と技術を視察

  ・1979 ( 昭和54 ) 年、大平・鄧会談。鈴木総務会長に対し、鄧小平が「円借款申し入れ」と「日中兵器工場建設提案」 

  ・1980 ( 昭和55 ) 年5月27日、華国鋒総理が中国総理として初めて訪日し、中日閣僚会議の年内開催が決定

              同年7月8日、   華国鋒総理が大平首相の葬礼に出席するため訪日

            同年12月3日、 初の中日閣僚会議が北京で開催。会議は1987 ( 昭和62 )年6月まで計5回行われた

  ・1982 ( 昭和57 ) 年5月31日、 趙紫陽総理が訪日し、「平和友好・平等互恵・長期安定」の「中日関係三原則」を示す。

 この記事を読み、アメリカがどのような気持でいたのかを「ねこ庭」は想像しました。

 世界の覇権国となったアメリカが、世界一の軍事力と経済力を誇っていたことはすでに説明しました。アメリカも「ねこ庭」に似てある意味で単純ですから、次のように機嫌を損ねたのではないでしょうか。

  ・アメリカの地位を脅かしそうな日本を、決して許さない。

 すでに日本製品がアメリカ市場に溢れ、アメリカの貿易赤字を膨らませていました。このまま中国と友好関係を強め経済的な協力を深めいてくと、間違いなく自国を凌ぐ経済大国が2つ生まれます。

  アメリカが、面白い訳がありません。

 アメリカが関与する強引な「日本弱体化計画」の始まりが、1985 ( 昭和60 )年9月に開催された「先進5か国(G5)財務大臣・中央銀行総裁会議」でした。
 
 会議に出席したのは米、英、独、仏の財務長官、経済財政相で、日本は竹下蔵相でした。この時に決まった決定事項が有名な「プラザ合意」で、日本の経済成長を大きくダウンさせる内容でした。
 
 会議の名前は、場所となったニューヨーク市のプラザホテルにちなんでつけられたと言いますが、日本にとっては「第二の敗戦」と言われるほど過酷な合意でした。

 「プレスコード」の優等生であるマスコミが事実を伝えませんでしたから、国民は会議の意味を知りませんでした。しかし欧米各国の間で日本がどれほど孤立しているのかを、ウィキペディアが教えてくれます。

  ・会議に出席したのは、アメリカ財務長官のジェイムズ・べイカー、英国蔵相のナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相のゲルハルト・シュトルテンベルグ、フランス済財政相のピエール・ベレゴヴォワ、そして日本の竹下蔵相である。

  ・以後の世界経済に大きな影響を及ぼした歴史的な合意だったが、その内容は事前に各国の実務者間協議において決められており、会議自体はわずか20分程で合意に至る形式的なものだった。

  ・米英独仏が安すぎる円に文句をつけ、共同で円高を迫った会議で、円が安すぎるため、日本製品が世界に出回り、結果として欧米諸国の製品が売れない。円安のせいで自国産業が弱体化し、経済に悪影響を及ぼしていると彼らは主張した。
 
 ウィキペディアの説明を読むと、日本人なら誰にでも分かるアメリカの日本叩きです。アメリカは日本を無視した上で、英米仏独と事前に話し合い、結論を決めた上で会議に臨んでいます。
 
 「プラザ会議」の実態は会議でなく、日本を被告人とした「経済裁判」だったことが見えてきます。アメリカはここでも、「東京裁判」と同じやり方で日本を断罪しました。
 
  昭和60年は中曽根内閣の時で、中曽根首相は「プラザ合意」を受け入れました。この時の状況を、ウィキペディアが語っています。
 
  ・プラザ合意により米英仏独が協調して為替介入したため、円高が一気に進行して、1ドル235円だった為替レートがわずか一年で、1ドル150円前後になりました。
 
  ・急激な円高を招いたプラザ合意は、「第2の敗戦」と言われるほど、日本経済に大きな打撃を与える大失政でした。
 
  ・しかしこの時中曽根首相はレーガン大統領と笑顔で対談し、「ロン・ヤスの仲」と日米関係の良好さをアピールしました。
 
 昭和時代は国民に伝えられない事実が多かったとしても、ネットが普及した平成末から令和時代の今では、おそらく誰もが多くの事実を知っているのではないでしょうか。
 
 しかし次の事件を、アメリカの「3大関与」の流れの中で捉えようとしているのは、「ねこ庭」だけかも知れません。
 
  ・昭和60 ( 1985 ) 年  8月12日  日航機123 便墜落事故
 
            同年 9月22日 「プラザ合意」
 
 もし「ねこ庭」の推察が正しかったとすると、「日航機123便墜落事故」が「プラザ合意」に関係があると気づかず、私たち国民はマスコミの報道に接していたことになります。「プラザ合意」が「第2の敗戦」とするなら、「日航機123便墜落事故」は「第3の敗戦」に匹敵する重大事件でした。
 
 次回は、「日航機123 便墜落事故」を含めて検討したいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史的な選挙、目的の再確認 - 32 ( 生きている「プレスコード」? )

2024-11-16 08:35:38 | 徒然の記
          ・第一段階・・GHQ統治による「日本弱体化政策」の実行
 
    ・第二段階・・プラザ合意による「日本弱体化政策」の実行

    ・第三段階・・安倍内閣への危機感による「日本弱体化政策」の実行

 大東亜戦争、アメリカの言葉で言えば太平洋戦争 ( 第二次世界大戦 ) で、連合国と戦ったのは「日独伊」の3ヶ国でした。イタリアは早く降伏し連合国側につきましたので、最後まで戦ったのは日本とドイツでした。

 連合国軍は勝利の後、日本とドイツを徹底的に痛めつけ、再び連合国と戦争ができない国にしました。それでも同じ白人国で、キリスト教という共通基盤のあるドイツは、NATOの加盟国として迎え入れました。

 しかし欧米諸国と異なる文明と歴史を持つ日本は、アメリカにとって異質の国であり、いつ何をするか分からない危険な国でした。だからアメリカは日本を属国にし、米軍基地を全国に130ヶ所も作らないと安心できませんでした。

 「日本の防衛は米軍がする」と日本政府には語り、中国に対してはキッシンジャーが「日本にある米軍基地は中国に敵対しているのでなく、日本を暴発させないための監視役、つまり瓶の蓋」だと説明していました。

 何をするか分からない国への普段の監視と弱体化計画は、アメリカの変わらない対日方針ではなかったのか。彼らの根底にあるのは、「恨みと憎しみ」でなく、「危機感」と「恐怖心」ではないかと「ねこ庭」は考えています。

 「恨みと憎しみ」が根底にあると、中国や韓国・北朝鮮のように外交姿勢に、激しい「批判と攻撃」が全面にでます。「危機感」と「恐怖心」が根底にありますと、「批判と攻撃」でなく、「妥協と懐柔」が先に出てきますのでむしろ厄介です。

 結果として米国には国民の間に、中国や韓国・北朝鮮政府に対するような敵対心が生まれませんでした。

 このことが、上記三段階の検討作業を進める上で、息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々からの理解を得にくくしている気がします。

 アメリカの関与を「三段階」に分けたのには、根拠があります。
 
    〈 第一段階 〉
  
    ・東洋の小国と侮っていた日本が欧米諸国と互角の戦争をし、多大の犠牲を強いたことへの危機感と恐怖心のため、占領政策で徹底的な弱体化を図らずにおれなかった。
 
    ・そうしないと、再びアジアの強国となってアメリカに挑んでくる危機感と恐怖心が消せなかった。
 
   〈 第二段階 〉
 
    ・全国が焼け野原となる壊滅的な被害を受け、耐乏生活に苦しんでいたはずの日本が、短期間で奇跡的な復興を遂げ世界第2位の経済大国となった。
 
    ・中国と政治・経済面で良好な関係を作り、さらに力を伸ばそうとしている。
 
    ・このままにしておくと、世界第一位のアメリカの地位が脅かされる。
 
    ・日本製品がアメリカの市場に溢れ、対日貿易赤字が増大する一方なので、対策を打たねばならないと危機感を抱いた。
 
      〈 第三段階 〉
 
    ・第二段階の関与で、日本経済に制約をかけ、米国優位を確立することができたが、安倍首相が「戦後レジームからの脱却」「アメリカからの独立」を実行し始めた。
 
    ・「憲法改正」による軍の再建と、「皇室典範改正」による11宮家の皇籍復帰で、崩壊させようと考えている皇室の再建をしようとしている。
 
    ・安倍首相の率いる派閥は党内最大派閥なので、このまま放任していると日本がアメリカの属国でなくなる日が来る。
 
    ・これは、アメリカの「対日方針」に対する敵対行為である。

 結論を先に述べてしまいましたが、敗戦後の日本に対しアメリカがなり振り構わず関与してきたのが、前記三回であると「ねこ庭」は分析しています。

 多くの日本国民に、「アメリカの三つの関与」が伝わらないのは、アメリカがGHQ時代に作り上げた仕組みが生きているからです。

 気づいている国民もいますが、「報道しない自由」を駆使し、アメリカに都合の悪いニュースを日本の大手メディアは伝えません。

  これには、シリーズの22回で紹介した事実が役に立ちます。アメリカ国立公文書館で「プレスコード」を調べた江藤氏が、次のように説明していました。
 
  ・「プレスコード」による検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられる。
 
  ・GHQの新しいタブーを受容し、日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき、「新たな危険の源泉」に自ら変質させられていく。
 
  ・この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。
 
 言葉は難しいのですが、内容は簡単です。GHQの厳しい「検閲」を逃れるには、プレスコードを受け入れ、これに違反しないような報道をすれば良いのである 。
 
 しかしこんなことを続けていると、ミイラ取りがミイラになり、結局この姿勢が戦後もそのまま生きていくことになる、という意味です。日本の大手メディアは、GHQ時代の「プレスコード」で変質させられたままでないのか、と氏が解説しています。
 
 結論の一部を先に述べてしまいましたが、次回から 〈第二段階〉の具体的な検討をしていきます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする