両論併記を実行するため、ウィロビー少将が行った「プレスコード」について予定外の紹介をします。
・この事実は当時の一般の大衆には知らされず、出版・報道関係者以外に存在が広く認知されたのは後の事である。
( 注 : 出版・報道関係者には、学校の同窓会誌・村の青年会誌などのミニ・メディア関係者なども含む。)
・「プレスコード」( 日本新聞遵則 )は、映画遵則もこれに準拠した。
・「プレスコード」は、昭和27 ( 1952 ) 年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効により失効。
・「プレスコード」などの検閲を主に担当したCCDが収集した資料( 全刊行物を含む)は、メリーランド大学のプランゲ文庫に保管されている。
ここまでの説明で分かったことは、アメリカによる広島・長崎の原爆投下や、各都市への無差別爆撃が、「プレスコード」によって報道禁止になっていたという事実です。これで、当時の国民が何も知らなかった理由が分かりました。
出版・報道関係者だけが知っていたと説明されていますが、なぜ彼らが口をつぐんで語らなかったのかについては、後で述べます。
ウィロビー少将が中心となった実行した「情報統制」は、「ねこ庭」が思っていたような単純な統制でなく、占領軍の力を背景にした全国的鉄の統制でした。
ホイットニー准将が押しつけた「日本国憲法」は今も日本国民の桎梏となっていますが、ウィロビー少将が全国に張り巡らせた「プレスコード」の遺産も、「トロイの木馬」となって生き続けていました。
GHQが残した負の遺産として、「ねこ庭」の過去記事で「トロイの木馬」を何度も取り上げてきましたが、この木馬を作ったのはホイットニー准将とウィロビー少将でした。
ここまで説明すれば、ウィロビー少将が日本を理解した人物と誤解する人はいなくなり、両論併記の目的を達したことになります。しかし学徒である「ねこ庭」は、「プレスコード」がどういうものであったのかについてさらに検討しました。
賀屋興宣氏に習い、「恨みと憎しみ」に立たない姿勢で、検討の結果を息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々にお伝えしたいと思います。「戦後日本史の大河」に関心のある方、というより愛国心のある方は次回も足をお運びください。
お待ちしています。