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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

歴史的な選挙、目的の再確認 - 26 ( 木下順二氏 ? )

2024-11-12 22:25:34 | 徒然の記

 今回は、山本武利名誉教授が公表したもう一人の著名人の検討作業です。平成30年2月に氏が発表した論文のタイトルに、名前がそのまま出ています。

 『 GHQの検閲者 Kinoshita  Junjiは、あの木下順二か。』

 平成20年に米国NPO法人「インテリジェンス研究所」が公開した『CCD雇用の日本人名一覧』を元に、氏が書いた論文です。

 タイトルにある通り、木下順二氏の過去を調査した論文ですから、詳細で長文です。全部は検討できませんので必要な部分だけを紹介し、以下作業を進めることにしました。
 
  ・1万4千名の名簿はローマ字と数字で記載され、日本名の特定が困難を極め、150名の日本名を確定したに過ぎない。
 
 論文には「名簿」の写真が掲載されていますが。びっしりと並んだローマ字と数字は、名簿と言われなければ単なる文字の羅列としか見えません。どのようにして解読したのか、150名を確定しただけでも大したものです。
 
  ・木下は東京中央郵便局で、10名ほどの日本人検閲者を監督・統括する副検閲監督官だった。
 
  ・退職は昭和24年9月で、2年7ヶ月の勤務だった。
 
  ・部下が訳した英文をチェックし、上司のアメリカ人に渡すのが役目で日本人では最高のポストだった。
 
  ・私は5年前に Kinoshita  Junji を、著名な劇作家、進歩的評論家・木下順二であると思った。
 
  ・木下には、任務と作家活動をそつなくこなせる実務能力と処世術が、十分あったと思われる。
 
  ・木下は、検閲体験の秘密保持のための予防体制を作っていて、一切の彼の著述に反映させなかった。
 
 ここまで読んで疑問を感じたのは、公開された名簿にある「 Kinoshita  Junji 」を、木下順二氏であるとする根拠が十分に説明されていないことです。氏は一橋大学だけでなく早稲田大学の名誉教授でもあり、立派な肩書きを持っていますが何となく信頼が薄れてきます。
 
 木下氏の『夕鶴』は、佐渡の民話「鶴のおつう」を脚本化した悲話です。氏に悪印象を持っていなかったせいもあり、俄かに信じられない説明でしたのでウイキペディアで経歴を調べました。
 
 〈 木下順二氏の経歴 〉
 
  ・大正3年東京都生まれ、平成18年92才で没
 
  ・劇作家、評論家、代表作に『夕鶴』がある。日本劇作家協会顧問
 
  ・著名な進歩的文化人、戦後民主主義者であった。
 
  ・昭和16年東京大学大学院文学部卒業、第二次世界大戦終了後。明治大学講師となる。
 
  ・昭和22年、山本安英らと劇団『ぶどうの会』を結成。
 
  ・昭和24年、『婦人公論』に『夕鶴』を発表、毎日演劇賞を受賞。
 
 「日本国憲法」を亡国の憲法と考える「ねこ庭」は、「憲法改正」を信条としていますので、「戦後民主主義」という言葉にひっかかりました。ネットで確認すると、次のように書いてあります。
 
  ・「戦後民主主義」が尊重した共通の価値として、「日本国憲法」に示された国民主権(主権在民)、平和主義、基本的人権の尊重が挙げられるだろう。
 
  ・その点で「戦後民主主義」は、日本国憲法を背景にしていたと言える。
 
 「戦後民主主義者」として記憶にある人物は、大江健三郎氏です。どうしても好感が持てない反日左系の作家ですが、木下氏が同じ思想を持つ人物だった知るのは意外でした。
 
 山本氏の説明を続けます。
 
  ・木下の勤務を知っているはずの山本安英にも、語らせなかった。
 
  ・占領期のCCDでの行為をアメリカに暴露されると、戦後に築いた進歩的文化人や作家としての地位や名誉が失われることを恐れて、沈黙したのかもしれない。
 
 根拠の明確でない山本名誉教授の説明を信じるのか、「戦後民主主義者」である木下氏を疑うのか。「ねこ庭」は判断に迷います。
 
 ちょうど良い具合にスペースがなくなりましたので、少し休憩をとって続きを次回と致します。
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歴史的な選挙、目的の再確認 - 25 ( CCD勤務の著名人 )

2024-11-12 13:26:34 | 徒然の記

 末岡氏と山本名誉教授が、それぞれ一人ずつ公表した2人の著名な人物について検討したいと思います。

 山本氏の紹介はそれだけで長い論文になっていますが、末岡氏は内容の重大さに比較すると、呆気ないほど短い文章です。

  ・また、CCDで検閲に従事した約5100人の日本人のリーダー格が、戦後の初代NHK会長に就任する社会統計学者、かつ社会主義者の高野岩三郎であった。

  ・言論と報道の自由の中心であるはずのNHKの会長が、占領軍による検閲という言論弾圧に加担していたのである。

 高野氏の名前は学生時代から立派な学者と聞いていましたが、 どのような人物であるのかは知りませんでした。「ねこ庭」で取り上げたこともなく、NHKとの関係を考えたこともありませんでした。

 とんでもない人物がNHKの会長になったと非難するような文章に驚き、ウィキペディアで略歴を調べ今度は本当に驚きました。

 〈 高野岩三郎氏の略歴 〉
 
  ・明治4年9月長崎県生まれ、昭和24年4月78才で没。社会統計学者、社会運動家
 
  ・明治28年東大卒業後ミュンヘン大学で統計学を学び、東京帝国大学法科大学助教授(統計学)となる。
 
  ・後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派として活動。
 
  ・弟子には森戸辰男、大内兵衛、舞出長五郎など、のちに著名となる多くのマルクス経済学者がいる。
 
 大内兵衛氏の名前を見た時、「ねこ庭」がした氏へのを酷評を思い出しました。探してみると7年前に取り上げていましたので、記事の一部を紹介します。
 
 以下長い引用になりますが、そうする方が驚いた理由が分かるのではないかと思います。

   ・反日左翼の「憲法問題研究会」の代表である大内氏は、大正・昭和初期において、一流のマルクス経済学者で、財政学が専門でした。ネットで調べた経歴がありますので紹介します。

    ・明治21年に兵庫県で生まれ、昭和55年に92才で逝去。

    ・大正2年に東京帝国大学経済学科を首席で卒業し、銀時計を受領。

    ・銀時計とは明治維新から第二次大戦まで、国立大学の成績優秀者に天皇臨席の卒業式で与えられた。

    ・至高の名誉とみなされ、授与された者は「 銀時計組 」 と呼ばれた。

    ・大蔵省の書記官を経て、大正8年に新設された東大経済学部に着任。

    ・在任中は労農派の論客として活躍し、大正9年森戸事件に連座し失職するが数年後に復職。

     ・東大退官後は、法政大学の総長としてますます社会主義活動に精を出し、今日まで続く反日左翼の法政大学の基礎を固めた。

  ・氏の悪名は知っていますが、著作を読むのは初めてでした。学究の徒で真摯な学者と信じていたのに、見事なまでに裏切られました。

 著書名は『青年の山脈』( 昭和41年刊 徳間書店 ) で、書評のブログでした。本の内容は、幕末から明治維新にかけて活躍した勤皇の志士たちの話です。

  ・銀時計組だけあり、大切な事実から詰まらない話まで驚くほどの博識でした。しかし感心したのはそこまでで、後はもう読むに堪えない低俗さでした。

  ・何才の時に書いた本なのか知りませんが、幕末の争いを、全学連の活動と重ねているお粗末さに失望します。

  ・要するにこのボケ老人は、こともあろうに幕末の騒乱を、ソ連の革命騒ぎと同じレベルで見ているということです。

 過激で汚い言葉を使っていますが、7年前は「恨まず、憎まず」という賀屋興宣氏の姿勢を学ぶ前でしたので、ご容赦ください。

  ・反日・左翼の全学連どもは国を否定し、国を憎み蔑み、社会主義ソ連を祖国と信じ、過激な暴力活動をしていました。

  ・こんな全学連の売国学生と、勤王の志士たちを同列にするなど、バカも休み休み言えと言いたくなります。氏の認識の低劣さに、怒りを通り越して苦笑します。

  ・文章は分かりやすく洒落が混じり、それこそ、バカにでも読める大衆小説のような語り口です。

 東大総長になった氏を今ならこのように酷評しませんが、何しろ7年前の過去記事ですから、ご理解いただきたいと思います。

  ・根気よく最後まで読みましたが、「天下の悪書」というに相応しい愚劣さでした。上野の本牧亭では人気の講談師が、今でも昔の話を面白おかしく喋っています。

  ・氏は教授や学者でなく、講談師にでもなればよかったと思えてなりません。そうすればこれほど敗戦後の日本を汚さずに、笑いの毒気が上野あたりだけで済んだでしょうに。残念な話です。

  ・氏は戦後最悪の「獅子身中の虫」の親玉ですから、己の悪行を、何度でも世間にさらされる必要があります。

  ・東大や法政大学で、氏の教えをひたすら守っているバカな教授たちが、目を覚ましてくれたらと期待するのですが・・・きっと無理でしょう。愚痴はここまでとし、氏の過去を紹介します。

  ・GHQ占領時の「東京裁判」で、氏は連合国側に立ち証人として出席した。

  ・裁判は、日本の軍国主義教育の実態や教育者への弾圧、言論機関への抑圧、警察権力を駆使した圧制や脅迫などにより、侵略戦争がいかに準備されたかの立証に、主眼におかれていた。

   ・つまり氏は宮沢俊義氏同様、「 GHQに絡め取られた学者 」である。というより、 自ら積極的に協力した「売国の学者」でした。

  ・宮沢氏と違うのは、最初から最後までマルクス主義者で通し、変節しなかったところでしょうか。

  ・昭和30年にソ連・中国学術視察団の旅を経て、氏が語った言葉も紹介しておきたいと思います。

  「私も社会主義を勉強すること実に40年であるが、社会主義がユートピアであるか、科学であるか、今まではっきり分からなかった。」

  「しかしここへ来て、いろいろの見学をして、それが科学であることがしかと分かった。」

  「ロシアの経済学は、二十世紀の後半において、進歩的な特色のある学問として、世界の経済学界で、相当高い地位を要求するようになるだろう。」

  「こういう歴史の変革のうちに、経済学者としていよいよ光彩を加える名は、レーニンとスターリンでありましょう。」

 「過去記事」は長いのでこの辺りで省略しますが、酷評した大内氏が高野岩三郎氏の弟子だったというのですから、「ねこ庭」の驚きが分かって貰えたのではないでしょうか。つまり高野氏は、「獅子身中の虫」の親玉である大内氏の、更に大親玉でした。

 話を元に戻し、高野氏の経歴の続きをウィキペディアから紹介します。

  ・GHQによる厳しい検閲に協力したのが高野であり、このことが、高野の戦後初代NHK会長就任につながっている。

  ・NHKの会長に就任した高野は就任挨拶で、「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指した。

  ・だがこれは、GHQの占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。

  ・彼は日本統計学会初代会長、日本社会党の顧問でもあった。

 しかしこの流れは末岡氏の指摘通り、現在も何も知らない国民を誘導する原点になっている気もします。

  ・言論と報道の自由の中心であるはずのNHKの会長が、占領軍による検閲という言論弾圧に加担していたのである。

 検討作業をしていると、様々な事実を再発見します。次回は、山本氏が公表したもう一人の著名人の話です。

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