過去に何回か取り上げていますが、「保守合同」は懐かしい言葉です。今回はウィキペディアの説明をもとに検討します。
・保守合同とは昭和30年11月15日に、保守政党であった自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されたこと。
・これに先立って社会党再統一が行われていたことから、保守政党と革新政党のそれぞれに大政党が誕生することとなり、55年体制が成立した。
「55年体制」という言葉も、懐かしい響きです。当時の世相で言えば共産党は「革新政党」でなく、「過激派暴力組織」という認識だったのでしょうか。革新政党の本命であるはずの同党は、現在同様に保守政党と革新政党の双方から忌避されています。
ウィキペディアの解説ページに、保守合同を進めた政治家の古びた写真が掲載されていて、歴史的な印象がありますので説明文を紹介します。
「合同に向け永田町グランドホテルで会談を行う、自由党と日本民主党の指導部」
( 昭和30 ( 1955 ) 年夏。左から、大野伴睦、三木武吉、岸信介、石井光次郎 )
よくよく眺めますとどの人物も権謀術策の士で、一癖も二癖もありそうな政治家です。「狐と狸の化かし合い会談」みたいに見えてきますが、ウィキペディアは真面目なのでそんな説明はしません。
・終戦直後から、社会主義勢力の台頭を危惧する保守政治家の間で、戦前の二大政党であった立憲政友会系政治家と立憲民政党系政治家が結集して、新党を結成する構想が出された。
・政友会系はかって同党の総裁候補とされていた鳩山一郎を代表に担ごうと考え、戦時中の翼賛議会で鳩山とともに軍部と戦った、民政党系の三木武吉が構想の実現に奔走した。
過去記事のどこかで検討したはずですが、保守合同が実現するまでの前段階は結構複雑で、詳細をすっかり忘れています。概要が分かれば良いだけなので、気にせず先を読んでいきます。
・だが民政党系の多くは、党首の経験の無い鳩山よりも自党の最後の総裁であった町田忠治が党首に相応しいと主張します。
・鳩山を初代総裁として政友会系を中心に結成された日本自由党( 後の「自由党」)は、昭和21 ( 1946 ) 年の第22回衆院選で第一党となった。
・ところが直後に鳩山・三木以下幹部の多くが、公職追放の対象となってしまう。
・そこで自由党は、占領軍に受けの良い親英米派の外務大臣・吉田茂を総理・総裁に擁立し、危機を乗り越えようと考えたのである。
敗戦直後の混乱とGHQへの対応で、政界が大揺れ状態ですから、概要を知ろうと思っても簡単でありません。わかっても分からなくても、ウィキペディアの解説を読みます。
・鳩山派の考えに反して吉田は鳩山の公職追放解除後も、政権は私物ではないとして、鳩山への政権移譲を拒絶する。
・この頃には鳩山から任された自由党は、結成当初とはかけ離れたものとなっており、官僚出身の親吉田派の若手議員が多数を占めていた( 吉田学校 )。
この辺りになりますと、過去記事を思い出します。いよいよ自由党と日本民主党の話になります。
・吉田が、鳩山の病気を口実に緒方竹虎を後継者にする事を決め、これをきっかけに「自由党」は吉田支持派( 官僚派中心 )と、鳩山支持派( 党人派中心 )に分裂する。
・昭和29 ( 1954 ) 年、鳩山は三木武吉・河野一郎・岸信介らとともに、吉田に不満を持つ「自由党」内の同志や野党の改進党など、他の保守系政党と大同団結を図って「日本民主党」を結成した。
・一方、残った自由党内でも吉田の「ワンマン」手法に対し、国民の不満が高まっている事を感じた幹部たちは、緒方を中心に吉田に退陣を勧告した。
・ここに至って吉田も内閣総辞職を決断して、自由党総裁を緒方に譲った。
この辺りの潔さは、政権に居座り続ける石破氏に見習って欲しい決断です。
・だが、国会での首班指名選挙では、鳩山が緒方を破り第一次鳩山内閣が成立した。
面倒なのでウィキペディアの説明文を省きますが、要するに「保守合同」とは、「自由党」にまとまっていた保守政治家が内部分裂して、「自由党」と「日本民主党」に分かれ、それがもう一度一つになったという話です。
結党したと言っても、内部はまだ不安定でしたから、ウィキペディアが次のように説明しています。
・結党当初の自民党は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な人間関係、思想対立の要素が絡んでおり、決して磐石であるとはいえなかった。
・保守合同した当時、三木武吉は自民党について「10年持てば」と言い、松村謙三は「30年後には崩壊する」と予想した。
GHQの統治がなくなった直後に、内紛を抱えた中で作られた自由民主党の「立党宣言・綱領」」でした。「狐と狸の化かし合い会談」と陰口を叩いた軽率さを、反省させられます。
権謀術策の政治家だったとしても、ご先祖は国益を第一に行動しています。個人の権勢欲を優先し、党勢を失う動きをしている岸田、菅、麻生氏とは違っています。
今は亡きご先祖の精神の強さと愛国心を教えられますと、やはりおろそかにできない「立党宣言・綱領」ではないでしょうか。
次回は、残りの〈 党の性格 〉〈 党の使命 〉〈 党の政綱 〉の検討作業に戻ります。