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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

自由民主党の「立党宣言・綱領」- 7 ( かすかに顔を出した保守の本音 )

2024-11-24 14:27:40 | 徒然の記

  〈 立党宣言 〉〈 綱領 〉〈 党の性格 〉〈 党の使命 〉〈 党の政綱 〉  

 今回からは、青色表示の項目について検討作業に入ります。

 〈 党の性格 〉

 この項目はシリーズの3回目で述べましたように、保守合同して出来立ての党なので「党のPR」です。おおきな活字で強調していますが、そのまま紹介します。

 広いスペースを使っていますけれど、「憲法改正」と「皇室護持」を暗示する言葉はありません。共産主義政党に対する拒絶の意思が、強く主張されているだけです。

 一、 わが党は、国民政党である

 わが党は、特定の階級、階層のみの利益を代表し、国内分裂を招く階級政党ではなく、信義と同胞愛に立って、国民全般の利益と幸福のために奉仕し、国民大衆とともに民族の繁栄をもたらそうとする政党である。

 ニ、 わが党は、平和主義政党である

 わが党は、国際連合憲章の精神に則り、国民の熱願である世界の平和と正義の確保及び人類の進歩発展に最善の努力を傾けようとする政党である。

 三、 わが党は、真の民主主義政党である

 わが党は、個人の自由、人格の尊厳及び基本的人権の確保が人類進歩の原動力たることを確信して、これをあくまでも尊重擁護し、階級独裁により国民の自由を奪い、人権を抑圧する共産主義、階級社会主義勢力を排撃する。

 四、 わが党は、議会主義政党である

 わが党は、主権者たる国民の自由な意思の表明による議会政治を身をもって堅持し発展せしめ、反対党の存在を否定して一国一党の永久政治体制を目ざす極左、極右の全体主義と対決する。

 五、 わが党は、進歩的政党である

 わが党は、闘争や破壊を事とする政治理念を排し、協同と建設の精神に基づき、正しい伝統と秩序はこれを保持しつつ常に時代の要求に即応して前進し、現状を改革して悪を除去するに積極的な進歩的政党である。

 六、 わが党は、福祉国家の実現をはかる政党である

 わが党は、土地及び生産手段の国有国営と官僚統制を主体とする社会主義経済を否定するとともに、独占資本主義をも排し、自由企業の基本として、個人の創意と責任を重んじ、これに総合計画性を付与して生産を増強するとともに、社会保障政策を強力に実施し、完全雇用と福祉国家の実現をはかる。
 
 敗戦後の「日本史の大河」の流れの中で、ご先祖が何を語ろうとしていたのか、考えなくても読めば分かります。ここに書かれているのは、「東京裁判史観」を下敷きにし本音を傍に置いた民主主義国家宣言です。
 
 〈 党の使命 〉
 
 この項目についてはシリーズの3回目に、「敗戦の初期の占領政策の過誤と、社会主義勢力台頭の危機感への言及」であると説明しました。
 
 息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々に、項目の最後に書かれている2行に注目されることをお勧めします。ご先祖が心血を注がれた一文であると理解しました。
 
 ・世界の情勢を考え、国民の現状を省み、静かに祖国の前途を思うに、まことに憂慮にたえぬものがあり、今こそ、強力な政治による国政一新の急務を痛感する。
 
 ・原子科学の急速な進歩は、一面において戦争回避の努力に拍車を加え、この大勢は、国際共産勢力の戦術転換を余儀なくさせたが、その終局の目標たる世界制圧政策には毫も後退なく、特にわが国に対する浸透工作は、社会主義勢力をも含めた広範な反米統一戦線の結成を目ざし、いよいよ巧妙となりつつある。
 
 ・国内の現状を見るに、祖国愛と自主独立の精神は失われ、政治は昏迷を続け、経済は自立になお遠く、民生は不安の域を脱せず、独立体制は未だ十分整わず、加えて独裁を目ざす階級闘争は益々熾烈となりつつある。
 
 ・思うに、ここに至った一半の原因は、敗戦の初期の占領政策の過誤にある。
 
 ・占領下強調された民主主義、自由主義は新しい日本の指導理念として尊重し擁護すべきであるが、初期の占領政策の方向が、主としてわが国の弱体化に置かれていたため、憲法を始め教育制度その他の諸制度の改革に当り、不当に国家観念と愛国心を抑圧し、また国権を過度に分裂弱化させたものが少なくない。
 
 ・この間隙が新たなる国際情勢の変化と相まち、共産主義及び階級社会主義勢力の乗ずるところとなり、その急激な台頭を許すに至ったのである。
 
 ・他面、政党及び政治家の感情的対立抗争、党略と迎合と集団圧力による政治、綱紀紊乱等の諸弊が国家の大計遂行を困難ならしめ、経済の自立繁栄を阻害したこともまた反省されねばならぬ。

 ・この国運の危機を克服し、祖国の自由と独立と繁栄を永遠に保障するためには、正しい民主主義と自由を擁護し、真に祖国の復興を祈願する各政党、政治家が、深く自らの過去を反省し、小異を捨てて大同につき、国民の信頼と協力の基盤の上に、強力な新党を結成して政局を安定させ、国家百年の大計を周密に画策して、これを果断に実行する以外に途はない。
 
 ・わが党は、自由、人権、民主主義、議会政治の擁護を根本の理念とし、独裁を企図する共産主義勢力、階級社会主義勢力と徹底的に闘うとともに、秩序と伝統の中につねに進歩を求め、反省を怠らず、公明なる責任政治を確立し、内には国家の興隆と国民の福祉を増進し、外にはアジアの繁栄と世界の平和に貢献し、もって国民の信頼を繋ぎ得る道義的な国民政党たることを信念とする。
 
 ・而して、現下政治の通弊たる陳情や集団圧力に迎合する政治、官僚の政治支配、政治倫理の低下の傾向等を果敢に是正し、国家と国民全体の利益のために、庶政を一新する革新的な実行力ある政党たることを念願するものである。

 ・わが党は右の理念と立場に立って、国民大衆と相携え、第一、国民道義の確立と教育の改革 第二、政官界の刷新 第三、経済自立の達成 第四、福祉社会の建設 第五、平和外交の積極的展開 第六、現行憲法の自主的改正を始めとする独立体制の整備を強力に実行し、もって、国民の負託に応えんとするものである。
 
 次回は最後の項目、〈 党の政綱 〉になります。
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自由民主党の「立党宣言・綱領」- 6 ( 保守合同 )

2024-11-24 09:34:11 | 徒然の記

 過去に何回か取り上げていますが、「保守合同」は懐かしい言葉です。今回はウィキペディアの説明をもとに検討します。

  ・保守合同とは昭和30年11月15日に、保守政党であった自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されたこと。

  ・これに先立って社会党再統一が行われていたことから、保守政党と革新政党のそれぞれに大政党が誕生することとなり、55年体制が成立した。

 「55年体制」という言葉も、懐かしい響きです。当時の世相で言えば共産党は「革新政党」でなく、「過激派暴力組織」という認識だったのでしょうか。革新政党の本命であるはずの同党は、現在同様に保守政党と革新政党の双方から忌避されています。

 ウィキペディアの解説ページに、保守合同を進めた政治家の古びた写真が掲載されていて、歴史的な印象がありますので説明文を紹介します。

 「合同に向け永田町グランドホテルで会談を行う、自由党と日本民主党の指導部」

 ( 昭和30 ( 1955 ) 年夏。左から、大野伴睦、三木武吉、岸信介、石井光次郎 )

 よくよく眺めますとどの人物も権謀術策の士で、一癖も二癖もありそうな政治家です。「狐と狸の化かし合い会談」みたいに見えてきますが、ウィキペディアは真面目なのでそんな説明はしません。

 ・終戦直後から、社会主義勢力の台頭を危惧する保守政治家の間で、戦前の二大政党であった立憲政友会系政治家と立憲民政党系政治家が結集して、新党を結成する構想が出された。

 ・政友会系はかって同党の総裁候補とされていた鳩山一郎を代表に担ごうと考え、戦時中の翼賛議会で鳩山とともに軍部と戦った、民政党系の三木武吉が構想の実現に奔走した。

 過去記事のどこかで検討したはずですが、保守合同が実現するまでの前段階は結構複雑で、詳細をすっかり忘れています。概要が分かれば良いだけなので、気にせず先を読んでいきます。

 ・だが民政党系の多くは、党首の経験の無い鳩山よりも自党の最後の総裁であった町田忠治が党首に相応しいと主張します。

 ・鳩山を初代総裁として政友会系を中心に結成された日本自由党( 後の「自由党」)は、昭和21 ( 1946 ) 年の第22回衆院選で第一党となった。

 ・ところが直後に鳩山・三木以下幹部の多くが、公職追放の対象となってしまう。

 ・そこで自由党は、占領軍に受けの良い親英米派の外務大臣・吉田茂を総理・総裁に擁立し、危機を乗り越えようと考えたのである。

 敗戦直後の混乱とGHQへの対応で、政界が大揺れ状態ですから、概要を知ろうと思っても簡単でありません。わかっても分からなくても、ウィキペディアの解説を読みます。

 ・鳩山派の考えに反して吉田は鳩山の公職追放解除後も、政権は私物ではないとして、鳩山への政権移譲を拒絶する。

 ・この頃には鳩山から任された自由党は、結成当初とはかけ離れたものとなっており、官僚出身の親吉田派の若手議員が多数を占めていた( 吉田学校 )。

 この辺りになりますと、過去記事を思い出します。いよいよ自由党と日本民主党の話になります。

 ・吉田が、鳩山の病気を口実に緒方竹虎を後継者にする事を決め、これをきっかけに「自由党」は吉田支持派( 官僚派中心 )と、鳩山支持派( 党人派中心 )に分裂する。

  ・昭和29 ( 1954 ) 年、鳩山は三木武吉・河野一郎・岸信介らとともに、吉田に不満を持つ「自由党」内の同志や野党の改進党など、他の保守系政党と大同団結を図って「日本民主党」を結成した。

 ・一方、残った自由党内でも吉田の「ワンマン」手法に対し、国民の不満が高まっている事を感じた幹部たちは、緒方を中心に吉田に退陣を勧告した。

 ・ここに至って吉田も内閣総辞職を決断して、自由党総裁を緒方に譲った。

 この辺りの潔さは、政権に居座り続ける石破氏に見習って欲しい決断です。

 ・だが、国会での首班指名選挙では、鳩山が緒方を破り第一次鳩山内閣が成立した。

 面倒なのでウィキペディアの説明文を省きますが、要するに「保守合同」とは、「自由党」にまとまっていた保守政治家が内部分裂して、「自由党」と「日本民主党」に分かれ、それがもう一度一つになったという話です。

 結党したと言っても、内部はまだ不安定でしたから、ウィキペディアが次のように説明しています。

 ・結党当初の自民党は吉田派・反吉田派、党人派・官僚派、戦前派・戦後派など複雑な人間関係、思想対立の要素が絡んでおり、決して磐石であるとはいえなかった。

 ・保守合同した当時、三木武吉は自民党について「10年持てば」と言い、松村謙三は「30年後には崩壊する」と予想した。

 GHQの統治がなくなった直後に、内紛を抱えた中で作られた自由民主党の「立党宣言・綱領」」でした。「狐と狸の化かし合い会談」と陰口を叩いた軽率さを、反省させられます。

 権謀術策の政治家だったとしても、ご先祖は国益を第一に行動しています。個人の権勢欲を優先し、党勢を失う動きをしている岸田、菅、麻生氏とは違っています。

 今は亡きご先祖の精神の強さと愛国心を教えられますと、やはりおろそかにできない「立党宣言・綱領」ではないでしょうか。

 次回は、残りの〈 党の性格 〉〈 党の使命 〉〈 党の政綱 〉の検討作業に戻ります。  

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