石原慎太郎氏著「殺人教室」(昭和34年刊 新潮社)、を読み終えた。
ずいぶん昔の本だ。氏が、芥川賞を受賞したのが、昭和31年だから、本はその3年後、27才頃のものだ。先日氏が、67才で書いた「国家なる幻影」には、率直な感想を述べたが、今回は気が乗らない。
「国家なる幻影」は、政治家としての主張なので、それなりの意見を言えたが、「殺人教室」は文学作品であり、感性の話だ。芸術を理解するかという、リトマス紙みたいな面があるので、躊躇する。もし自分が30、40代だったら、世間的配慮から、きっと遠慮深い意見を述べたに違いない。
芥川賞を、大学在学中に受賞しただけでも、注目の人だったのに、福田内閣で環境庁長官、竹下内閣で運輸大臣と、衆議員議員を9期勤め、さらに都知事を4期務めた。氏が実施した数々の政策は、今も語り継がれるほどのもので、解説するだけでブログが終わる。
平成元年に、盛田明夫氏と共著で出版した、「NOと言える日本」は、保守政治家としての氏を確立した。
けれども、私はやはり、自らの心に忠実に生きたいから、この作品について、正直な感想を述べることとする。
この本は、五つの短編で構成され、「殺人教室」はその中の一編だ。詳しい話は後でするとして、政治家でなく、文学者としての、氏の作品に関する私の評価は、ゼロだ。「ファンキー・ジャンプ」「ともだち」「殺人教室」「殺人キッド」「男たち」の五編は、私の趣味に合わない低俗さだ。簡単に言えば、その一言で終わる。
27才の氏は、本の後書きでこう述べている。
「僕は、この作品集には自信がある。」「成功、不成功は不問にして、ここに集めた作品は、ひとつひとつ、」「僕自身の、作家としての、developmentの指標になるはずだ。」「ある批評家は、僕に関して " もう限界だ " などとぬかした。」「たいていの悪口は我慢できるが、ああした皮相なものの言い方は、我慢がならない。」
氏の自信作について、それぞれ簡単な粗筋を紹介しよう。
「ファンキー・ジャンプ」は、ジャズバンドのメンバーである、天才的ピアニスト・タツノの話だ。麻薬に溺れ、酒で胃をダメにし、ぼろぼろになった彼が、満員の聴衆を前に渾身の演奏をする。
体の衰弱からくる妄想と、ピアニストとしての熱狂と、絶え間ない囘想と、自問自答の中で、物語が進行する。読者である私は、何が何やらチンプンカンプンだ。話の最後は、観客の興奮と熱狂のなかで、タツノも狂人となって行く。そんな話だ。
「ともだち」は、二人だった。一人は学生時代の友だった武井だ。同居生活の二人は、話し合い、相談しあう仲だった。しかし久しぶりに遭遇した武井は、投げ槍になり、世間を斜めに見、酒に溺れていた。
もう一人の友は、盛りを過ぎたボクサーだ。武井と別れた後、入った寿司屋でデレビを見ていたら、友であるボクサーが闘っていた。見るに堪えない試合で、若い相手に負けたと見えたのに、判定勝ちになった。二人の友は、どちらも、辛い悲しい生活を背負っていた。
「僕は疲れていた。その夜が虚しかった。」「仕方がない、いや、それでもいい、と思った。」「そして、みんなともだちだ ! 」これが締めくくりの言葉だ。
「殺人教室」は、若い頃の氏を連想させる、四人の学生の話だ。身体強健、学術優秀、経済的に恵まれた彼らは、非の打ち所のない若者たちだ。しかし彼らは、こうした境遇の者に有り勝ちな、心の病に罹っている。持て余す退屈さだ。平凡に過ぎ行く日々が、我慢ならず、生きている印のない日々が、嫌悪すべきものとなる。
共通の趣味が射撃で、腕前は揃って超一流だ。彼らは一念発起し、素晴らしい銃を完成させる。遥か彼方まで飛ばせる銃身と、遠方まで照準を合わせられるスコープと、音もなく発射する銃砲だ。彼らはこの銃を使い、ゲーム感覚で殺人を開始する。
今で言う無差別殺人だ。飽き足らなくなった彼らは、どうせやるのなら、罪のない人間を対象にせず、社会に害を為す者たちを殺そうと、計画する。そうなると、ターゲットは政治家になる。やがて彼らは、新聞のヒーローとなり、社会を動かすという快感を知る。しかし、ある時、そんな彼らが、誤って仲間の一人である東郷を撃ち殺してしまう・・と、ここで話が終わりだ。終わりの文句が、実にくだらない。
「東郷には可哀想だが、いいきりだった。」
「何をしよう、これから。」「もうじき試験だよ。大丈夫なのかい。」
「そうだな、少し頑張らないと苦しいな。」「不幸だね、みんなさ。」
そんなため息をつき三人は顔を見合わせた。
「またきっと、退屈だろうなあ。」
「試験が終わったら・・・・・」「何をしよう。」
「なにをしようか・・・・」
知的な飾りのように、哲学や政治が語られるが、それこそ、皮相な若者のたわ言でしかない。その次の殺人キッドに至っては、アメリカの西部劇としか思えないのに、日本の話だというから驚いてしまう。
「殺人キッド」は、東京の西部の山奥に住む、一人暮らしの青年の話だ。
なんでも中の人間が悪病で死に、彼だけが生き残り、父親が残した牧場で、、銃を友として暮らしているという荒唐無稽な設定だ。拳銃の腕前はこれもまた、超人のような凄技で、一度に2羽の飛ぶ鳥を撃ち落とすというものだ。ある日、どこからか飛んできた飛行機が、一枚のビラを落とす。
「安くて心温まるサービス。」「麗人が皆様をお待ちしております。」「銀座六丁目 キャバレー・キャピタル。」ビラの言葉と、写真の美しい女に惹かされ、彼は拳銃を持って山を降りる。
彼は大都会東京で、キャバレーの客引きに騙され、美しい女に騙され、殺人をそそのかされ、ついには裁判所で裁かれる。さて、そこで彼が被告席から訴える言葉だ。どこの国の話かと、バカバカしくて読む気にもなれなかった。
「私たちの田舎では、誰もがピストルを持っていました。」「ピストルを撃つことは、常に自分を守るだけのために使われたのであって、それ以外のことでは決してない。」
「なぜ皆さんは、自分のピストルを、錆びつかせたまま隠そうとするのですか。」「みんなが、それぞれのピストルを捨てて素手になった時、」「一見の平和、一見の秩序は、うかがわれるでしょう」「しかしそれが、果たして、真実我々の望んだものでありましょうか。」
銃規制をしようとするアメリカで、頑固に反対する、ライフル協会の代表みたいな演説だ。演説の甲斐なく、彼は刑務所に入れられるが、刑期を終えた彼を待っていた組織がある。銃を持ちたい人間だけの、社会を作ろうという団体である。彼らは原子爆弾を開発し、世界中の反対者を殲滅させ、地下深くに同士だけの地下壕を作っている。
これ以上話の筋を紹介するのが面倒になったので、大きく省略する。
結末は、組織に疑いを持った彼が、時限装置のついた原爆を、地下壕で爆発させ、愛する彼女を連れて再び田舎へ戻るというものだ。拳銃の弾はどうして補充できるのか、あるいはこれまで、どうして補充出来ていたのか。都会育ちのキャバレーの女が、ほんとに彼と、何もない田舎で暮らしていけるのか。原爆はなぜ、東京をそのままにしたのか。
リアリズムのかけらもない、白日夢でしかない。
こんな小説を、読まなければ良かった。これが読後の感想だ。したがって、最後の作品は省略だ。
「三つ子の魂百までも」という言葉を、私は信憑性の高いものと、常々思つているから、一層悔やんでしまう。いくら氏が若かったとはいえ、こんな酷い小説を本気で書いていたとすれば、やっかいな話になる。
果たして氏は、本当に保守政治家だったのだろうか。日本の歴史や、文化や先祖たちを、真面目に考えていたのだろうか。
銃やヨットや、ジャズやウイスキー、ボクシングにサッカーなど、小説の舞台には、日本にあまりない背景と、小道具が飾られ、乾いた人間の会話が続けられる。時代遅れだと義理・人情が切り捨てられ、侘びもさびも語られず、日本酒の香りすらない。
氏が嫌悪するのは、個人を縛る制度や習慣であり、憎むのは、平凡な日々に流される個人だ。若かった頃の、氏の気持ちが、分からない訳でもない。
「繰り返される退屈な毎日、こんな虚しい日々で、人生をすり減らすくらいなら、」「残虐なロシアの官憲に、殴り殺される方がよっぽどましだ。」学生だった時、本気で、そう思い詰めた自分を思い出すからだ。
しかし、それは一時期のことだ。何時からか私は、日本の歴史を考えるようになり、日本が好きになり、ご先祖様が大切なものになった。石原氏が、どの時点から保守を任ずるようになったのか、詳細は知らない。
詰まらない昔の作品を読み、現在の氏を思うとき、氏もまた心の世界の嵐を、いくつも超えた人なのかと、感慨深いものがある。